求究道(ぐきゅうどう)のプロ野球講義

プロ野球について,私が聴いて,観て,感じて,発見したことを基に,新たな考えを発信していきます。 皆さんの新たな発見につながることを祈ります。 「求めるものを究める道」がペンネームです。 よろしくお願い致します。

金本知憲

プロ野球ついて,私が観て,聴いて,感じたことを基に,新たな考えを発信していきます。
皆さんの新たな発見につながることを祈ります。
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どちらもよろしくお願い致します。

2023年を振り返って 阪神タイガース前編

今回も,各チームの2023年シーズンを振り返ってみます。

今回は,阪神タイガースの前編です。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


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 まずは全体的なところから見てみます。こちらの図表をご覧ください。ce1

 今季は85勝53敗5分と,2位と圧倒的な差をつけて優勝した阪神。岡田彰布監督が復帰し,1年で18年ぶりの栄冠を勝ち取ったのです。CSも突破し,日本Sは第7戦で見事に勝利したのです。1985年以来38年ぶり2度目の日本一にまで達したのです。平成で成し遂げられなかった日本一,令和で達成できたのです。
 全体的なところ見てみますと,まずベイ以外のセ・リーグ相手に大きく貯金を作りました。特に巨人とヤクルト相手には2桁貯金となり,交流戦の借金はかすり傷にまでなったのです。ほとんどどこにもスキがないような圧勝だらけで,圧倒的な優勝になったのです。
 ホームとビジターで見てみますと,セ・リーグで唯一どちらでも貯金になったのです。ホームではカープと巨人を中心に,どこを相手にも借金してないのです。圧勝しているチームを2つ作ったことを含めて,22という大きな貯金にまで達したのです。
 ビジターでは巨人とヤクルト,東京で圧倒的に強かったのです。広島と横浜と交流戦で借金にはなったものの,東京たくさん作った貯金が功を奏したのです。
 以上を踏まえますと,圧勝したところを2つ以上作ったということが大きいと思います。そのため,多少借金になるところが出たとしても,かすり傷で済んだということになるのです。得意な試合を決して取りこぼししなかったというのが,優勝する上で大きいという証明になったと思うのです。
 次に,こちらの図表をご覧ください。ce2

 序盤は5割以上という好スタートを切り,5月は8割近くととんでもない圧勝を見せていたのです。6月は.350近くと急下降したものの,そこから巻き返して8月には7割を超える圧勝を再び見せたのです。その勢いは終盤まで下がらず,圧倒的な優勝に至ったのです。絶好調の時が長く続いたことで,下がった6月はかすり傷ということになったのです。
 次に,こちらの図表をご覧ください。ce3

 投手陣は全体的に絶不調という期間が全くないのです。6月に3点より悪くなる成績ではあったものの,他球団に差をつけられたわけでもありません。そこから再び2点台に盛り返して,その勢いが下がることはなかったのです。
 次に,こちらの図表をご覧ください。ce4

 打撃面でもこれといって不調という期間がほとんどないのです。6,7月で下がってきてはいるものの,各チームの最も悪い時と比べると数字が全然違うのです。8月に驚異的に盛り返すと,その勢いは最後まで衰えなかったのです。
 この2つを合わせた図表がこちらです。ce5

 1点以上と圧倒的なプラスになる期間が長い上に,シーズン通してプラスを維持しています。どちらでも他球団に圧倒的な差をつけ,シーズン通してスキのない戦いができていたということになるのです。ここまでの数字が出てしまうと,「圧勝するのも当然か」と思ってしまうものです。
 まとめますと,どの数字を見ても「圧勝して当然だよね」と思えてしまうのです。シーズン通してプラスを維持して,得意相手の取りこぼしをしない。どの部分を見ても,「優勝して当然だよね」と感じるものです。優勝する方法を見せられたようにも捉えられるのです。


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 まず岡田については,以下のリンクをクリックしてご覧ください。



 今季から2004年から08年までの5年間監督をした岡田が復帰し,第2次政権が発足したのです。自身が成し遂げた05年以来の優勝を目指し,フロントも復帰を決めたのです。その結果,第1次政権以来の優勝を勝ち取り,その時にできなかった日本一にまでなったのです。1年で岡田は救世主になったのです。
 第2次政権を実行するにあたって,岡田がやりそうなこととして「打順とポジションを断固として変えない」「新たな『JFK』の形成」「守りの野球がベース」と予想しました。課題としては,「第1次政権とオリックス監督を振り返ってのアップデート」を挙げていました。
 やりそうなことについては,ほとんどその通りということになりました。適材適所に打順とポジションを配置し,余程のことがない限りは動かしませんでした。特に打順の要である1番近本,4番大山を故障時以外に動かさなかったのは,前政権ではなかったことです。
 このようにすることで,選手は自分の役割が明確に把握できるようになったと思います。それによって,自分がやるべきことを実行しやすくなったのではないでしょうか?適材適所に選手を配置して動かさなかったことで,選手はどっしり構えて野球をやり続けることができたと思うのです。
 また,投手を中心とする守りの野球も実行できていました。村上や大竹といった新たな選手が台頭,適材適所に守備を配置して固定したこと。こうしたことが功を奏して,岡田の考える野球がシーズン通してできたと思うのです。元々ある程度の土台は出来ていたので,岡田が最高の形で活かしてあげたと言っていいのではないでそうか?
 あとは第1次政権やオリックス監督時代になかったことも実行していたと思います。わいわいまで行かずとも,選手と喜怒哀楽を共有するようになったように見えるのです。この変化は岡田の妻も感じていたとのことです。「今の選手にはそうした方がいい」と岡田が思って実行したのかもしれません。
 この変化によって,選手は勢いがつきやすくなったのかもしれません。油断大敵というのは当然ですけど,あまりにも締めすぎると勢いある時に勝ちを稼げなくなる可能性もあるのです。あえて表現するのなら,岡田は評論家時代も踏まえて締め方と外し方がうまくなったと言えばいいでしょうか?
 以上のように,岡田のやりたい野球はほとんど実行でき,また第1次政権よりもよくなったところもあると考えられるのです。岡田自身がアップデートしたということで,第1次政権で成し遂げられなかった日本一にまで達したと思うのです。
 岡田の構想通りでないと思うのは,新たな「JFK」を固定できなかったところだと思います。湯浅が長期離脱したことで,当初の構想は崩れたのではないでしょうか?それでもうまく様々な選手を起用して,クローザー岩崎を活かせるようにはしたと思います。あくまでも岡田が固定に拘るのなら,来季はしっかりと7,8,9回のセットアッパーとクローザーを固定していくのかもしれません。
 とはいえ,今季は岡田によって花が咲いたと言っていいと思います。ただし,これは金本知憲と矢野燿大という2人の監督による土台があってのことです。
 金本が積極的に若い選手を起用したことで「種を蒔く」ことになりました。その経験値を次の矢野が活かして「水をやる」ことになったのです。その上で,岡田が適材適所に選手を起用することで「花を咲かせた」に至ったと思うのです。
 前の政権を岡田が活かしたことで,2人の監督も報われたのかもしれません。2016年に金本が監督に就任してから,8年かけて優勝・日本一に至ったということになりますね。やはり監督1人だけの力量だけで優勝はできないということを,改めて様々な人が知るいい事例ではないでしょうか?


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 それでは投手面を見てみます。こちらの図表をご覧ください。ta

 昨季同様,防御率もWHIPもセ・リーグトップをキープしました。その上セーブ数を劇的に伸ばし,勝ちにつなげる体制を強化したのです。昨季もトップだったQSやHQSも数字を伸ばし,どこにもスキがないような投手陣になったと思うのです。
 私なりに意外に思ったのは,完投がリーグトップということです。岡田は「JFK」などリリーフリレーで逃げ切ることが多いというイメージだけに,完投は少ないのではと思ったのです。昨季より数字は減ったものの,リーグトップは変わらなかったのです。完投できるところはしっかりさせることで,リリーフ陣とバランスよく起用できたのではないでしょうか?
 それでは先発陣を見てみます。こちらの図表をご覧ください。tb

 今季は伊藤将司と村上がいずれも初めて規定投球回に達し,大竹と共に2桁勝利も記録しました。その上才木,西勇輝,青柳も勝利を8つずつ稼ぎ,6人で56勝を稼いだということになったのです。先発の軸がしっかり左右整って,プラスアルファも十分すぎるくらいにありました。
 完投が多いことになったのは,完封が多かったからでもあります。完投した中でほとんどが完封を兼ねており,完封でない完投は4回です。完封という先発が絶好調の時がそれなりにあったことで,それを逃さないことでリリーフ陣が助かったということが言えそうです。
 今季は西勇輝や青柳といった昨季の主力が揃って不調ということもあり,どうなるかと思っていました。そこにセ・リーグMVPの村上という救世主が現れ,現役ドラフトで獲得した大竹が大活躍しました。伊藤将司も初めて規定投球回に達し,こうしたことが合わさって先発の軸を確保できたのです。
 また,伊藤将司も村上も規定投球回ギリギリであり,大竹も達してはいません。いずれも経験値が乏しいということもあり,無理に長いイニング投げさせることではなく,シーズン通しての安定感を重視した起用の結果だと思います。
 アクシデントはあったものの,トータルで貯金を稼げる先発陣になったと思います。村上がMVPになったものの,誰か1人の力ではなく全員で勝てる先発陣という形態になったのです。メンツを見た上で,首脳陣がそのように作ることを決めたのかもしれません。
 次にリリーフ陣を見てみます。こちらの図表をご覧ください。tc

