今回は,「監督学」シリーズを書いてみます。
今回は,2019プレミア12と2021東京五輪で侍ジャパンを優勝に導いた稲葉篤紀です。
それでは,最後までよろしくお願い致します。
稲葉については,以前も書いたことがあります。
こちらにリンクを貼っておきますので,是非ご覧ください。
こちらを書いたときは2019年2月のことです。
第2回プレミア12が開催される前ということになります。
プレミア12を含めて,2020年開催予定の東京五輪,21年開催予定のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の監督を務める予定でした。
この3つの大会で稲葉がどのように采配するのかを予想していたのです。
それから4年の時を経て,稲葉はプレミア12で優勝しました。
その後にコロナが襲い,東京五輪は21年,WBCは23年に延期されたのです。
稲葉は東京五輪まで監督を務めて,初めての金メダルに導いたのです。
それを持って侍ジャパンの監督を辞して,WBCは栗山英樹が率いることになったのです。
監督を退任した後,稲葉は著書を出しました。
こちらを読んでみて,もう一度稲葉監督を考えてみることにしたのです。
稲葉は2017年の「アジア プロ野球チャンピオンシップ」,19年のプレミア12,21年の東京五輪全てで優勝に導きました。
WBCこそ延期になって指揮をとれなかったものの,プレミア12と東京五輪で初めての優勝という大きな役割を果たしました。
特に五輪の金メダルは,長年誰も成し遂げられなかったことです。
そのため,多くの野球人やファンにとっての念願成就になったと思うのです。
それだけでも,もう稲葉に大きな拍手なのは間違いないですね。
ということで,侍ジャパンの監督として「負けない」という結果を出した稲葉。
「負けなかった」要因はどこにあるのでしょうか?
そこを中心に考えてみたいと思うのです。
それでは著書を読んだ上で,稲葉監督の采配などを考えてみます。
●アジアチャンピオンシップから東京五輪まで,段階を踏んだ育成と編成
稲葉は監督就任当初,2021年開催予定のWBCまで務める予定で契約したと思います。この間にアジアチャンピオンシップ,プレミア12,東京五輪と大きな大会があります。稲葉はこの期間を活かして,五輪とWBCに照準を合わせて侍ジャパンを育成・編成したのではないでしょうか?
コロナが襲ってきたことによって,結果的に21年の東京五輪まで監督を務めたことになりました。そのため稲葉は,東京五輪に向けて逆算した上で侍ジャパンを築いたということになるのです。
まず,17年開催のアジアチャンピオンシップです。この大会は韓国,台湾と共に若い選手の育成を目的とした国際大会です。そのため参加資格は,24歳以下(第1回大会のみ1993年1月1日以降生まれ)または入団3年以内,オーバーエイジ枠(既定の年齢上限よりも年長の選手)が3名というものです。
その時のメンバーはこちらです。
若い選手の育成目的の大会というだけあり,山崎康晃以外は初の侍ジャパン選抜ということになります。中には「この選手って,そんなに活躍したのか?」と思うような代表もいるくらいです。若くて活躍している,将来有望な選手を集めたということになるのです。
3か国しか参加してないということもあり,決勝を含めて3戦しか行われていません。そのため,目立って活躍した選手も,これといって見当たりません。それでも3戦全勝し,日本が第1回大会の優勝となったのです。
ただし,アジアチャンピオンシップはあくまでも「若い選手育成」が目的の大会です。そのため,WBCや五輪と比べると「何が何でも勝つぞ」という気概は,少々薄かったように思います。私自身も,そこまで優勝に舞い上がった記憶もないのです。
では,稲葉はこの大会をどのように位置づけたのでしょうか?この大会をどのように活かしたのでしょうか?
まず稲葉は初戦に臨むにあたって,東京五輪の金メダル獲得のために目指す野球のスタイルを定めました。投手中心の守り勝つ野球。点を取らないと勝てないので,攻撃面では「スピード&パワー」を打ち出したのです。
実際,このメンバーを見てみますと,長打力よりも走力に特化した選手が多いのです。選抜前に辞退を表明したものの,森友哉と吉田正尚も招集予定だったのかもしれません。そのため長打力を集めるところは思い通りではなかったのかもしれません。
それでも,俊足選手を徹底的に集めて,山川穂高といった長打力が武器の選手という,稲葉の構想通りになったところもあると思うのです。この大会では山川,上林誠知,外崎修汰,西川龍馬がホームランを打ちました。そこに機動力と守備力を絡めて,稲葉の思う通りの野球ができたと私は思うのです。
この大会を通じて稲葉は,「俺はこういう野球がやりたい」ということを選手たちにアピールしたと思います。そうすることで,国際大会に出たいならば何が必要なのかの手がかりを与えたと思うのです。このような伏線を張ったことで,後の大会で選手は迷いや疑問を極力少なくして試合に臨めたのではないでしょうか?
