本日,プロ野球界で訃報が出ました。
現役時代に南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)などでプレーした門田博光。
1月23日に亡くなっていたと発表されました。
74歳でした。
門田は1948年2月26日,奈良県五條市で生まれます。
天理高校,社会人のクラレ岡山を経て,1968年ドラフト12位で阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)に指名されます。
しかし,門田は入団を拒否して,翌1969年ドラフト2位で南海ホークスに入団します。
1年目から79試合出場して,2年目には31本塁打を記録します。
打点は120となり,2年目で打点王に輝くのです。
選手兼任監督である野村克也の下で,レギュラーとして活躍を続けるのです。
79年の春季キャンプで,アキレス腱を断裂するのです。
当時としては現役復帰は困難と言われる中,門田は復活を見せるのです。
足に負担をかけないよう,徹底した長打狙いのスタイルに変更します。
1980年は41本塁打を放ち,カムバック賞に輝くのです。
81年には44本塁打を放ち,初の本塁打王に輝きます。
83年にも40本塁打で本塁打王に輝き,DHで出場を重ねていくのです。
88年には40歳で44本塁打,125打点で,本塁打王と打点王の二冠に輝くのです。
40歳で40本塁打越えということで,「不惑」という流行語が出たのです。
89年からはオリックス・ブレーブスでプレーし,91年に古巣の福岡ダイエーホークスに移籍します。
92年に現役を引退します。
通算本塁打567は,王貞治,野村克也に続く歴代3位の記録です。
通算打点1678も,王とノムさんに続く歴代3位です。
通算安打2566は,歴代4位の記録です。
アキレス腱を断裂という大けがを乗り越え,様々な偉業を成し遂げた野球人なのです。
引退後は解説者や評論家を務めます。
2006年に野球殿堂入りを果たします。
コーチ就任要請はあったらしいですけど,門田はいずれも断っています。
結局,コーチや監督になることなく人生を終えたのです(大阪ホークスドリームというクラブチームの監督経験はあり)。
私は門田の現役時代を見たことがありません。
門田という存在を知ったのは,パワプロのOB選手として見たのが最初です。
パワーが高くて,足や守備は全然という能力で,まさにDH専任というようなタイプです。
現役時代のVTRを見たことがありますけど,本当に綺麗なホームランに見えます。
常に本塁打を狙う姿勢でも,本当に綺麗にボールを捉えているのです。
スイングとボールの軌道が一致する,「パカーン」というホームランなのです。
それだけの技術を追求したからこそ,通算本塁打3位という偉業を達成したのだと思います。
ノムさんが語るに,江夏豊,江本孟紀と並ぶ「南海三悪人」だそうです。
門田はプライドが高く,ノムさんの助言に反発しまくったのです。
それをノムさんは天の邪鬼という性格だと思い,要求とは逆のことを門田に言ったのです。
コンパクトに振ってほしい時は,「もっと振り回さんかい」と言ったのです。
「人を見て法を説け」ということを,門田を通してノムさんは学んだのです。
門田とノムさんのエピソードについては,「『野村克也からの手紙』を読んで その3」をクリックしてご覧ください。
門田もまた,2020年2月11日に亡くなったノムさんについて語りました。
現役時代は反発していたものの,ノムさんは門田の野球バカを認めていたとのことです。
門田はプライドが高い故,ノムさんが生きている間に素直な気持ちを言えなかったのかもしれません。
しかし,そのプライドの高さが,絶え間ない野球への向上心につながっていたと思うのです。
また1人,南海ホークスを象徴する選手が世を去りました。
こうして訃報が出ることで,南海時代が本当に過去のものと思えてしまいますね。
今後,門田の通算記録を超える選手が現れるのでしょうか?
そこに近づく選手が現れた時,また「門田博光」という名前が出てくるのかもしれません。
その時,我々は改めて門田の偉大さをしるのかもしれませんね。
では,『南海ホークスの歌』を聞きながら,門田を見送ることにします(2023年1月24日アクセス)。
今ごろ,あの世でノムさんなど南海戦士と野球談議をしているのでしょうか?