 当初は湯浅をクローザーにする予定だったものの,序盤から故障で長期離脱を余儀なくされました。代わってクローザー経験のある岩崎を据えて,セーブ王になるまでになったのです。9回については,アクシデントを乗り越えたということになります。
 7,8回については,誰かを固定して起用する「JFK」方式を採りませんでした。その時の調子などで選手起用することになったのです。これは「JFK」の時とは対照的な起用法なのです。そのため,誰か1人がものすごくホールドを稼いだ結果になってないのです。
 そのため,ここに挙げた選手のほとんどが「登板数≧イニング数」という数字になっているのです。イニングの途中で交代させることもよくあり,これは第1次政権ではなかなかなかったのです。リリーフでも誰か1人の力ではなく,全員の力で乗り切ったということができるのです。
 その結果,トータルで防御率のいいリリーフ陣になったのです。石井の台頭や島本の復活,桐敷の途中転向などが実ったということになります。若干左が多く集まった形になりましたけど,左キラーが集まるなどして功を奏したのかもしれません。
 ただ来季において気になるのが,このスクランブル登板のひずみが出ないかということです。首脳陣が選手にある程度起用法を事前に言っていたとは思いますけど,選手はいつ出るか分からない中でスタンバイしていたのかもしれません。そのため,実際に登板せずとも肩を作っていた日もどれくらいあるのかと思うのです。
 そこに向けての準備が疎かになっていれば,同じ起用をしても選手の疲労が一気にどこかで出るのかもしれません。選手のアフターケアを含めて,どう解決していくのでしょうか?もしかしたら,来季こそ「JFK」のように7,8回のセットアッパーを固定するのかもしれません。
 以上を踏まえますと,今季は誰か1人を軸にするというよりは,全員の力で強力な投手陣を作ったと言えるのです。経験値の乏しい選手に対して,いくら素質があっても「お前が軸になれ」という起用法をしてないのです。あくまでも選手全員を底上げするような起用法をして,それでも勝てる投手陣にしたという感じなのです。
 まあ,それも岩崎という確固たるクローザーが軸になっていたからかもしれません。そこまで離脱していれば,経験値の乏しい誰かにクローザーを託すしかなくなります。そうなりますと,岡田の考える逃げ切る野球ができてなかったのかもしれません。岩崎がMVPでもよかったように,私は思うのです。


次回は,阪神タイガースの中編です。

それでは,またよろしくお願い致します。



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横田慎太郎,三浦貴,亡くなる

本当は訃報が出た時に触れるべきだったと思います。

本日,またしても訃報が出たので,あわせて触れることにします。


7月18日に,阪神の選手だった横田慎太郎が亡くなりました。

28歳でした。


横田は1995年6月9日,鹿児島県日置市で生まれました。

鹿児島実業高校から,2013年ドラフト2位で阪神タイガースに入団します。

同じ左打の外野手ということで,この年限りで引退した桧山進次郎の背番号「24」を受け継いだのです。


一軍デビューは,3年目となる2016年です。

この年から監督に就任した金本知憲が,開幕から若い選手を抜擢したのです。

横田もその中に入り,開幕戦で「2番・センター」でプロ初出場となったのです。

父親の横田真之もプロ野球選手で,ロッテ時代に開幕戦に出場しました。

「親子選手による一軍開幕スタメン出場」は,NPB史上5人目のことです。

開幕戦で一軍初盗塁を記録し,翌日はプロ初ヒットも打ったのです。

持ち味の俊足を活かして,この年横田は38試合出場し4盗塁を決めたのです。

新たな切り込み隊長候補として,ファンも期待が高まったと思います。


ところが翌17年のキャンプで,横田は原因不明の頭痛に悩まされるのです。

それからしばらくチームを離れ,トレーニングを再開したのは9月なのです。

それと同時に,精密検査で脳腫瘍にかかっており,治療していたということが発表されたのです。

当時の私は,何故長く離脱していたのかも気になっており,その理由があまりにも衝撃的でした。

「まさか,それが理由だったとは…」という気持ちでしたね。

オフに横田は育成契約となり,もう一度支配下登録されるよう取り組んでいました。


実践復帰に取り組んでいたものの,視覚面の問題が解消されないのです。

球が二重に見える,自分で打った打球が見えないという状況とのことです。

19年限りで,横田は現役引退を発表しました。

ファームでの最終戦で出場し,ここで「奇跡のバックホーム」を見せたのです。

センターへ転がった打球を捕り,バックホームします。

これがノーバウンドでアウトとなり,最後の補殺に成功するのです。

試合後は引退セレモニーが行われました。

一軍出場は16年の38試合のみで,6年間の現役時代を終えたのです。


それから横田は故郷に帰り,講演やコラム執筆活動を始めます。

阪神OBの川藤幸三のYouTubeに,プロデューサーとして参画したのです。

その後,今度は脊髄に腫瘍ができたものの,治療で消滅させたのです。

『奇跡のバックホーム』という本を出し,間宮祥太朗によるドラマ化にも至ったのです。
奇跡のバックホーム (幻冬舎文庫)
横田慎太郎
幻冬舎
2022-07-07


今年3月に腫瘍が再々発し,とうとう右目を失明したのです。

それからとうとう亡くなってしまったのです。


3年目で開幕戦に大抜擢されたことは,今でも覚えています。

「金本政権から新しい阪神が誕生する」という期待の中に横田もいました。

横田本人も「ここからがプロ野球選手の始まりだ」と意気込んでいたはずです。

その矢先に脳腫瘍が発覚し,それからは亡くなるまで戦い続けることとなるのです。

何度も立ち上がろうとして,引退後も何かを残そうと取り組んでいました。

様々な野球人の助力などを得ていたということから,横田がどのように取り組んでいたのかが想像できます。

現役時代にできなかったことを,これからの人生でやってほしいという思いでした。

それだけに,何でこのような結果になったのかとやり切れない思いでいます。



本日,プロ野球界に訃報が入りました。

巨人や西武でプレーしていた三浦貴が亡くなりました。

45歳でした。


三浦は1978年5月21日に,埼玉県与野市(現: さいたま市)で生まれました。

浦和学院高校,東洋大学を経て,2000年ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団します。

1年目から中継ぎの一角として一軍で出場するのです。

條辺剛,岡島秀樹と共に,新たなリリーフリレーに入ったのです。

この年49試合登板し,防御率は3.41でした。

まさに,新たな巨人の救世主になるかと思われました。


しかし翌年に,頭部への死球で危険球退場の第1号になったのです。

それから制球が定まらず,この年は3試合に終わったのです。

翌03年から,原辰徳監督の勧めで野手に転向したのです。

この年に一軍でプロ初本塁打を放ち,野手でも大きな期待を寄せたのです。


しかし,大型補強を続ける巨人の戦力になるのは,ファームから這い上がるからは困難になっていました。

三浦はファームでこそクリーンアップを打つものの,一軍ではなかなか打てませんでした。

07年は4試合の出場に終わり,オフに戦力外通告を受けたのです。


年末恒例の『プロ野球戦力外通告』で,家族とともに取材されたのです。

三浦は1年目のシーズンオフに,貴子さんと結婚しました。

奥さんと一文字違いなんですよね。

貴子さんとは幼稚園からの幼馴染で,小さい頃からずっと三浦を見ていたのです。

家族のためにと,三浦はトライアウトに挑んだのです。

しかし2度受験してもオファーはなく,一度は引退を決めたのです。

ところが取材後でしょうか,急遽三浦は埼玉西武ライオンズに入団することとなったのです。

この年オフに和田一浩がFAで中日に,石井一久のFA補償で福地寿樹がヤクルトに移籍しました。

それによって,右打の外野手が手薄になったからだと思います。

急転直下,三浦は地元球団で再スタートとなったのです。

一度は引退を決めていただけに,家族も大いに喜んだのではないかと思うのです。


西武でもファームで打ちまくり,何とか生き残ろうと必死に取り組み続けました。

09年は22試合出場し,最終戦はスタメン出場で安打も放ちました。

しかしオフに再び戦力外通告を受けて,トライアウトを再び受験します。

獲得球団は現れず,現役引退を決めたのです。

現役生活9年で,1年目に登板を重ねた以外に輝くことはなかったのです。


引退後は母校の浦和学院の監督に誘われ,運送業をしながら教員免許を取得したのです。

三浦は教員を勤めながら,13年7月から野球部のコーチを務めることになったのです。

恩師である森士(もり・おさむ)の下で,後輩の育成に取り組んだのです。

後に息子の大(だい)が監督を継ぎ,三浦は親子を支える存在になっていたのです。


そんな中,22年3月に三浦は大腸がんと診断され,治療に専念していました。

今年の春先に復帰したものの,6月に再び体調が悪化しました。

容体が急変し,7月24日に亡くなったのです。

今日試合予定の浦和学院の選手たち,何を思っているのでしょうか?