また,この大会は初めて日の丸を背負う選手も多かったです。そのため稲葉はまず,「ジャパンというチームは常に勝っていかないといけない」と勝利への意識づけをしたのです。第1回や若い選手育成目的ということで,どうしても気概に欠けるムードがあったと思うのです。しかし稲葉は,この大会でできること,先々につなげることを意識して采配していたのです。
大きく言えば,初めて侍ジャパンになった選手に「これが日の丸を背負うことだ」「これが国際大会だ」ということを経験を通じて伝えたということになります。また,「俺が監督の間は,こうやって国際大会を戦うぞ」というアピールもしました。いわば,東京五輪に向けての下ごしらえを,この大会で実行したということになりますね。
翌年の2018年に日米野球が開催されました。こちらが代表メンバーです。
日米野球は,WBCなどのような本格的な国際大会ではないです。そのため,多くの選手が初めての侍ジャパン入りとなったのです。前年のアジアチャンピオンシップから継続して選ばれた選手もいて,より多くの選手が日の丸を経験することになったのです。
そこに,17年WBCで代表になった松井裕樹,山田哲人,田中広輔,菊池涼介,秋山翔吾を交えたのです。これによって,「日の丸を着けるとは」を共にプレーすることで教えることが出来たと思うのです。「背中で語る」という存在を,アジアチャンピオンシップよりも稲葉は重視したのかもしれないのです。
これらを踏まえて,2019年に第2回プレミア12が開催されました。代表メンバーがこちらです。
色付けされている通り,多くの選手が初めて国際大会の本戦(プレミア12,五輪,WBC)で代表入りとなったのです。この大会で初の侍ジャパンもいますけど,アジアチャンピオンシップや日米野球の経験を経て代表入りした選手も多くいるのです。まさに,「経験を踏まえて」「国際大会を活かして」ということが出来ていると言えるのです。
稲葉本人としては,『17年夏の監督就任以来,強化試合や日米野球で招集してきた若手,中堅,ベテランを含め,スピード,パワー,経験などバランスの良い「強いチーム」ができました』と著書で語っています。この「バランスの良い」というのは,このメンバーを見てみますと確かに言えるのです。
哲人,源田壮亮,菊池,周東佑京といったスピード,哲人,浅村栄斗,正尚,鈴木誠也といったパワーと能力に適した選手。山本由伸や田口麗斗といった若手に,岸孝之や會澤翼といったベテラン。そうした選手に侍ジャパンの経験をさせたことを含めて,「バランス良く」というメンバーを組めたと思うのです。
結果はスーパーラウンドでアメリカに敗れたものの,それ以外は勝って決勝進出しました。決勝で韓国を破り,優勝することが出来たのです。初めて国際大会本戦で優勝したこともあり,稲葉は涙を流しました。
そして,いよいよ東京五輪の時が来ました。コロナが襲いかかったことで,1年延期となりました。そのため,稲葉にとってはこれが監督として最後の本戦となったのです。メンバーはこちらです。
色付けされているように,アジアチャンピオンシップから侍ジャパンを経験を積んだ選手が多いのです(緑色は除く)。そのため,ぶっつけ本番という感じが薄まったということは想像できます。
経験を積み重ねただけでなく,稲葉が当初から構想として持っていた「スピード&パワー」に沿ったメンバーにもなっています。また,由伸や村上宗隆といった若い選手,坂本勇人や田中将大といったベテランというようにバランスよく選ぶこともできたのです。
五輪では日本が全勝し,初めての金メダルを獲得できたのです。北京五輪でメダルなしという苦汁をなめた稲葉にとっても悲願でした。こうして稲葉の侍ジャパン監督は終わったのです。
このように,稲葉は監督に就任してから五輪に向けたチーム育成と編成を行っていたのです。ひとつ一つの大会をただ勝ちにいくのではなく,その大会を次の大会に活かすということを欠かさなかったのです。稲葉なりに「この大会がある意義」を考え,それに沿った代表選びをしていたと考えられるのです。その結果,五輪で金メダルという最大の目標を達成できたのです。
これまでの代表監督を見ても,ここまで段階的に代表選びしていた人もいなかったと思います。これはプロとしての国際大会が増えてきたというのもあります。かつては継続的に国際大会もあったわけでもなく,大会ごとに代表監督を選んでいました。23年現在は4年をベースに代表監督を務めるようになり,だからこそ稲葉のような段階的な代表編成もできるようになったと思うのです。
こうした稲葉の段階的な育成と編成の恩恵を受けたといえば,4つ全てに出てくる康晃と甲斐拓也,日米野球以外の3つに出た近藤健介と源田壮亮だと思うのです。いずれも主力リリーフ,正捕手,ショート,打撃の中心選手とチームの柱になった選手です。稲葉は段階的に走・攻・守全てで柱になる選手を育てていたのです。
もしかしたら,稲葉が今後の代表監督の指針を示したのかもしれません。五輪は次の開催が未定なだけに,最大の大会はWBCとなります。次回は2026年に開催予定ですけど,そこに向けた代表育成と編成をするのがいいと稲葉が示しているように見えるのです。
若い選手を中心に侍ジャパンを経験させて,プレミア12という本戦に向けて準備する。そして,最大の目標への土台を作っていく。国際大会が現状の形である限りは,こうした組み立てが今後の代表監督に求められることだと思うのです。
稲葉退任の後に栗山英樹が監督就任し,23年WBCが行われました。稲葉監督時代に侍ジャパンを経験した選手が主力となり,2009年以来の優勝をつかむことが出来たのです。まさに,稲葉が築き上げた土台を栗山によって活かすことが出来たということなのです。
稲葉が段階的に侍ジャパンを作り上げたというのは,各年ごとにテーマを掲げたところからも挙げられます。18年は「学ぶ」として,日米野球後には五輪に向けたチーム構想がある程度でき上がってきたという手ごたえをつかんだのです。19年は「創」をテーマに,3月のメキシコとの強化試合も踏まえて,プレミア12でチームを「創って」いったのです。
そして20年は「結」をテーマに,チームの結束力を高めて五輪に臨もうとしました。いい形で締めくくるという意味も込められています。ただコロナによって五輪が延期になり,21年に「束」をテーマにしたのです。
プレミア12から五輪まで1年半ほど時間が空くので,「もう一度ジャパンとして結束しよう,チームを束ねよう」という考えから選んだのです。ちなみに,「国民の皆さんも含めて,みんなで結束力を持ってた戦いましょう」や「コロナ禍で尽力してくださっている医療従事者の皆さんへ,感謝の花束を贈りたい」という意味も込めていると語っています。
以上のように,稲葉は「東京五輪という大きな大会に向けて」という意識を崩さなかったのです。それぞれの大会やそれぞれの年の位置づけを怠らず,それぞれの大会で優勝したのです。その場の大会を勝つだけでなく,次の大会につなげた育成と編成を行っていたのです。これが初の五輪優勝をつかんだことにつながったと思うのです。