合掌
現役時代に南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)などでプレーした門田博光。
1月23日に亡くなっていたと発表されました。
74歳でした。
門田は1948年2月26日,奈良県五條市で生まれます。
天理高校,社会人のクラレ岡山を経て,1968年ドラフト12位で阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)に指名されます。
しかし,門田は入団を拒否して,翌1969年ドラフト2位で南海ホークスに入団します。
1年目から79試合出場して,2年目には31本塁打を記録します。
打点は120となり,2年目で打点王に輝くのです。
選手兼任監督である野村克也の下で,レギュラーとして活躍を続けるのです。
79年の春季キャンプで,アキレス腱を断裂するのです。
当時としては現役復帰は困難と言われる中,門田は復活を見せるのです。
足に負担をかけないよう,徹底した長打狙いのスタイルに変更します。
1980年は41本塁打を放ち,カムバック賞に輝くのです。
81年には44本塁打を放ち,初の本塁打王に輝きます。
83年にも40本塁打で本塁打王に輝き,DHで出場を重ねていくのです。
88年には40歳で44本塁打,125打点で,本塁打王と打点王の二冠に輝くのです。
40歳で40本塁打越えということで,「不惑」という流行語が出たのです。
89年からはオリックス・ブレーブスでプレーし,91年に古巣の福岡ダイエーホークスに移籍します。
92年に現役を引退します。
通算本塁打567は,王貞治,野村克也に続く歴代3位の記録です。
通算打点1678も,王とノムさんに続く歴代3位です。
通算安打2566は,歴代4位の記録です。
アキレス腱を断裂という大けがを乗り越え,様々な偉業を成し遂げた野球人なのです。
引退後は解説者や評論家を務めます。
2006年に野球殿堂入りを果たします。
コーチ就任要請はあったらしいですけど,門田はいずれも断っています。
結局,コーチや監督になることなく人生を終えたのです(大阪ホークスドリームというクラブチームの監督経験はあり)。
私は門田の現役時代を見たことがありません。
門田という存在を知ったのは,パワプロのOB選手として見たのが最初です。
パワーが高くて,足や守備は全然という能力で,まさにDH専任というようなタイプです。
現役時代のVTRを見たことがありますけど,本当に綺麗なホームランに見えます。
常に本塁打を狙う姿勢でも,本当に綺麗にボールを捉えているのです。
スイングとボールの軌道が一致する,「パカーン」というホームランなのです。
それだけの技術を追求したからこそ,通算本塁打3位という偉業を達成したのだと思います。
ノムさんが語るに,江夏豊,江本孟紀と並ぶ「南海三悪人」だそうです。
門田はプライドが高く,ノムさんの助言に反発しまくったのです。
それをノムさんは天の邪鬼という性格だと思い,要求とは逆のことを門田に言ったのです。
コンパクトに振ってほしい時は,「もっと振り回さんかい」と言ったのです。
「人を見て法を説け」ということを,門田を通してノムさんは学んだのです。
門田とノムさんのエピソードについては,「『野村克也からの手紙』を読んで その3」をクリックしてご覧ください。
門田もまた,2020年2月11日に亡くなったノムさんについて語りました。
現役時代は反発していたものの,ノムさんは門田の野球バカを認めていたとのことです。
門田はプライドが高い故,ノムさんが生きている間に素直な気持ちを言えなかったのかもしれません。
しかし,そのプライドの高さが,絶え間ない野球への向上心につながっていたと思うのです。
また1人,南海ホークスを象徴する選手が世を去りました。
こうして訃報が出ることで,南海時代が本当に過去のものと思えてしまいますね。
今後,門田の通算記録を超える選手が現れるのでしょうか?
そこに近づく選手が現れた時,また「門田博光」という名前が出てくるのかもしれません。
その時,我々は改めて門田の偉大さをしるのかもしれませんね。
では,『南海ホークスの歌』を聞きながら,門田を見送ることにします(2023年1月24日アクセス)。
今ごろ,あの世でノムさんなど南海戦士と野球談議をしているのでしょうか?
合掌