私が三浦に対して一番覚えているのは,元日に放送されていた『スポーツマンNo.1決定戦』です。

あれ,マジで元日唯一の大きな楽しみでした。

三浦は1年目オフに出場し,モンスターボックス(跳び箱)で19段を跳んだのです。

これはサッカーの福西崇史,芸能人なら照英,ワッキー,白川裕次郎(純烈)と同じ記録です。

テイル・インポッシブル(長距離走)では,なんとナンバーワンになったのです。

跳躍力や持久力を中心に,身体能力の高さを見せたのです。

04年の大会にも出場し,跳び箱で自己記録更新の20段を跳んだのです。

ハンドボールの宮﨑大輔,トランポリンの中田大輔,芸能人なら森渉や佐野岳と同じ記録です。

体操選手でも跳べない記録を,三浦はやって見せたのです。

長距離走で再びナンバーワンとなり,三浦は総合ナンバーワンに輝いたのです。

池谷直樹やケイン・コスギに勝ったのです。

翌05年は,ディフェンディングチャンピオンとして,黄色ゼッケンで出場となったのです。

サッカー選手が多い中で,再び長距離走でナンバーワンになったのです。

この年は総合で3位となり,やはり身体能力の高さを見せたのです。


『スポーツマンNo.1決定戦』での活躍から,身体能力の高さを三浦は証明しました。

それだけに,野球でも化けるのではないかと私は思っていたのです。

当時の巨人は,04年のタフィ・ローズや小久保裕紀,06年の李承燁,07年の谷佳知と小笠原道大。

といったように,どんどん他球団から有力選手を獲得していました。

その一方で,ファームでなかなかチャンスももらえない選手も多かったと記憶しています。

スワローズファンの私は,「三浦使わないからくれよ」と思っていました。

当時のスワローズは,岩村明憲がMLBへ行ったことで,サードのレギュラー不在になっていたのです。

三浦を獲得したら面白いのではと,思っていた時期もあったのです。

そうしたことで,私の中の記憶に三浦貴は残っているのです。


横田も三浦も,プロ野球界で大きな成績を残すことはできませんでした。

それでも,確かに2人をヒーローと思う人はいると思うのです。

横田は何度も立ち上がろうとし,そこに手を差し伸べたり励ます人がいます。

三浦も家族の存在があり,また教えを乞う後輩もいます。

球界でヒーローになれずとも,誰かのヒーローになっていたのではないかと私は思います。

そうした人たちにとって,こうした訃報のショックは計り知れないのです。

これは当事者でないと分かりません。


そのような人たちに,横田と三浦は確かな何かを残したのではないかと思うのです。

それがどれくらい大きいものなのか,それも当事者しか分かりません。

私の中にも,記憶に残ったものが2人に対してあるというだけです。


しかし,2人とも早すぎる永眠です。

まだまだやりたいこと,やらねばならないことがあったと思います。

一体,どのようにして人の生きる長さは決められているのでしょうか?

もしも天や神というのがいるのなら,その答えを教えてほしいものです。


横田慎太郎さん

三浦貴さん

本当にありがとうございます



合掌

監督学 新井貴浩編

今回は,「監督学」シリーズを書いてみます。

第42弾は,2023年シーズンから広島東洋カープの監督を務める新井貴浩です。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


まずは,新井の簡単なプロフィールから書きます。

1977年1月30日,広島市で生まれました。

県立広島工業高校を経て,駒澤大学でプレーします。

1998年ドラフト6位で広島東洋カープに入団します。

1年目から一軍出場し,7本塁打を放ちます。

2年目に16本塁打を放つと,4年目にはレギュラーに定着します。

全試合出場して,28本塁打を記録するのです。

翌2003年から4番を打つものの,19本塁打と昨季より成績を落とします。

04年は規定打席に達成できず,10本塁打に終わるのです。

05年は返り咲きを見せて,43本塁打で初の本塁打王に輝きます。

打率も初めて3割をマークすると,翌年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選ばれます。

WBCの優勝に貢献すると,この年は再び全試合出場して,初めて100打点を超えるのです。

07年も全試合出場し,28本塁打と102打点を記録し,カープの主砲として存在感を見せてきます。

この年のオフにFA宣言を行使し,阪神タイガースに移籍します。

08年は北京五輪の代表に選ばれ,日本の4番を打つのです。

また,この年の12月から日本プロ野球選手会の会長に就任します。

2010年は打率.311,112打点と自己最高を更新します。

11年は93打点で,初の打点王に輝きます。

その後も阪神の4番を打つものの,14年は規定打席に達せず3本塁打に終わるのです。

オフに自由契約となると,古巣カープに復帰します。

15年は再び規定打席に達して,レギュラー返り咲きを見せるのです。

翌16年にカープは優勝し,新井は初めてチームの優勝を経験するのです。

この年,打率3割,19本塁打,101打点を記録し,セ・リーグMVPに選ばれるのです。

この年の4月には2000本安打を達成し,名球会入りを果たします。

18年に63試合の出場に終わると,この年限りで現役を引退します。

カープで3連覇を経験し,それを置き土産にバットを置くのです。

その後は解説者や評論家を務めます。

そして23年シーズンより,広島東洋カープの監督を務めることとなるのです。

マーティ・ブラウン以来の生え抜きでない監督となるのです。

広島で生まれてカープでプレーし,阪神という他の野球も経験しました。

カープが大好きな気持ちを持ち,監督としてチームの再建に挑むのです。


以上,新井の簡単なプロフィールでした。


次に,新井が現役時代に仕えていた監督を見てみます。

こちらの図表をご覧ください。
新井1

侍ジャパン以外で優勝を経験したのは,緒方孝市監督の時だけです。

それ以外での優勝経験監督を挙げれば,山本や岡田もいます。

「教材」として豊富かと言われますと,様々ところで優勝してない分微妙です。

名将と言われる王貞治や星野仙一にしても,国際大会の時のみです。

こうした歩みの中で,新井自身がどのように学んでいったか次第ということになりますね。


それでは,仕えた監督に対して新井がどのように思っているのかを書いてみます。

●山本浩二

 新井が3年目となる2001年から,山本浩二が再びカープの監督に就任しました。1991年にカープが優勝した時の監督です。その時以来の優勝を狙っての再就任だと思います。
 金本知憲が阪神に移籍した03年から,新井はカープの4番を託されます。前年に好成績を残したということもあり,山本は新井に新たな主砲を託したのです。
 しかし,4番の重圧になかなか勝てず,新井は結果を出せなかったのです。それでも山本は新井を4番から外しませんでした。
 そんな中のある試合で,山本は新井を監督室に呼びました。新井を座らせると,「苦しいか?」と尋ねました。その言葉に,新井は涙をこらえることができませんでした。そんな新井を見て山本は,
 「つらいか?苦しいだろう。でもな,おれもおまえと同じ経験をしてきたんだよ」
 と続けたのです。新井は「すいません」と言うのが精一杯でした。その試合から,新井は4番から外れたのです。
 山本もかつて,「ミスター赤ヘル」としてカープの4番を打ち続けていました。4番の重圧は痛いほど知っており,最初に4番を託され続けた時の苦しさも身に染みていると思います。そんな経験を話しながら,山本は新井に寄り添う時ではないかと判断したのかもしれません。
 新井としては,打てなくても4番で起用し続けた山本の方が余程つらかったのではと思いました。そう考えると申し訳なく,自分が情けなく感じたのです。それと同時に,新井は決意を固めます。
 「絶対にもう一度四番を打ってやる!」
 このようなこともあり,新井は「浩二さんを胴上げしたい」と人一倍思いを抱くようになったのです。04年はさらなる不振になったものの,05年に再び4番を打つようになって本塁打王となったのです。
 ただ,その年限りで山本は監督を辞任しました。山本は新井に,「もう大丈夫だろう。がんばれよ」と言いました。その言葉が嬉しかったのと同時に,「もう少し早くなんとかなっていれば,迷惑をかけることもなかったのに…」と自責の念も感じたのです。山本を胴上げできなかったことに対して,新井は申し訳なさを強く思っていたのです。
 そんな新井が北京五輪で日本代表に選ばれると,山本は打撃コーチとなって再び一緒に戦うこととなったのです。日本の4番を託された新井に対して,山本はポツリと言います。
 「おまえがここまで成長しているとは思わなかったよ…」
 カープ時代,山本は新井を褒めなかったとのことです。それだけに,初めて褒められたのです。新井はとても嬉しかったと語ります。
 少年時代は,「ミスター赤ヘル」として4番を打っていた山本を新井は見ていました。今度は選手と監督として,カープの4番を受け継ぐこととなりました。4番を打つ苦しさを知っている山本が言葉をかけたからこそ,新井の琴線に触れたのかもしれないのです。「4番の苦しさ」という点で,新井は山本から何かを受け継いだのかもしれません。
 今度は,新井が誰かにカープの4番を託す側となります。誰に託して,どれだけ辛抱して起用していくのでしょうか?もしも苦しんでいるときは,かつて自分がかけられたような言葉を出すのでしょうか?