●「いいメンバー」を集めるのではなく,「いいチーム」を作りたい
「いいメンバーを集めるのではなく,いいチームを作りたい」
これが稲葉が日本代表のチームを作る上で一貫して目指したことです。経験豊富なだけではなく,個人としての能力が優れているだけでもないです。
肝心なのは,日本代表の勝利のために,自分に何ができるかを考えて,持っている力を存分に発揮できる。選手が結束して一つになるチームを作りたい。稲葉はそのように考えていたのです。そして,東京五輪では,そのような理想のチームで戦うことが出来たと語るのです。
では,「いいチーム」を作るために稲葉が具体的に行動したことを紹介します。まず,できるだけ積極的に現場に行きます。海外を含めて,試合の視察回数は数えきれないとのことです。これには2つの狙いがあると語ります。
1つは,選手をしっかり見て把握することです。現場で所属チームの監督,コーチから,さらに深いところでどういうタイプの選手かを聞きます。リリーフ投手の肩の作り方もその1つです。
それを踏まえた上で選手と接すると,選手たちは「ちゃんと分かってくれてるんだ」と信頼感を抱くことになります。稲葉はそのように気をつけていたのです。
もう1つは,選手にジャパンを意識してもらうことです。視察の時は個人名も出して「きょうは甲子園に森下を見に来ました」などと語ります。時には個人的に選手と連絡を取り,侍ジャパンへの思いを聞いたりもしたのです。
実力だけでなく,ジャパンへの熱量も必要です。何故なら,代表チームではどんな状況にでも対応してもらわなければなりません。国際大会は,1つ負ければ次の対戦相手や日程や試合数も変わります。そのため,シーズンと違う起用法や打順を求められるだけでなく,試合に出られないこともあり得るのです。それを受け入れられるかは熱量によるのです。
実際,稲葉が集めたメンバーは,ジャパンへの強い思いを持っていたとのことです。誰一人嫌な顔もせず,本来の役割ではなくても自分の仕事をしっかり果たしたのです。ジャパンへの熱量を稲葉が見ていたからこそ,「いいチーム」ができたのです。
また,東京五輪代表を発表した直後に,稲葉は代表選手に直筆の手紙を出したのです。これは稲葉がかつて,2007年オフの北京五輪のアジア予選で代表に選ばれた時の経験から思いついたことです。星野仙一監督から同じく手紙をもらい,稲葉はその時の感激を覚えていました。稲葉も監督に就任した時から,星野と同じことをやろうと決めていたのです。
その手紙の最後に,稲葉は「結束」の一言を書き添えました。東京五輪前の代表戦は19年のプレミア12で,その後コロナもあって活動が出来ずに,時間が空いてしまったのです。もう一度世界と戦うには皆が必要だ,一緒に戦おうという思いを込めたのです。
このようにして,稲葉は「いいメンバー」を集めるのではなく,「いいチーム」を作っていたのです。最初からどのようなチームを作るのかを決めていたからこそ,一貫した行動を続けて,稲葉の思うチーム作りができたと思うのです。それが国際大会の勝利につながったのではないでしょうか?
●コミュニケーション能力の高い監督
稲葉の関係者や稲葉に仕えたコーチや選手の証言を集めますと,稲葉監督の特徴としてコミュニケーションを挙げていることが多いのです。では,侍ジャパンを勝利に導いた,稲葉のコミュニケーションとはどのようなものなのでしょうか?
まず稲葉は監督に就任して,コーチを選ぶにあたって次のように考えました。
"私は最初から「全く知らない者同士が一から関係を作るより,よく知っている者がコミュニケーションを深めて,より良い関係を築く方がいい。イエスマンではなく,自分の意見を持っていて言い合える仲良し軍団だったら,それでいい」と考えていたのである。どんな声があろうと,信じた仲間と一つの目標に向かっていこう,という決意は変わりませんでした。”
稲葉はこれに基づいて,日ハム時代のチームメイトでもある建山義紀と金子誠,年齢の近い井端弘和と村田善則,日ハム時代にコーチを務めた清水雅治を選んだのです。この組閣には「お友達内閣」と言われることもあったと思いますけど,稲葉は自分の信念に基づくことからブレなかったのです。
投手コーチを務めた建山は,稲葉について「私が今まで関わってきた中にはいないタイプの監督」と語っています。建山の選手時代を含めて,ここまでコーチの意見を聞いてくれる監督はいないとまで言うのです。
稲葉は建山に対して,「こうしたいからこういうチーム編成にしたい」と指図するのではありません。「内野手は,外野手はどうする?」「投手はどうする?」というような感じで,コーチの意見をすごく聞いていたのです。それを聞いたうえで,受け入れると受け入れないの判断をきっちりするのです。もしも受け入れないと決めた時は,一言声をかけるのです。
稲葉の下だと,コーチの手腕が問われると建山は語ります。案をしっかり考えなければと気合が入り,大変やりがいがあったのです。コーチを一つの駒として扱うのではなく,コーチも全員横並びで接してくれたと,建山は稲葉を捉えているのです。
稲葉は4年間を通して,コーチ陣には「どんなことでも言ってきて」とずっと伝えていたのです。コーチとして,自分の担当の責任を持ってもらっていたのです。勝敗の責任は監督自身が全て取るものの,担当コーチに任せて,全員でいいものを作っていくという方針を決めていたのです。コーチ陣はそれを理解して,自分の仕事を務め上げたのです。
建山の助言を受け入れた一例として,東京五輪での中川皓太と菅野智之の代替選手を選ぶ時を挙げることが出来ます。まず選抜メンバーの少なさから,ワンポイント要員は選びにくいのです。そこで1人ぐ投げ切れる投手として,当時ルーキーの伊藤大海を選んだのです。
もう1人選んだのは,大会前に故障がちになっていた千賀滉大なのです。それを次の言葉で推したのが建山なのです。
”まだ五輪まで時間があるし,千賀は絶対に調子が上がってきます。その確信はあります。そしてギアも上がった時には,とんでもないピッチングをします。五輪時期にベストパフォーマンスになっている千賀を招集してないことの方が後悔します。今の状態からは,上がるしかないです。それまでの試合では打たれるかもしれませんが,気にしないでください”
稲葉以上に様々な投手を4年間見続けてきた建山がここまで言うということで,稲葉は千賀を選ぶと心を決めたのです。明確な根拠を建山が用意したからこそ,稲葉は信じて受け入れることが出来たと思うのです。
実際,伊藤と千賀は東京五輪で抑えるところを見せて,見事に優勝に貢献しました。建山の眼力と稲葉の信じる力は,間違ってなかったのです。稲葉がしっかりとコミュニケーションを取っていたからの結果が出たのです。