●マーティ・ブラウン

 山本の後を受けて,06年からマーティ・ブラウンがカープの監督となりました。現役時代に92年から94年までカープでプレーしており,引退後はMLBのマイナーリーグの監督を務めていました。かつて日本でプレーした外国人OBに,チームの再建を託すこととなったのです。
 ブラウンは就任すると,キャプテン制を復活させます。投手キャプテンとなった黒田博樹と共に,新井の2人をチームの中心に据えるようになったのです。2人がチームを引っ張るようにブラウンは言って,キャンプからの調整を全て任せたのです。
 それまでの新井は「やらされる練習」が中心でした。しかし,ブラウンが監督になってから自分自身で考えて調整することを求められたのです。いっぱしの選手として認められた一方で,新井は責任が生まれるという怖さも感じるのです。
 それから新井は周りのことを考えられるようになっていきます。入団してしばらくは自分の練習で手いっぱいでした。そこから自分に余裕ができたということで,チームのことも気にしなければいけないと考えるようになったのです。ブラウンの監督就任は,新井にとって大きな転機となったのです。
 新井がブラウンから学んだことは,コミュニケーションの大切さです。ブラウンは選手一人ひとりの気持ちに寄り添って対話していると,新井は感じていたのです。常日頃から積極的に選手に話しかけていました。中堅・ベテランは一言えば十くらいは分かってもらえると信頼していたので,主に若い選手や控え選手に話しかけていたとのことです。
 それを新井はその後の人生に活かしていたのです。2015年にカープに復帰すると,新井は多くコミュニケーションを取るようにしたのです。一緒に食事に行くなどして,野球のこともいろいろ話したりしたのです。この頃はベテランになっていたこともあり,ブラウンと同様に新井自ら選手に寄り添う方がいいと思ったのかもしれないのです。
 今度は新井が監督として選手と接することとなります。ブラウン政権の4年間でAクラス入りとはなりませんでしたけど,新井は大切なものを学んだのです。引退してからそれほど時が経っていないので,コミュニケーションを取るなら若い選手が最初は中心となりそうです。果たして,新井はブラウンと同様に選手に寄り添うことを選ぶのでしょうか?

●和田豊

 2012年の開幕戦,新井は和田豊から4番を託されます。「四番はおまえに任せる。頼むぞ」と言って,阪神の4番に指名したのです。前年不振だった金本に代わって,新井が阪神でも4番を打つこととなったのです。
 しかし,新井は4番でなかなか打てず,4番どころかスタメンすら外されたのです。前年に打点王に輝いた実績を残していたものの,4番でそれを発揮することができなかったのです。この年から,新井は不振気味に陥ってくるのです。
 そして,14年に向けて球団は新外国人のマウロ・ゴメスを獲得します。ポジションはファーストで,新井と重複します。この時が3年契約の3年目ということもあり,新井は危機感を持ちます。
 一方で,高額年俸でゴメスを獲得したことで,「競争なんてあるわけないじゃないか」と思ってもいたのです。和田や球団社長からは「競争だからな」と言われました。紙面でも「熾烈なファーストのポジション争い」と書かれたこともあり,新井は開幕スタメンに向けて奮起します。
 オープン戦で新井の調子が良かったことや,ゴメスの来日が遅れたこともあり,新井は開幕に向けて手ごたえを感じていました。いよいよ開幕戦というところで,和田は新井を呼んで話をしました。
 「ゴメスはダメかもしれない。それでも最初はゴメスでいくが,ダメだった時は頼む。気を抜かずに用意をしておいてくれ」
 新井は自分の耳を疑い,言葉が出なかったのです。「それなら,最初から競争なんて言うなよ」と思ったのです。開幕戦はゴメスが「4番ファースト」で出場し,新井はスタメンにすら入れなかったのです。結局,この年における新井の最初のスタメンは交流戦に入ってからなのです。
 新井は代打でも何でも頑張ると気持ちを切り替えようとしました。しかし,どこか上がり切らないところがあると語るのです。結局この年,新井は94試合の出場に終わり,10年ぶりに規定打席に達しなかったのです。
 それでもチームはクライマックスシリーズ(CS)を突破し,9年ぶりに日本シリーズに進出できたのです。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも,新井はスタメンではありませんでした。それでも第3戦からはDH制となり,新井がスタメンになる可能性が浮上したのです。
 この時の新井は腰痛を抱えていたものの,ベンチ入りは出来ていました。第3戦は左腕の大隣憲司が先発予想されており,新井の出場も十分考えられていました。首脳陣は新井に,「無理はしなくてもいい。大隣が来る時に合わせて調整してくれ」と言います。新井はなんとか出場できるまでに調整しました。
 しかし,大隣が先発でも新井はスタメンではありませんでした。第3戦に負けたということもあり,新井の心中は完全に冷めていたのです。結局,日本シリーズで新井のスタメンはなく,阪神も敗れたのです。
 これが決定打となり,新井は「ここでは競争できない。いくら頑張ってもムダだ」と思うようになったのです。オフに制限を超える減額幅の金額を提示されると,新井は拒否して自由契約を選んだのです。こうして,新井の阪神での7年間は終わったのです。
 私は決して,和田の全てが悪かったとは思いません。その時のチームの需要に合わせて,ベストだと思う選手を起用するのは監督として当然のことだと思います。新井が大人になり切れてないというところもあると考えることもできます。
 しかし,この方法はTVゲームなら全然それでいいと思います。実際にプレーしているのは人間で,感情やプライドなども持っています。和田の新井への接し方は,それを踏まえた上での配慮が足りなかったのではないかと思います。もしかしたら,何も言わない方が新井自身で考えて行動するということでよかったのかもしれないのです。
 この経験から,新井は無責任な言動が,どれだけ選手に影響を与えるのか分かっていると思うのです。「自分が嫌なことは人にするな」という気持ちも持っているはずです。本当はベンチに回したいと思っても,言動が間違っていると監督の思うような動きにもならないのかもしれません。
 このことを身に染みた上で,新井は選手にどのような言葉をかけるのでしょうか?少なくとも,スタメンを張っていた選手を簡単にベンチ要員にすることはないかと思うのです。


●緒方孝市

 2015年から新井はカープに復帰し,同じ時に緒方孝市が監督に就任します。かつては先輩と後輩として共に戦ってきたものの,今度は監督と選手としての関係となるのです。
 就任したばかりの緒方と顔を合わせると,「お前,全く違和感ないな」と声をかけられるのです。FAで裏切るような形で去っただけに,新井は復帰という決断に不安を抱いていました。それを緒方は感じたのか,その言葉によって新井は少し安心したというか,嬉しい気持ちになったと語ります。
 現役時代の緒方は,新井にとっては大きな先輩でした。その時と比べると,監督になってからの緒方はイメージが変わったとのことです。積極的にコミュニケーションを取っていたとのことです。
 カープに復帰して,新井は開幕に向けて張り切って調整していました。しかし,それが空回りしていたのか肘を痛めたのです。開幕に間に合うかどうかわからない中,一軍登録メンバー発表の前日に新井は緒方に呼び出されたのです。
 「お前,いけるよな?開幕メンバー,登録するぞ」
 新井の気持ちは上がり,「もちろん,いけます。お願いします!」と即答したのです。もしも,「いけるか?ダメなら無理はするなよ」という言い方なら,そんな気持ちになれなかったと新井は語るのです。
 緒方の言葉によって,新井は自分が必要されていると意気を感じたのです。この言葉は嬉しかったと語ります。緒方が新井のそのような性格を知っていたからこそ,このような言葉を出したのかもしれません。
 新井は開幕戦に代打で出場し,マツダスタジアムで大歓声を受けたのです。緒方の言葉がなかったら,この瞬間はなかったのかもしれません。新井は緒方に本当に感謝していると語るのです。
 緒方によって,カープは16年から18年まで3連覇を果たしました。新井にとっては初めての優勝を経験し,16年はセ・リーグMVPに選ばれたのです。緒方監督の下で,新井は初めてだらけの経験をたくさんできたのです。
 その始まりは,復帰1年目の緒方の言葉なのかもしれません。今度は新井の方から,選手が意気に感じるような言葉をかける時が来ます。どのような言葉を選び,選手のモチベーションを上げていくのでしょうか?
 なお,緒方について詳しくは「監督学 緒方孝市編」をクリックしてご覧ください。


●金本知憲

 金本が監督を務めていた時,新井はチームメイトではありませんでした。しかし,新井が大きく影響を受けた先輩ではあります。そのため,今回は入れさせていただくことにします。
 新井がカープに入団した時,金本はすでに主力選手でした。その時から金本は新井に声をかけて,いたずらをするなどの関係となったのです。TVで金本の発言を聞くと,笑いが起こるくらいになっていたと思います。
 そんな金本から新井が学んだことはたくさんあります。あえて一つだけ挙げるとすれば,愚痴をこぼしたり,言い訳をしたりしないということです。金本は一切口にせず,「今に見ておけよ」と反骨心に変えるのです。それで試合出場を続け,結果を出し続けていたのです。
 2001年,新井は調子が上がって,レギュラー定着の可能性が出てきたのです。そう思っていると,5月にアキレス腱を痛めるのです。足を引きずらないと歩けない状況だったのです。
 その状態で球場に向かうと,金本が「試合,どうするんや」と聞きます。新井は「いや,出られるかちょっとわからないです」と答えます,すると金本は,強い口調で言います。
 「骨が折れてないんだったら,絶対に出ろ。おまえは休む怖さを知らない。もし代わりに出場した奴が活躍したら,おまえはもう出られないんだぞ」
 そう言われたものの,新井は「チームに迷惑がかかる」と思って欠場しました。すると,代わりに出場したエディ・ディアスが活躍して,レギュラー枠が1つなくなったのです。アキレス腱痛が軽傷だっただけに,新井はなおさら悔やんだのです。「だからあれだけ言ったのに…」と,金本に怒られたとのことです。
 新井が欠場したのは,「チームに迷惑がかかるから」というものです。その点はどうなのかと,金本に尋ねてみました。金本は答えます。
 「練習で2割,3割できれば,試合になればアドレナリンが出るから,勝手に身体が動く,少しくらいのケガなら絶対にできるんだ」
 金本自身,若い頃はケガが多かったです。それで欠場することで,なかなかレギュラー定着に至りませんでした。そのような経験があるからこそ,新井に強い口調でしゃべったのだと思うのです。
 それからの新井は,多少の痛さや故障なら気力を振り絞って出場を続けました。それが仇になったこともあるものの,新井は主力選手として活躍を続けることができたのです。
 新井がFAで阪神に移籍したのも,金本と共にプレーしたいという思いが一番の理由でした。だからこそFAを行使する会見で,涙ながらに「FAなんてなければいいのに」と本音が出てしまったのです。阪神でも金本の背中を追い続けて,共にプレーしていたのです。
 そんな金本が12年限りで引退し,新井にとっては追い続ける背中がなくなりました。それでも新井は,新たなモチベーションが出たと語ります。
 「お前,すげえじゃん…」
 金本にそのように言われるように奮起するということなのです。金本が引退しても,新井の生きていく上での指標であり続けたのです。それが現実になった時,お世話になった金本への恩返しと考えていたのです。
 結果として,金本と同様に名球会に入れたものの,新井は本塁打などどのジャンルでも金本に勝てなかったのです。新井が求めていた言葉を,金本が心の底から出すことがあったのでしょうか?
 金本は16年から18年までの3年間,阪神の監督を務めました。その一方で,今度は新井が23年からカープの監督に就任します。金本が成し遂げられなかった優勝をできた時こそ,新井が求めている言葉が出てくるのかもしれません。監督を務める上でも,やはり金本が指標となるのでしょうか?
 そんな金本は著書で,新井について語っています。まず褒めることはなく,「みんな,新井のことを過大評価しているように思える」と語ります。その中で一番ダメなところは,気分で練習するところと語ります。練習嫌いなのは,カープ時代から有名な話とのことです。
 ただし,人間的にはいいやつと評価もしています。だからこそ,いい成績を残してほしいところがある。そんな願望も金本は持っていたのです。
 新井が監督になっても,金本は辛口で評価するのだと思います。まあ,新井も褒めてもらえるような期待は持ってないのではないでしょうか?果たして,優勝して監督として金本超えとなるのでしょうか?


●黒田博樹

 黒田もまた,新井が仕えた監督ではありません。しかし,新井を語る上で欠かせない1人です。なので,ここに入れさせていただくことにします。
 黒田は新井の2つ上です。同じ時期に頭角を現したこともあるのか,グラウンド内外にも関わらずお互いに野球の話をしていました。黒田は早い時期から言っていたことがあります。
 「オレはピッチャーを引っ張っていけるように頑張るから,お前は野手を引っ張っていけるように頑張れ」
 その通りになったのは,06年のことです。前述の通りブラウンが監督に就任すると,黒田と新井にそれぞれ引っ張っていく存在になるよう言われたのです。その時も,黒田は新井に言います。
 「お前はもう,チーム内での競争はないのだから,チームという小さい枠で物事を考えたらダメだぞ」
 「横浜にお前と似たタイプで,4番を打っている村田という奴がいるだろう。村田には絶対に負けないという気持ちを持て。これからは,外を見ておけよ。自分よりも成績がいい選手を見て,そいつに勝ちたいと思ってやれ」
 当時,ベイスターズに村田修一という選手がいました。ポジションが新井と同じサードで,新井の後に本塁打王になった選手です。黒田は新井に,内部での競争がなくなったら,次は外に目を向けてライバル心を燃やすようアドバイスしたのです。
 この言葉に対して新井は,次のように感じました。
 「視野を広げて外に目を向ければ,考え方や行動も変わってくる。その頃からそういうことを考えていた黒田さんは,やっぱりすごいと思う」
 新井の視野が広くなったのには,黒田の助言があったのです。後にプロ野球選手会会長を託されたのも,ここがルーツなのかもしれないのです。
 その後,07年オフに共にFAでカープを去ると,15年にお互いにカープに復帰するのです。お互いにカープの優勝を目指して奮闘します。そして,16年に悲願の優勝を果たすと,お互いに男泣きしたのです。
 新井が感じる黒田のすごさは,何事にもブレない,強い意志を持っていることです。どんな状況でも,変わりない強い心を持ち,自分のためだけでなく,周囲のために行動できる人なのです。
 カープに復帰してからの15と16年,黒田の体は決して万全ではなかったのです。しかし,「カープで優勝したい」という思いは変わらず,愚痴や文句も言わずに投げ続けたのです。リリーフ陣が揃って疲労が溜まっていると思ったら,不惑にもかかわらず投げ続けていました。そんな姿を見て,新井は「これぞエース」と思っていたのです。
 その黒田は,23年のキャンプに球団アドバイザーとしてやってきたのです。首脳陣には入ってないものの,かつての盟友である新井を助けているのです。新井にとっても願ったり叶ったりのことで,選手もレジェンドからどんどん吸収しているのではないでしょうか?
 黒田はユニフォームを着なくとも,カープで戦い続けているのかもしれません。そんな思いで,23年シーズンからカープを見ていくのかもしれません。かつての盟友の指揮する姿を,どのような思いで見ていくのでしょうか?


以上,新井が仕えた監督などのエピソードなどでした。


このように見てみますと,新井はいろいろなところから学んでいると思えるのです。

特に,要所要所で師匠にふさわしい人で出会ったことが,新井にとって大きな幸運ではないでしょうか?