稲葉のコミュニケーションはコーチに対してだけでなく,選手に対しても積極的に行っていたのです。どのように取っていたのか,プレミア12で代表に選ばれた(大会直前に故障で辞退)秋山翔吾の証言があります。秋山はその前の小久保裕紀監督の下でも侍ジャパンに選ばれており,稲葉とは代表コーチとの関係でもあったのです。
稲葉は秋山に対して,「今のチームどう感じている?」や,「あの選手,馴染んでいけそう?」という質問をします。これは選手の立場からすると,監督に「大丈夫か?」と聞かれると「大丈夫です,頑張ります」と答えるものです。しかし,選手同士で会話をしていると,本音がポロリと出るものでもあるのです。
監督に対して出ない選手の本音を,秋山は重要と思ったところを稲葉にしゃべっていたのです。稲葉にそのような意図があったのかは分かりませんけど,秋山は稲葉が「結束」や「和」をいつも重んじていることを読み取っていました。そのためにも,選手同士でコミュニケーションを取らないと,ジャパンにかける熱量も上がっていかないと秋山は感じていたのです。お互いに感じ合っていたからこそnコミュニケーションなのかもしれません。
1992年のバルセロナ五輪で日本代表監督を務め,法政大学でも監督をしていた山中正竹も語ります。山中は稲葉を「コミュニケーション力に優れた監督」と語り,その特長として「共感力」と捉えているのです。選手と話をしていても,「ああ,そうだよな。俺もそう思うよ」「なるほど。もう少し聞かせて」などと言って,さらに話をするのです。それは自分の考えがないのではなく,相手の考えを自分の中に引き込み,うまく話を引き出していくのです。自分が話すだけではなく,相手の話を引き出すのが「共感力」だと私は思うのです。
稲葉はコーチや選手とコミュニケーションを取ることで,内発的なモチベーションを高めているのです。「自分のことを理解してくれているな」「この監督と一緒にプレーしたいな」という気持ちにさせていたと,山中は評価しているのです。
他にも,東京五輪ではベンチスタートとなった栗原陵矢,源田壮亮,近藤健介といった選手に対しては,特別に「君たちが大事なんだよ」ということは言いませんでした。それでも,打撃練習中に「調子どう?」と声をかけるようにしており,前日に試合出ていれば「昨日は緊張した?」とたわいのない会話をしていたのです。それに加えて,「明日の相手,救援陣がすごくいいよね」など,自分たちの出番をイメージできるような会話もするようにしていたのです。
私が思うに,稲葉は言葉を選びつつも,飾るようなことを言わないでいたと思うのです。チームが一丸で戦うことをかねてから言っていたことで,ベンチ選手も自分の役割を自覚していたはずです。そう信じていたからこそ,特別な言葉ではなく「自然と言える必要な言葉」を選んだのではないかと思うのです。それによってベンチ選手も意気に感じて,金メダルに貢献するプレーを見せたのではないでしょうか?
以上のように,稲葉はコミュニケーションの高い監督ということが出来,周りもそのように評価しているのです。稲葉の中で「結束」を重んじていたからこそ,自身の持ち味である「共感力」を活かしたコミュニケーションを取っていたと思うのです。まさにこれは,どのような場面でも使える「真のコミュニケーション」ではないかと捉えることが出来るのです。
以上,稲葉監督の特徴を考えてみました。
通常なら,最後に監督の課題や足りなかったところを書きます。
しかし,今回は挙げません。
何故なら,国際大会の監督は「勝ったら全てOK」と言っていいからです。
何年も監督を務めることがあり得るチーム監督に対して,国際大会の監督は就任期間が決まっています。
そのため,その期間だけ勝てばいいのです。
稲葉はアジアチャンピオンシップ,プレミア12,東京五輪と全ての大会で優勝しました。
なので,今後の課題も足りなかったところも挙げられないのです。
そこが,1チームの監督との違いのひとつでもありますね。
それでは締めに入ります。
稲葉は最大の目標である東京五輪を含めて,全ての大会で優勝することが出来ました。
その要因を考えてみますと,これからの侍ジャパンにも必要なものを残したと言えるのです。
1つは,大きな最終目標に向けた計画的な選手進出です。
稲葉は東京五輪という最終目標を見据えた上で,アジアチャンピオンシップとプレミア12の代表を選びました。
そうして段階を踏んだ上で,それぞれの大会を勝って,最終目標の東京五輪の金メダルを獲得できたのです。
これはアジアチャンピオンシップやプレミア12といった,国際大会が設立されたことを活かしたのです。
稲葉が監督の時,アジアチャンピオンシップは第1回,プレミア12は第2回と非常に歴史が浅いのです。
前任の小久保裕紀監督の時は,WBCの前に第1回プレミア12があったくらいです。
その前の山本浩二監督の時は,WBC以外に大きな大会はなかったのです。
大会の他にも日米野球などの他国との強化試合もあります。
それでも,実際に大きな大会で戦う方が,「代表で戦う」という心構えが違うと思うのです。
そのような経験を集約させて,最終目標の五輪やWBC優勝に活かしていく。
その道筋を稲葉が示したように思えるのです。
もう1つ稲葉が示したのは,それを含めた日本代表監督の戦い方です。
それまで野球日本代表は,大会ごとに監督を決めていました。
アテネ五輪が来たら長嶋茂雄が就任,第1回WBCが来たら王貞治,北京五輪が来たら星野仙一という具合にです。
そのため,どうしても計画は短期的なものに限定されてしまうのです。
選手は代表選抜から団結していくのに対して,首脳陣はその前から固まっていくはずです。
ただ,あまりにも期間が短いために,首脳陣が考えを共有する前に大会が来ることもあるのです。
それでうまくいかなかったケースもあるのではないでしょうか?
しかし,2011年から侍ジャパンが常設化させることで,計画的に代表監督を選ぶことが出来ました。
稲葉の場合は,2017年のアジアチャンピオンシップから,恐らく2021年開催予定のWBCまでを務める予定だったと思います。
4年間務めると長期的になったことで,コーチ陣と考えをシェアできる機会は変わったと思うのです。
段階的に選手を選んでいくということも,これによって可能となりました。
それを活かして,稲葉は全ての大会に勝つことが出来たのです。
まさに,これからの侍ジャパンの監督の務め方,戦い方を導いたのが稲葉ではないかと思うのです。
東京五輪で金メダルを獲ることは,様々な野球人の思いに応えたとも言えます。
五輪で金メダルを獲れなかった長嶋,星野をはじめ,野球代表監督たちのリベンジを果たしました。
また,その時戦った選手のリベンジにもなりました。
様々な野球人が,稲葉に対して称賛の言葉を送りました。
改めて日本代表監督が抱える思い,稲葉の偉業を感じるものです。
これからの代表監督は,稲葉を見て「代表監督とは」を考えていくのかもしれません。
稲葉を参考にして,WBCなど最大の目標に向かって戦っていくと思います。
稲葉が示した道筋,日本代表が勝ち続けるための道筋にもなるのでしょうか?