同じカープで4番を打った浩二,現役でカープと阪神の4番を打っていた金本,年が近いエースの黒田,外国人監督として日本とは違う野球を見せたブラウン。

このような巡り合わせがあったことで,新井は様々なことを学ぶことができたと思うのです。

阪神というカープ以外の野球も肌で経験し,それを踏まえてカープに復帰したからこそ見えるものもあったはずです。

これらを監督として活かさない手はないと思うのです。


それでは,新井監督の采配などを考えてみたいと思います。

●「心・技・体」で「心」を最も重視

 新井は自身の経験から,「心・技・体」の中で「心」を最も重視しています。監督に就任して,自身だけでなく選手の「心」も鍛えていくことに注力するのではないでしょうか?
 新井のプロ入り当初は,技術も体力も不足していました。それにもかかわらず,1年目から一軍出場を重ねていくのです。その時「技」と「体」の不足を補っていたのは「心」なのです。誰よりも大きな声を出す,攻守交代でも全力疾走をするなどして,気持ちを表に出すことを心がけていたのです。それで少しでも足りない2つを補うことで,新井は若い時を乗り越えていたのです。
 心という土台があり,その上に技と体がくる。心が入っていれば,強い気持ちを持っていれば,自分では無理かなと思うようなことであっても,たいがいのことはできる。新井はそのように考えているのです。これは緒方とのエピソードでも表れていると思うのです。
 一方で,最近の若い選手に対しては,「もう少し感情を表に出してもいいのに…」と思っているのです。今の若い選手は総じてまじめで,練習も一所懸命します。内心では闘志を秘めているにもかかわらず,感情をあらわにするのはカッコ悪いとか,クールの方がかっこいいと考えているのか…新井はそう感じているのです。
 しかし,同じ力量を持った若い選手が2人いれば,闘志あふれる選手と隠している選手のどちらを起用するでしょうか?わずかなチャンスで「くそ」と悔しさを露わにする選手と,淡々とベンチに引き上げる選手とではどちらでしょうか?新井が監督なら,前者を選ぶとのことです。後者はつかみかけたチャンスを自ら逃すことになるのです。
 ”気持ちを前面に出し,全力で,ひたすらがむしゃらに,泥臭く,ボールに食らいついていくしかない。一球一球に集中して,絶対にあきらめず,ひたむきにボールを追いかけていくしかない。だから,打つときも守るときも走るときもつねに一所懸命,絶対に手を抜かない。これだけは自慢できる。
 その一瞬一瞬に自分がやるべきことをきちんと全力で注いでやっていれば,必ず野球の神様が見ていてくれる―僕はそう信じている”
 新井はドラフト6位で,周囲の期待も小さかったです。「誰だ,こんな選手を連れてきたのは」と思った方もいるのではないでしょうか?そんな新井が名球会入りまで達したのは,まさに「心」で全力でぶつかり続けたからなのです。戦略など相手が基準ではなく,「絶対に打ってやる!」という気持ちを持つという自分を基準としていたのです。
 このように,新井は選手に心を磨く,闘志を見せるなど心を見せるといったことを選手に求めるのかもしれません。特に若い選手に対しては,闘志をむき出しにするなどの姿勢を徹底的に求めていくのではないでしょうか?そのような選手を優先的に起用して,観客にも燃えてもらうことを狙うのかもしれないのです。
 これはまさに,昨季までのカープで足りないものだと私は思うのです。昨季までのカープを見ていますと,若い選手でも中堅・ベテランのような振る舞いをしているように見えます。レギュラーならそれでいいと思いますけど,それ以下の選手はそれでレギュラーに勝てるのでしょうか?新井の若い頃を見ていれば,それでは勝てないと分かると思うのです。
 球団も,そのような闘志あふれる戦いが欠けていると感じて,新井を監督に招聘したのかもしれません。カープの赤は,燃える人の象徴であるはずです。今のカープに必要なのは,戦う選手としての「原点」なのかもしれません。それを新井が呼び覚ますのでしょうか?


●新井の経験から見えるもの,前任までとの違い

 新井はここ最近のカープの監督たちと比べますと,違った視点を持っているのではないかと私は思うのです。それは,前任たちにはない経験があるからだと思うのです。
 まず,新井はドラフト6位から這い上がって名球会入りまで達しました。そのため,期待が小さい選手の気持ちに寄り添えると思います。下の人の気持ちが分かると言い換えてもいいのではないでしょうか?
 一方で,ここ最近のカープ監督はどうでしょうか?前任の佐々岡真司は社会人出身のドラフト1位,その前の緒方孝市は高卒3位,その前の野村謙二郎は大学出身の1位です。緒方は新井に近いのかもしれませんけど,佐々岡と野村は即戦力に近い1位で入団しました。そのため,「上から」という目線になっていたと思うのです。
 「上から」の監督から,「下から」の新井に監督が代わることとなります。ファームで苦労する選手に寄り添うことができることで,下から選手をくみ上げやすくなるのではないかと考えられるのです。2000年代に入ってから,カープで最も下のドラフトで入団した選手の監督ということになりますね。
 新井は自分がここまでプレーできたことに関して,次のように語っています。
 ”身体が大きく,頑丈である以外,とりたてて才能に恵まれたわけでもなく,誇るべき実績を残した訳でもない,まったくの無名だった自分が,「プロになる」という夢を実現したばかりか,プロとしてここまで生き残り,まがりなりにも日本代表の4番を務められるようになったのは,いつもそういう強い気持ちを持っていたからだと思っている。どんなに練習がつらくても,どれだけ打てない状態が続こうとも,どれほどすごいプレッシャーがかかろうとも,僕は絶対に逃げることなく,「気力」を奮い立たせ,立ち向かっていった。だから,真正面からぶつかることしかできないのだ”
 この言葉を聞くと,ドラフト下位や育成からスタートした選手,ファームで伸び悩んでいる選手が這い上がってくるために必要なものが見えるのではないでしょうか?そのお手本となる野球人が監督になっただけに,「新井さんができたんだから,俺もできるかも」と思えるかもしれないのです。そのように思いが変わることで,選手の人生,ひいてはチームが変わる可能性が出てくると考えられるのです。
 また,しばらくカープは監督選びで「純血主義」をとっていました。カープ以外でプレーやコーチを務めたことある野球人は監督にせず,カープのみでプレーやコーチをした野球人を選んでいたのです。純血以外の監督は09年までのブラウン,日本人なら2000年までの達川光男以来ということになりますね。それ以外はカープのみという純血だったのです。
 新井は阪神でもプレーをしていました。他球団でのプレー経験でカープの監督になったのは,外国人のブラウンを除けば88年まで監督を務めた阿南準郎以来なのです。それだけカープは純血主義にこだわっていたのです。
 私はかつての投稿で,黒田か新井が監督になれば純血主義をやめて,チームを変えるのかなと思っていました(詳しくは「監督未来予想図2 広島東洋カープ編」をクリックしてご覧ください)。MLB経験のある黒田,もしくは阪神でプレーした新井。どちらでも,新しい血を導入できるはずです。どちらかを監督にした時,球団が「チームを変えたい」と思いをファンにも伝えることができると思っていたのです。
 この度新井が監督に就任したので,純血主義はとりあえずやめたということになります。新井の要望なのか,ヘッドコーチにカープでプレー経験のない藤井彰人,同じくカープの経験がない弟の新井良太がコーチとして招聘されました。新井と共に新たに阪神の血を導入したいと球団が思ったからこその就任だと思うのです。
 このように,生え抜きでない選手だからこそ,外様の選手の気持ちに寄り添えると思います。新井自身も阪神で外様としてプレーした時,生え抜きとの差を感じたことを語っています。
 ”FA選手や外国人を獲得するのはお金がかかるし,交渉の際に起用法について話すこともあるだろう。そうなると,成績的にそれほど大差はなくても,移籍してきた選手が優遇され,給料も高給になることが多くなる。
 僕はあまり関係ないと思ってやっていたが,長年,チームに所属している生え抜き選手からすれば,やはり外様の選手ばかりが優遇されるのは,面白くないはずだ。特に「来年こそはレギュラーを」と意気込む生え抜きの若い選手などには,「また今年も新しい選手が来たか」という空気が感じられることもあった”
 23年シーズンのカープでいえば,秋山翔吾が該当すると思います。チームが勝つという上では歓迎でも,同じ外野の生え抜きの若い選手からすれば「枠がひとつなくなったじゃん」と思うのかもしれません。このように,外様は外様で感じることがあるのです。
 外様を経験した新井だからこそ,こうした気持ちに寄り添えるのではないかと思います。それは生え抜き監督からはなかなか見えない目線だと思うのです。この新たな目線からも,チームが変わるのかもしれないのです。
 以上のように,新井はここ最近のカープの監督とは違う目線を養っていると考えられます。それによって,チームが変わることにつながるのかもしれません。それは期待してもいいところではないでしょうか?


●新井にとって「野球とは?」「リーダーとは?」

 新井に「野球とは?と尋ねた時,どのような回答を出してくるのでしょうか?新井の著書でいくつか出ているので,それを紹介したいと思います。
 まず新井は,「野球は助け合いのスポーツだと思う」と語ります。特に守備の時に,その姿勢が余計に問われるのです。1つのミスが投手だけでなく,チーム全体に迷惑が掛かります。一方で,誰かのミスを救うこともできます。
 新井自身,格好よく守るつもりはなく,そんなことができる器用さもありませんでした。それでも,とにかく一つひとつのプレーを丁寧に積み重ねたということなのです。その成果が,08年のファーストでのゴールデングラブ賞であると語るのです。
 また,「野球は瞬間のスポーツだ」とも語ります。こちらについて,次のように語ります。
 ”失敗しても自分をコントロールして,すぐに前を向いて次のプレーに向かわなければならない。悪い結果を振り返って反省して次に生かすことは必要でも,結果に振り回されてはいけない。ネガティブに振り返る時間を短くするためには,「その時」できることに集中することだ。自分の立てた計画に縛られず,目の前のことだけ懸命に取り組むことが近道になることもある。辛い練習の毎日だった高校,大学の7年間の経験が教えてくれた”
 こうしたことを,選手に説いていくと思います。また,助け合いや一瞬のプレーを重点的に見て,それができている選手を評価していくと思います。
 新井は現役を生きていきながら,監督やリーダーについても考えたことがあります。新井にとって「リーダーとは?」どのようなものなのでしょうか?
 新井が監督について思ったことを抜粋します。
 ”つくづく監督と言うのは大変な仕事だと思う。
 戦術や技術の指導に関しては,ヘッドコーチや専門のコーチがいるので,ある程度はその人たちに任せておけばいい。
 それよりも大事なのは,いかにチームが一丸となれる空気を作れるか,選手をやる気にさせることができるか,ということではないかと思う。
 そのためには,選手に耳障りのいいことばかりを言っていてはダメだろう。
 心を鬼にして,言うべきことを言わなければいけない時もあるはずだ。そして,それには,相当の体力が必要になる。
 選手と常にコミュニケーションを取って,やりやすい環境を整えてあげる。そして結果に対して,責任を取る。そのくらい,腹をくくってやらなければできない仕事だと思うし,それが監督として,一番大事なことではないだろうか”
 これを踏まえた上で,リーダーに必要な条件として「愛情と情熱」と新井は考えるのです。自身が本当に監督になった今,自分の考えたことに対してどのように思っているのでしょうか?
 今度は,新井が自分の思っていることを実践する時なのです。現役時代に感じたことをそのまま実行していくのか,監督としての様々な経験から軌道修正していくのでしょうか?これから監督を務めながら,新井なりの「監督像」というのができるのでしょうか?


以上,新井監督に期待できる点を挙げてみました。


新井が最も大切にしているのは,「心力をもって,今を精一杯生きる」ではないかと思います。

ドラフト6位と全然期待されてなかった新井が這い上がってこれたのは,この姿勢を持ち続けたからではないでしょうか?

そのように生きてきたからこそ,最近の選手にその姿勢が足りないと感じているのかもしれません。

新井本人も「計画を立てるのは苦手」と語り,常に一瞬一瞬で勝負してきたとのことです。

悪く言えば「出たとこ勝負」の繰り返しですけど,「気力」を持ち続けて挑んできたのです。

4番の苦しみ,外様選手の気持ちなど様々な視点で選手に寄り添うこともできそうです。

それらを活かしてチームを変えることは期待してもいいと思うのです。


最後に,新井監督の課題を考えてみます。

●自分に厳しいからこそ,人にも厳しくできる。しかし,度を越さないか?

 新井は「心」を重視しています。そこをベースに,現段階でできそうなことをを挙げています。恐らく選手にも,心の必要性を解いていくと思います。
 『「もう」ダメではなく「まだ」ダメ』『「やらされる練習」も必要』というように語ります。これらの哲学を活かして,選手に限界を超えるような練習を課し,若い選手を中心に「やらされる練習」を課していくと想像できます。新井自身が経験しただけに,その必要性を説くことができると思うのです。
 自分自身に厳しかったからこそ,ここまでの選手になることができたと思います。だからこそ,選手にも厳しい姿勢を持って練習させたり,厳しい言葉もかけていくと考えられるのです。そのようにして,「心」を鍛錬するのではないでしょうか?
 ただ,その度を越すことは絶対に避けなければなりません。熱い心を持つがゆえに,罵声を出すこともあるのかもしれません。まして鉄拳制裁をするのは,今の時代完全に論外です。
 新井自身も鉄拳を食らったりしていたという時代です。何もかも今の方がいいという考えには懐疑的なのかもしれません。ただし,鉄拳制裁だけは絶対に真似してはいけません。罵声を出してしまうことはあっても,アフターケアは絶対必要です。放置してしまうと,選手が新井を遠ざけるのかもしれないのです。
 そのような事態に備えて,新井はどう準備するのでしょうか?もしも新井が暴走した時の「止め役」を用意するのでしょうか?きちんとした参謀を据えているかどうかも,この課題克服には欠かせないと思うのです。
 「心」を重視しているだけに,一歩間違えれば「気合いだ」「たるんでる」としか言わない精神野球にもなりかねません。そうなったときに暴走が起こるかもしれません。自分のバックボーンをカバーできるものが何なのか,新井はもうつかめているのでしょうか?


●苦手な計画をどう克服するのでしょうか?

 新井は「心」をもって一瞬一瞬で勝負していくという姿勢で現役時代を生きてきました。逆に,計画を立てて物事を進めていくのは苦手と語っています。
 選手時代は,基本的に自分が生き残っていくことを一番に考えます。そのため,人の邪魔をしなければ自分の生き方を貫いていいと思うのです。極論すれば,「自分のことだけ考えてもいい」というのが選手自身の目線だと思います。
 ただし,監督となれば今度はチーム全体を見る必要があります。一瞬一瞬を見る「虫の目」だけでなく,俯瞰的に全体的に見る「鳥の目」も必要になります。1年1年が勝負でも,「3年後はこうなっていたい」という長期的な目線も編成や采配で必要になるのです。
 新井の語っているのを見ていると,「鳥の目」が足りないところではないかと思うのです。特に,数年後を見据えるというのが現役時代になかった視点だと考えられます。監督となれば,それを培う必要があると新井は感じているのでしょうか?
 もしも新井がそれが足りないと感じた時,逆に計画的に物事を進める人が参謀になるといいと思います。足りないと思えば,誰かを連れてこればいいのです。
 23年シーズンに向けて,新井は藤井をヘッドコーチに据えました。阪神での現役時代,共にプレーしたことでお互いを知っていると思います。新井は自分に足りないものをつかんだうえで,藤井を参謀に据えたのでしょうか?ただ気心知り得る仲で選んだのなら,なあなあな「お友達内閣」になるだけです。
 監督1人だけですべてができるわけありません。だからこそ,コーチを連れてくるなどをするのです。どんな監督にも,足りない目線などがあります。監督を務める上で,新井はそのことを理解しているのでしょうか?これから采配する上で,それが見えてくるのかもしれないのです。


以上,新井監督の課題を考えてみました。


それでは締めに入ります。

新井は広島で生まれ,幸運なことにカープでプレーすることができました。

小さい頃からカープを愛し,主力選手にまでなれました。

だからこそ,FA宣言行使の時に「カープが好きなので,辛いです」と涙を流したのです。

しかし,最後は「帰るべき場所」に戻って,優勝を経験してバットを置いたのです。

そして,今度は大好きなカープの監督となったのです。

監督という大役を引き受けたのは,やはり「カープが好きだから」なのかもしれません。

カープに育ててもらい,一度は出ても再び迎え入れてくれました。

その恩義を胸に,今度は監督としてカープに携わる皆に喜んでもらいたいと思っているに違いないです。


ただし,新井は引退してからコーチを経ずに監督になりました。

そのため,監督を務めながら学ばなければならないことはたくさんあるはずです。

球団もまた,「監督を育てる」という目を持つことが必要になります。

そのため,5年は新井と心中する覚悟をもつべきです。

まだ40代と若いだけに,監督を育ててもいいと思うのです。

球団はその覚悟を持って,新井をいきなり監督として招聘したのでしょうか?


そして,自身の弟である良太をコーチに招き入れました。

ようやく初めて,兄弟で地元カープに所属することができたのです。

良太も広島出身,カープが大好きな人です。

その大好きというパワーで,カープに歓喜を再びもたらすことができるのでしょうか?

新井兄弟のカープでの挑戦が,2023年から始まるのです。



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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

阪神の四番 七転八起 (PHP新書)
新井 貴浩
PHP研究所
2012-11-16


赤い心
新井 貴浩
KADOKAWA
2016-03-17




ただ、ありがとう 「すべての出会いに感謝します」
新井 貴浩
ベースボール・マガジン社
2019-04-03




広島東洋カープが,これから強くなるためには?

今回も,あるチームの今後を考えてみたいと思います。

今回は,広島東洋カープについてです。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


今季のカープは5位に終わり,4年連続のBクラスとなりました。

佐々岡真司監督が辞任し,現在後任を探しているところです。


平成の最後にセ・リーグ3連覇したチームが,ここまで勝てなくなるとは思いませんでした。

勝ち癖がついているはずなのに,それを活かせてないということになるのです。

そんなカープが,これから先強くなるためには何が必要なのでしょうか?