これから侍ジャパンの監督になる野球人の宿命となっていると思うのです。
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今回は,2019プレミア12と2021東京五輪で侍ジャパンを優勝に導いた稲葉篤紀です。
それでは,最後までよろしくお願い致します。
稲葉については,以前も書いたことがあります。
こちらにリンクを貼っておきますので,是非ご覧ください。
こちらを書いたときは2019年2月のことです。
第2回プレミア12が開催される前ということになります。
プレミア12を含めて,2020年開催予定の東京五輪,21年開催予定のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の監督を務める予定でした。
この3つの大会で稲葉がどのように采配するのかを予想していたのです。
それから4年の時を経て,稲葉はプレミア12で優勝しました。
その後にコロナが襲い,東京五輪は21年,WBCは23年に延期されたのです。
稲葉は東京五輪まで監督を務めて,初めての金メダルに導いたのです。
それを持って侍ジャパンの監督を辞して,WBCは栗山英樹が率いることになったのです。
監督を退任した後,稲葉は著書を出しました。
こちらを読んでみて,もう一度稲葉監督を考えてみることにしたのです。
稲葉は2017年の「アジア プロ野球チャンピオンシップ」,19年のプレミア12,21年の東京五輪全てで優勝に導きました。
WBCこそ延期になって指揮をとれなかったものの,プレミア12と東京五輪で初めての優勝という大きな役割を果たしました。
特に五輪の金メダルは,長年誰も成し遂げられなかったことです。
そのため,多くの野球人やファンにとっての念願成就になったと思うのです。
それだけでも,もう稲葉に大きな拍手なのは間違いないですね。
ということで,侍ジャパンの監督として「負けない」という結果を出した稲葉。
「負けなかった」要因はどこにあるのでしょうか?
そこを中心に考えてみたいと思うのです。
それでは著書を読んだ上で,稲葉監督の采配などを考えてみます。
●アジアチャンピオンシップから東京五輪まで,段階を踏んだ育成と編成
稲葉は監督就任当初,2021年開催予定のWBCまで務める予定で契約したと思います。この間にアジアチャンピオンシップ,プレミア12,東京五輪と大きな大会があります。稲葉はこの期間を活かして,五輪とWBCに照準を合わせて侍ジャパンを育成・編成したのではないでしょうか?
コロナが襲ってきたことによって,結果的に21年の東京五輪まで監督を務めたことになりました。そのため稲葉は,東京五輪に向けて逆算した上で侍ジャパンを築いたということになるのです。
まず,17年開催のアジアチャンピオンシップです。この大会は韓国,台湾と共に若い選手の育成を目的とした国際大会です。そのため参加資格は,24歳以下(第1回大会のみ1993年1月1日以降生まれ)または入団3年以内,オーバーエイジ枠(既定の年齢上限よりも年長の選手)が3名というものです。
その時のメンバーはこちらです。
若い選手の育成目的の大会というだけあり,山崎康晃以外は初の侍ジャパン選抜ということになります。中には「この選手って,そんなに活躍したのか?」と思うような代表もいるくらいです。若くて活躍している,将来有望な選手を集めたということになるのです。
3か国しか参加してないということもあり,決勝を含めて3戦しか行われていません。そのため,目立って活躍した選手も,これといって見当たりません。それでも3戦全勝し,日本が第1回大会の優勝となったのです。
ただし,アジアチャンピオンシップはあくまでも「若い選手育成」が目的の大会です。そのため,WBCや五輪と比べると「何が何でも勝つぞ」という気概は,少々薄かったように思います。私自身も,そこまで優勝に舞い上がった記憶もないのです。
では,稲葉はこの大会をどのように位置づけたのでしょうか?この大会をどのように活かしたのでしょうか?
まず稲葉は初戦に臨むにあたって,東京五輪の金メダル獲得のために目指す野球のスタイルを定めました。投手中心の守り勝つ野球。点を取らないと勝てないので,攻撃面では「スピード&パワー」を打ち出したのです。
実際,このメンバーを見てみますと,長打力よりも走力に特化した選手が多いのです。選抜前に辞退を表明したものの,森友哉と吉田正尚も招集予定だったのかもしれません。そのため長打力を集めるところは思い通りではなかったのかもしれません。
それでも,俊足選手を徹底的に集めて,山川穂高といった長打力が武器の選手という,稲葉の構想通りになったところもあると思うのです。この大会では山川,上林誠知,外崎修汰,西川龍馬がホームランを打ちました。そこに機動力と守備力を絡めて,稲葉の思う通りの野球ができたと私は思うのです。
この大会を通じて稲葉は,「俺はこういう野球がやりたい」ということを選手たちにアピールしたと思います。そうすることで,国際大会に出たいならば何が必要なのかの手がかりを与えたと思うのです。このような伏線を張ったことで,後の大会で選手は迷いや疑問を極力少なくして試合に臨めたのではないでしょうか?
また,この大会は初めて日の丸を背負う選手も多かったです。そのため稲葉はまず,「ジャパンというチームは常に勝っていかないといけない」と勝利への意識づけをしたのです。第1回や若い選手育成目的ということで,どうしても気概に欠けるムードがあったと思うのです。しかし稲葉は,この大会でできること,先々につなげることを意識して采配していたのです。
大きく言えば,初めて侍ジャパンになった選手に「これが日の丸を背負うことだ」「これが国際大会だ」ということを経験を通じて伝えたということになります。また,「俺が監督の間は,こうやって国際大会を戦うぞ」というアピールもしました。いわば,東京五輪に向けての下ごしらえを,この大会で実行したということになりますね。
翌年の2018年に日米野球が開催されました。こちらが代表メンバーです。
日米野球は,WBCなどのような本格的な国際大会ではないです。そのため,多くの選手が初めての侍ジャパン入りとなったのです。前年のアジアチャンピオンシップから継続して選ばれた選手もいて,より多くの選手が日の丸を経験することになったのです。
そこに,17年WBCで代表になった松井裕樹,山田哲人,田中広輔,菊池涼介,秋山翔吾を交えたのです。これによって,「日の丸を着けるとは」を共にプレーすることで教えることが出来たと思うのです。「背中で語る」という存在を,アジアチャンピオンシップよりも稲葉は重視したのかもしれないのです。
これらを踏まえて,2019年に第2回プレミア12が開催されました。代表メンバーがこちらです。
色付けされている通り,多くの選手が初めて国際大会の本戦(プレミア12,五輪,WBC)で代表入りとなったのです。この大会で初の侍ジャパンもいますけど,アジアチャンピオンシップや日米野球の経験を経て代表入りした選手も多くいるのです。まさに,「経験を踏まえて」「国際大会を活かして」ということが出来ていると言えるのです。
稲葉本人としては,『17年夏の監督就任以来,強化試合や日米野球で招集してきた若手,中堅,ベテランを含め,スピード,パワー,経験などバランスの良い「強いチーム」ができました』と著書で語っています。この「バランスの良い」というのは,このメンバーを見てみますと確かに言えるのです。
哲人,源田壮亮,菊池,周東佑京といったスピード,哲人,浅村栄斗,正尚,鈴木誠也といったパワーと能力に適した選手。山本由伸や田口麗斗といった若手に,岸孝之や會澤翼といったベテラン。そうした選手に侍ジャパンの経験をさせたことを含めて,「バランス良く」というメンバーを組めたと思うのです。
結果はスーパーラウンドでアメリカに敗れたものの,それ以外は勝って決勝進出しました。決勝で韓国を破り,優勝することが出来たのです。初めて国際大会本戦で優勝したこともあり,稲葉は涙を流しました。
そして,いよいよ東京五輪の時が来ました。コロナが襲いかかったことで,1年延期となりました。そのため,稲葉にとってはこれが監督として最後の本戦となったのです。メンバーはこちらです。
色付けされているように,アジアチャンピオンシップから侍ジャパンを経験を積んだ選手が多いのです(緑色は除く)。そのため,ぶっつけ本番という感じが薄まったということは想像できます。
経験を積み重ねただけでなく,稲葉が当初から構想として持っていた「スピード&パワー」に沿ったメンバーにもなっています。また,由伸や村上宗隆といった若い選手,坂本勇人や田中将大といったベテランというようにバランスよく選ぶこともできたのです。
五輪では日本が全勝し,初めての金メダルを獲得できたのです。北京五輪でメダルなしという苦汁をなめた稲葉にとっても悲願でした。こうして稲葉の侍ジャパン監督は終わったのです。
このように,稲葉は監督に就任してから五輪に向けたチーム育成と編成を行っていたのです。ひとつ一つの大会をただ勝ちにいくのではなく,その大会を次の大会に活かすということを欠かさなかったのです。稲葉なりに「この大会がある意義」を考え,それに沿った代表選びをしていたと考えられるのです。その結果,五輪で金メダルという最大の目標を達成できたのです。
これまでの代表監督を見ても,ここまで段階的に代表選びしていた人もいなかったと思います。これはプロとしての国際大会が増えてきたというのもあります。かつては継続的に国際大会もあったわけでもなく,大会ごとに代表監督を選んでいました。23年現在は4年をベースに代表監督を務めるようになり,だからこそ稲葉のような段階的な代表編成もできるようになったと思うのです。
こうした稲葉の段階的な育成と編成の恩恵を受けたといえば,4つ全てに出てくる康晃と甲斐拓也,日米野球以外の3つに出た近藤健介と源田壮亮だと思うのです。いずれも主力リリーフ,正捕手,ショート,打撃の中心選手とチームの柱になった選手です。稲葉は段階的に走・攻・守全てで柱になる選手を育てていたのです。
もしかしたら,稲葉が今後の代表監督の指針を示したのかもしれません。五輪は次の開催が未定なだけに,最大の大会はWBCとなります。次回は2026年に開催予定ですけど,そこに向けた代表育成と編成をするのがいいと稲葉が示しているように見えるのです。
若い選手を中心に侍ジャパンを経験させて,プレミア12という本戦に向けて準備する。そして,最大の目標への土台を作っていく。国際大会が現状の形である限りは,こうした組み立てが今後の代表監督に求められることだと思うのです。
稲葉退任の後に栗山英樹が監督就任し,23年WBCが行われました。稲葉監督時代に侍ジャパンを経験した選手が主力となり,2009年以来の優勝をつかむことが出来たのです。まさに,稲葉が築き上げた土台を栗山によって活かすことが出来たということなのです。
稲葉が段階的に侍ジャパンを作り上げたというのは,各年ごとにテーマを掲げたところからも挙げられます。18年は「学ぶ」として,日米野球後には五輪に向けたチーム構想がある程度でき上がってきたという手ごたえをつかんだのです。19年は「創」をテーマに,3月のメキシコとの強化試合も踏まえて,プレミア12でチームを「創って」いったのです。
そして20年は「結」をテーマに,チームの結束力を高めて五輪に臨もうとしました。いい形で締めくくるという意味も込められています。ただコロナによって五輪が延期になり,21年に「束」をテーマにしたのです。
プレミア12から五輪まで1年半ほど時間が空くので,「もう一度ジャパンとして結束しよう,チームを束ねよう」という考えから選んだのです。ちなみに,「国民の皆さんも含めて,みんなで結束力を持ってた戦いましょう」や「コロナ禍で尽力してくださっている医療従事者の皆さんへ,感謝の花束を贈りたい」という意味も込めていると語っています。
以上のように,稲葉は「東京五輪という大きな大会に向けて」という意識を崩さなかったのです。それぞれの大会やそれぞれの年の位置づけを怠らず,それぞれの大会で優勝したのです。その場の大会を勝つだけでなく,次の大会につなげた育成と編成を行っていたのです。これが初の五輪優勝をつかんだことにつながったと思うのです。