現段階で考えられることを挙げてみます。


●そろそろ「純血主義」をやめて,新しい血を導入するべき

 これは「監督未来予想図2 広島東洋カープ編」でも書いたことなので,まずはそちらをご覧になって頂くことを願います。
 前任の佐々岡もそうですけど,カープは長いこと監督選びの方針で「純血主義」を取っています。山本浩二,三村敏之,野村謙二郎,緒方孝市と,それまでカープにしか所属したことのない野球人がほとんどなのです。巨人ほど厳密ではないものの,最近はまさに「純血主義」の監督選びになっているのです。
 コーチ陣もほとんどがカープのみ,またはカープに所属したことある野球人となっています。全くカープにいたことのない外様は,コーチでも珍しいのです。
 「コーチを育てていく」という意味が,「純血主義」の理由の1つでもあります。それはそれで悪くないと思います。実際,緒方のように結果を出した生え抜きOBもいますからね。
 ただ,4年連続Bクラスに低迷,しかも38年間日本一から遠ざかっている。ここまでの成績となれば,決定的な何かが長年足りないままと考えられるのです。そうなりますと,もう「純血主義」で行くには限界があると思うのです。
 この今だからこそ,「純血主義」をやめて,新しい血を導入すべきだと思うのです。カープのみの野球人による監督を一度やめてみて,他球団の経験者や外様を監督にすべきではないでしょうか?
 実際,カープを初めて優勝に導き,黄金時代を作った古葉竹識も純血ではありません。カープの後,南海ホークスでもプレーしていました。しかも,その時の監督は野村克也です。ノムさんから学ぶものがあり,それをカープの監督でも活かしていたと古葉は語ります。詳しくは「監督学 古葉竹識編」をクリックしてご覧ください。
 このように,カープの初優勝は他球団の経験があったからと言えるのです。それを見習って,ここで「純血主義」を一度やめてみるべきだと私は思うのです。
 後任候補には,緒方の再登板や新井貴浩の名前が出ています。もしもこの2択なら,私は新井の方がいいのではと思うのです。
 新井はFAで阪神へ移籍し,岡田彰布の下でプレーしました。阪神の重圧を十分に経験し,そこで学んだものもあったはずです。その阪神で培った血を,今のカープに注入してもいいのではないでしょうか?
 他にも,謙二郎の再登板,金本知憲の招聘,東出輝裕の内部昇格などの声もあります。この中で選ぶとすれば,金本が一番ベストに思います。阪神の監督を務めたこともあるので,他球団の経験者という点では新井よりも大きいと思うのです。
 「市民球団」とうたっているだけに,外様を連れてくるのはどこか抵抗があるのかもしれません。しかし,セ・リーグ3連覇を経験したこともあり,ファンは勝利に飢えるようになったと思います。その時に勝てなくなったからこそ,改革が必要ではないかと私は思うのです。


●機動力野球を蘇らせるために,選手の指定強化を実行せよ

 今季のカープの成績で気になるのは,盗塁数があまりにも少なすぎるということなのです。26個はセ・リーグ最下位で,ブービーのベイと23個も差があるのです。
 古葉政権で初優勝してから,カープが強い時には2つの傾向があるのです。それは,機動力野球と投手が冴えているときは,大概勝っているのです。大きな補強ができない分,走れる選手を獲得して育てているのです。実際,カープには高橋慶彦,正田耕三,謙二郎,緒方,前田智徳(アキレス腱を切る前),金本,東出,菊池涼介,鈴木誠也と俊足が売りの選手が多いですよね。
 ところが今季は,伝統的な機動力野球に陰りが見えたのです。ヘッドコーチとして河田雄祐を連れてきたにもかかわらず,盗塁がリーグ最下位となったのです。これではチーム打率がリーグトップであっても,それを活かしきることはできません。実際,1998年のベイスターズのマシンガン打線も,石井琢朗などの機動力が冴えていましたからね。
 なので,来季に向けて機動力野球を蘇らせることは,絶対に避けられない課題だと思います。ただし,それを30を過ぎた菊池や秋山翔吾に求めすぎてはいけません。30代に入ってきますと,段々と脚力が衰えてくるのです。求めるべきは,20代の新たなスピードスター候補です。
 小園,大盛,宇草,羽月,矢野。このあたりの選手を,来季に向けて秋季キャンプから徹底的に鍛えるべきだと思います。「絶対に新たなスピードスターを生み出すぞ」という気概で,指定強化すべきだと思うのです。大きな補強をしない限り,伝統的な機動力野球を蘇らせることは避けられない。それを球団も感じているのでしょうか?
 俊足選手をドラフトで積極的に獲得しているところで,スピードスターを生み出さない,盗塁がリーグ最下位なのはもったいないです。走れる野球を継続するために,秋季キャンプから徹底的に走らせる。それをどこまで実行できるか,まずはそこからですね。


●新たな4番を生み出す方法は整っているのか?

 やはり誠也が抜けたことで4番打者が不在になったのは,今季を見て無視はできません。大砲でなくとも,打点を徹底的に稼げる選手が最低限欲しいところです。
 今季は主に,新外国人のマクブルームが4番に座りました。悪い成績ではないものの,やはり4番タイプではないように思います。結局今季は,比較的打てる選手を4番にするしかない状態が続いたのです。
 来季に向けて4番不在をすぐに解決するのなら,本塁打25本以上は打てそうな外国人を連れてくるべきです。マクブルームが残るかどうかは分かりませんけど,エルドレッド並みの選手が欲しいところではないでしょうか?
 それと同時に,新たな和製大砲候補の目処が立っているのか気になるのです。今季を見ていると,その兆しがあるのかと思うのです。過去にも浩二や衣笠祥雄,金本など大砲はきちんと強い時には存在していました。その時のノウハウを忘れてしまったのでしょうか?
 もしも和製大砲候補が不在と感じたのなら,今回のドラフトでとびっきりの選手を獲得すべきなのかもしれません。佐々岡政権では投手を徹底的に強化した分,今度は野手を徹底的に強化すべきでしょうか?せめて,将来に向けて大砲候補に目処は付けたいところですね。


ということで,現段階で考えられるカープの課題を挙げてみました。

まずは新監督を誰にするかからですね。

今季は秋山を獲得するなど,「変わろう」とする球団の姿勢が見えました。

佐々岡が築いたいいものも,確かにあると思います。

それを活かして,強いカープを取り戻すことができるのでしょうか?



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秋山翔吾,カープ入りを決断!

MLBのパドレス・マイナーでプレーしていた秋山翔吾。

その秋山が,カープ入りを決断したのです。


秋山はFA権を行使して,2020年からシンシナティ・レッズでプレーしました。

2年レッズでプレーし,今季からパドレスのマイナーでプレーしていました。

そこでFAとなり,日本球界復帰を決断しました。


獲得に名乗りを挙げたのは,古巣の西武,ホークス,そしてカープです。

どのチームも,巻き返しを図るには外野のレギュラーが手薄です。

そのため,経験豊富な秋山に白羽の矢を立てたのだと思います。


古巣愛から西武なのか,ギータと共にホークスでプレーか…

と,2球団についてはそれなりにイメージできました。

その中で,カープの名乗りは驚きました。


カープはこれまで,FAで選手を獲得したことがありません。

資金力が乏しいということもあり,カープからFAした選手を引き留めることもしませんでした。

それで金本知憲や新井貴浩といった主力選手が抜けました。

そのため,1997年から2012年までの15年間Aクラスから離れたという暗黒時代を迎えることとなったのです。

この間にFAで獲得を表明したのは,2010年オフの内川聖一くらいですね。


ところが,2009年にマツダスタジアムに移転してからは変わってきたのです。

資金力が向上したことで,球団の姿勢が変わってきたのです。

2015年は破格の年俸で黒田博樹がカープに復帰しました。

2018年に丸佳浩がFA宣言した時は,きちんと引き留める姿勢を見せました。

このように,高い年俸を出せるようになってきたのです。


そうした中で,今回秋山の獲得に名乗りを挙げました。

そして,初めて他球団から大物選手を獲得することができたのです。

黒田の場合は古巣復帰ですけど,秋山は古巣でも何でもありません。

カープで初めてのことが起こったのです。


正直私は,秋山のカープ入りは驚いています。

西武は古巣,ホークスは資金力があると,秋山入団のイメージは出来ました。

カープについては,古巣でもなければ,広島県出身でもないです。

入団するというイメージが湧かなかったのです。

だから,驚いています。


今日,球団から正式発表があるとのことです。

背番号は「9」と,丸の後を受け継ぐ見込みです。


現状のカープは,西川の離脱などで外野のレギュラーが手薄です。

フル出場で野手のベテランと言えば,菊池くらいです。

菊池を支える存在としても,秋山の獲得はチームを変えるのかもしれません。

菊池と秋山といえば,WBCで戦った縁があります。

同年代には翼がいます。

こうした選手と共に,新たなカープを築いていくのでしょうか?


さあ,カープが新たな1ページを刻みました。

もはや,カープがFA獲得に参戦することもおかしくはなくなりました。

「ここから変わるぞ」というのを,秋山の獲得で見せたと思います。

果たして,カープの行方は…

そして,秋山はカープで返り咲くのでしょうか?


正式発表を待ちます。



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