●「いいメンバー」を集めるのではなく,「いいチーム」を作りたい
「いいメンバーを集めるのではなく,いいチームを作りたい」
これが稲葉が日本代表のチームを作る上で一貫して目指したことです。経験豊富なだけではなく,個人としての能力が優れているだけでもないです。
肝心なのは,日本代表の勝利のために,自分に何ができるかを考えて,持っている力を存分に発揮できる。選手が結束して一つになるチームを作りたい。稲葉はそのように考えていたのです。そして,東京五輪では,そのような理想のチームで戦うことが出来たと語るのです。
では,「いいチーム」を作るために稲葉が具体的に行動したことを紹介します。まず,できるだけ積極的に現場に行きます。海外を含めて,試合の視察回数は数えきれないとのことです。これには2つの狙いがあると語ります。
1つは,選手をしっかり見て把握することです。現場で所属チームの監督,コーチから,さらに深いところでどういうタイプの選手かを聞きます。リリーフ投手の肩の作り方もその1つです。
それを踏まえた上で選手と接すると,選手たちは「ちゃんと分かってくれてるんだ」と信頼感を抱くことになります。稲葉はそのように気をつけていたのです。
もう1つは,選手にジャパンを意識してもらうことです。視察の時は個人名も出して「きょうは甲子園に森下を見に来ました」などと語ります。時には個人的に選手と連絡を取り,侍ジャパンへの思いを聞いたりもしたのです。
実力だけでなく,ジャパンへの熱量も必要です。何故なら,代表チームではどんな状況にでも対応してもらわなければなりません。国際大会は,1つ負ければ次の対戦相手や日程や試合数も変わります。そのため,シーズンと違う起用法や打順を求められるだけでなく,試合に出られないこともあり得るのです。それを受け入れられるかは熱量によるのです。
実際,稲葉が集めたメンバーは,ジャパンへの強い思いを持っていたとのことです。誰一人嫌な顔もせず,本来の役割ではなくても自分の仕事をしっかり果たしたのです。ジャパンへの熱量を稲葉が見ていたからこそ,「いいチーム」ができたのです。
また,東京五輪代表を発表した直後に,稲葉は代表選手に直筆の手紙を出したのです。これは稲葉がかつて,2007年オフの北京五輪のアジア予選で代表に選ばれた時の経験から思いついたことです。星野仙一監督から同じく手紙をもらい,稲葉はその時の感激を覚えていました。稲葉も監督に就任した時から,星野と同じことをやろうと決めていたのです。
その手紙の最後に,稲葉は「結束」の一言を書き添えました。東京五輪前の代表戦は19年のプレミア12で,その後コロナもあって活動が出来ずに,時間が空いてしまったのです。もう一度世界と戦うには皆が必要だ,一緒に戦おうという思いを込めたのです。
このようにして,稲葉は「いいメンバー」を集めるのではなく,「いいチーム」を作っていたのです。最初からどのようなチームを作るのかを決めていたからこそ,一貫した行動を続けて,稲葉の思うチーム作りができたと思うのです。それが国際大会の勝利につながったのではないでしょうか?
●コミュニケーション能力の高い監督
稲葉の関係者や稲葉に仕えたコーチや選手の証言を集めますと,稲葉監督の特徴としてコミュニケーションを挙げていることが多いのです。では,侍ジャパンを勝利に導いた,稲葉のコミュニケーションとはどのようなものなのでしょうか?
まず稲葉は監督に就任して,コーチを選ぶにあたって次のように考えました。
"私は最初から「全く知らない者同士が一から関係を作るより,よく知っている者がコミュニケーションを深めて,より良い関係を築く方がいい。イエスマンではなく,自分の意見を持っていて言い合える仲良し軍団だったら,それでいい」と考えていたのである。どんな声があろうと,信じた仲間と一つの目標に向かっていこう,という決意は変わりませんでした。”
稲葉はこれに基づいて,日ハム時代のチームメイトでもある建山義紀と金子誠,年齢の近い井端弘和と村田善則,日ハム時代にコーチを務めた清水雅治を選んだのです。この組閣には「お友達内閣」と言われることもあったと思いますけど,稲葉は自分の信念に基づくことからブレなかったのです。
投手コーチを務めた建山は,稲葉について「私が今まで関わってきた中にはいないタイプの監督」と語っています。建山の選手時代を含めて,ここまでコーチの意見を聞いてくれる監督はいないとまで言うのです。
稲葉は建山に対して,「こうしたいからこういうチーム編成にしたい」と指図するのではありません。「内野手は,外野手はどうする?」「投手はどうする?」というような感じで,コーチの意見をすごく聞いていたのです。それを聞いたうえで,受け入れると受け入れないの判断をきっちりするのです。もしも受け入れないと決めた時は,一言声をかけるのです。
稲葉の下だと,コーチの手腕が問われると建山は語ります。案をしっかり考えなければと気合が入り,大変やりがいがあったのです。コーチを一つの駒として扱うのではなく,コーチも全員横並びで接してくれたと,建山は稲葉を捉えているのです。
稲葉は4年間を通して,コーチ陣には「どんなことでも言ってきて」とずっと伝えていたのです。コーチとして,自分の担当の責任を持ってもらっていたのです。勝敗の責任は監督自身が全て取るものの,担当コーチに任せて,全員でいいものを作っていくという方針を決めていたのです。コーチ陣はそれを理解して,自分の仕事を務め上げたのです。
建山の助言を受け入れた一例として,東京五輪での中川皓太と菅野智之の代替選手を選ぶ時を挙げることが出来ます。まず選抜メンバーの少なさから,ワンポイント要員は選びにくいのです。そこで1人ぐ投げ切れる投手として,当時ルーキーの伊藤大海を選んだのです。
もう1人選んだのは,大会前に故障がちになっていた千賀滉大なのです。それを次の言葉で推したのが建山なのです。
”まだ五輪まで時間があるし,千賀は絶対に調子が上がってきます。その確信はあります。そしてギアも上がった時には,とんでもないピッチングをします。五輪時期にベストパフォーマンスになっている千賀を招集してないことの方が後悔します。今の状態からは,上がるしかないです。それまでの試合では打たれるかもしれませんが,気にしないでください”
稲葉以上に様々な投手を4年間見続けてきた建山がここまで言うということで,稲葉は千賀を選ぶと心を決めたのです。明確な根拠を建山が用意したからこそ,稲葉は信じて受け入れることが出来たと思うのです。
実際,伊藤と千賀は東京五輪で抑えるところを見せて,見事に優勝に貢献しました。建山の眼力と稲葉の信じる力は,間違ってなかったのです。稲葉がしっかりとコミュニケーションを取っていたからの結果が出たのです。
稲葉のコミュニケーションはコーチに対してだけでなく,選手に対しても積極的に行っていたのです。どのように取っていたのか,プレミア12で代表に選ばれた(大会直前に故障で辞退)秋山翔吾の証言があります。秋山はその前の小久保裕紀監督の下でも侍ジャパンに選ばれており,稲葉とは代表コーチとの関係でもあったのです。
稲葉は秋山に対して,「今のチームどう感じている?」や,「あの選手,馴染んでいけそう?」という質問をします。これは選手の立場からすると,監督に「大丈夫か?」と聞かれると「大丈夫です,頑張ります」と答えるものです。しかし,選手同士で会話をしていると,本音がポロリと出るものでもあるのです。
監督に対して出ない選手の本音を,秋山は重要と思ったところを稲葉にしゃべっていたのです。稲葉にそのような意図があったのかは分かりませんけど,秋山は稲葉が「結束」や「和」をいつも重んじていることを読み取っていました。そのためにも,選手同士でコミュニケーションを取らないと,ジャパンにかける熱量も上がっていかないと秋山は感じていたのです。お互いに感じ合っていたからこそnコミュニケーションなのかもしれません。
1992年のバルセロナ五輪で日本代表監督を務め,法政大学でも監督をしていた山中正竹も語ります。山中は稲葉を「コミュニケーション力に優れた監督」と語り,その特長として「共感力」と捉えているのです。選手と話をしていても,「ああ,そうだよな。俺もそう思うよ」「なるほど。もう少し聞かせて」などと言って,さらに話をするのです。それは自分の考えがないのではなく,相手の考えを自分の中に引き込み,うまく話を引き出していくのです。自分が話すだけではなく,相手の話を引き出すのが「共感力」だと私は思うのです。
稲葉はコーチや選手とコミュニケーションを取ることで,内発的なモチベーションを高めているのです。「自分のことを理解してくれているな」「この監督と一緒にプレーしたいな」という気持ちにさせていたと,山中は評価しているのです。
他にも,東京五輪ではベンチスタートとなった栗原陵矢,源田壮亮,近藤健介といった選手に対しては,特別に「君たちが大事なんだよ」ということは言いませんでした。それでも,打撃練習中に「調子どう?」と声をかけるようにしており,前日に試合出ていれば「昨日は緊張した?」とたわいのない会話をしていたのです。それに加えて,「明日の相手,救援陣がすごくいいよね」など,自分たちの出番をイメージできるような会話もするようにしていたのです。
私が思うに,稲葉は言葉を選びつつも,飾るようなことを言わないでいたと思うのです。チームが一丸で戦うことをかねてから言っていたことで,ベンチ選手も自分の役割を自覚していたはずです。そう信じていたからこそ,特別な言葉ではなく「自然と言える必要な言葉」を選んだのではないかと思うのです。それによってベンチ選手も意気に感じて,金メダルに貢献するプレーを見せたのではないでしょうか?
以上のように,稲葉はコミュニケーションの高い監督ということが出来,周りもそのように評価しているのです。稲葉の中で「結束」を重んじていたからこそ,自身の持ち味である「共感力」を活かしたコミュニケーションを取っていたと思うのです。まさにこれは,どのような場面でも使える「真のコミュニケーション」ではないかと捉えることが出来るのです。
以上,稲葉監督の特徴を考えてみました。
通常なら,最後に監督の課題や足りなかったところを書きます。
しかし,今回は挙げません。
何故なら,国際大会の監督は「勝ったら全てOK」と言っていいからです。
何年も監督を務めることがあり得るチーム監督に対して,国際大会の監督は就任期間が決まっています。
そのため,その期間だけ勝てばいいのです。
稲葉はアジアチャンピオンシップ,プレミア12,東京五輪と全ての大会で優勝しました。
なので,今後の課題も足りなかったところも挙げられないのです。
そこが,1チームの監督との違いのひとつでもありますね。
それでは締めに入ります。
稲葉は最大の目標である東京五輪を含めて,全ての大会で優勝することが出来ました。
その要因を考えてみますと,これからの侍ジャパンにも必要なものを残したと言えるのです。
1つは,大きな最終目標に向けた計画的な選手進出です。
稲葉は東京五輪という最終目標を見据えた上で,アジアチャンピオンシップとプレミア12の代表を選びました。
そうして段階を踏んだ上で,それぞれの大会を勝って,最終目標の東京五輪の金メダルを獲得できたのです。
これはアジアチャンピオンシップやプレミア12といった,国際大会が設立されたことを活かしたのです。
稲葉が監督の時,アジアチャンピオンシップは第1回,プレミア12は第2回と非常に歴史が浅いのです。
前任の小久保裕紀監督の時は,WBCの前に第1回プレミア12があったくらいです。
その前の山本浩二監督の時は,WBC以外に大きな大会はなかったのです。
大会の他にも日米野球などの他国との強化試合もあります。
それでも,実際に大きな大会で戦う方が,「代表で戦う」という心構えが違うと思うのです。
そのような経験を集約させて,最終目標の五輪やWBC優勝に活かしていく。
その道筋を稲葉が示したように思えるのです。
もう1つ稲葉が示したのは,それを含めた日本代表監督の戦い方です。
それまで野球日本代表は,大会ごとに監督を決めていました。
アテネ五輪が来たら長嶋茂雄が就任,第1回WBCが来たら王貞治,北京五輪が来たら星野仙一という具合にです。
そのため,どうしても計画は短期的なものに限定されてしまうのです。
選手は代表選抜から団結していくのに対して,首脳陣はその前から固まっていくはずです。
ただ,あまりにも期間が短いために,首脳陣が考えを共有する前に大会が来ることもあるのです。
それでうまくいかなかったケースもあるのではないでしょうか?
しかし,2011年から侍ジャパンが常設化させることで,計画的に代表監督を選ぶことが出来ました。
稲葉の場合は,2017年のアジアチャンピオンシップから,恐らく2021年開催予定のWBCまでを務める予定だったと思います。
4年間務めると長期的になったことで,コーチ陣と考えをシェアできる機会は変わったと思うのです。
段階的に選手を選んでいくということも,これによって可能となりました。
それを活かして,稲葉は全ての大会に勝つことが出来たのです。
まさに,これからの侍ジャパンの監督の務め方,戦い方を導いたのが稲葉ではないかと思うのです。
東京五輪で金メダルを獲ることは,様々な野球人の思いに応えたとも言えます。
五輪で金メダルを獲れなかった長嶋,星野をはじめ,野球代表監督たちのリベンジを果たしました。
また,その時戦った選手のリベンジにもなりました。
様々な野球人が,稲葉に対して称賛の言葉を送りました。
改めて日本代表監督が抱える思い,稲葉の偉業を感じるものです。
これからの代表監督は,稲葉を見て「代表監督とは」を考えていくのかもしれません。
稲葉を参考にして,WBCなど最大の目標に向かって戦っていくと思います。
稲葉が示した道筋,日本代表が勝ち続けるための道筋にもなるのでしょうか?
これから侍ジャパンの監督になる野球人の宿命となっていると思うのです。
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