求究道(ぐきゅうどう)のプロ野球講義

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星野仙一

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監督学 阿部慎之助編

今回は,久々に「監督学」シリーズを書いてみます。

第44弾は,2024年シーズンから読売ジャイアンツの監督を務める阿部慎之助です。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


まずは,阿部の簡単なプロフィールを書いてみます。

1979年3月29日,千葉県浦安市で生まれました。

安田学園高校から,中央大学へ進学します。

2000年のシドニー五輪に出場しました。

2000年ドラフト1位で,読売ジャイアンツを逆指名しました。

1年目の開幕戦でスタメン起用され,山倉和博以来23年ぶりの新人捕手開幕スタメンとなったのです。

1年目から127試合出場し,13本塁打と確かな長打力を見せたのです。

2年目は正捕手に定着し,127試合出場で初めて規定打席に達しました。

打率.298,18本塁打,73打点を記録し,ベストナインとゴールデングラブ賞に選ばれました。

この年の優勝・日本一に大きく貢献しました。

04年は4月だけで16本塁打を放ち,月間本塁打でNPBタイ記録を樹立しました。

最終的には打率.301,31本塁打,78打点を記録し,「恐怖の7番バッター」と言われるようになりました。

07年に主将に任命され,第72代巨人軍4番にもなりました。

33本塁打と,101打点と初めて100打点超えの記録を残しました。

08年はプロで初めて侍ジャパンに選ばれ,北京五輪に出場しました。

09年WBCにも出場し,優勝に貢献しました。

巨人の正捕手として,07年から09年のセ・リーグ3連覇,09年の日本一に貢献したのです。

2010年は44本塁打を放ち,初の40本塁打超えとなったのです。

12年は正捕手と4番を両方務め,名実ともにチームの中心として引っ張りました。

打率.340,27本塁打,104打点を記録し,首位打者と最多打点の二冠王に輝きました。

チームの優勝・日本一に貢献し,セ・リーグMVPにも輝いたのです。

13年WBCでも4番と正捕手を務め,日本の中心選手として存在感を見せていました。

15年からは一塁手メインになり,それでもチームの顔として引っ張っていきます。

17年に通算2000本安打を達成し,名球会入りを果たします。

巨人の捕手として初の2000本安打達成者でもあります。

19年オフに,優勝を置き土産に現役を引退します。

2020年から,巨人の二軍監督を務めます。

22年は一軍作戦兼ディフェンスチーフコーチ,23年は一軍ヘッド兼バッテリーコーチを務めます。

ファームを指揮した後,原辰徳監督を支えるポジションにつきます。

そして,24年シーズンから巨人の一軍監督に就任します。


以上,阿部の簡単なプロフィールでした。


それではまず,阿部が現役・コーチ時代に仕えた監督を見てみます。阿部1

巨人生え抜きということもあり,仕えた監督の数は少なめです。

その中でも最も長く,優勝・日本一を経験できたの監督として原がいます。

恐らくは,原をメインに参考にしていくと考えられます。

少しだけですけど,長嶋や星野といった他の1000勝監督の下でプレーも経験していますね。


それでは,阿部がこれらの監督にどのような思いを持っているのか書いてみます。

・長嶋茂雄

 もしも阿部が入団した時の監督が長嶋でなければ,阿部の野球人生も変わっていたのかもしれません。仕えたのは1年だけですけど,最初の1年で阿部の行く末が決まったと言っていいところがあるのです。
 阿部は大学時代,打撃で突き抜けたものを見せていました。そのため,大学野球の重鎮は長嶋に「阿部は打撃が優れているから,捕手ではなく外野で起用する方がいい。打撃力なら高橋由伸以上」と言ったとのことです。
 これに対して長嶋は,「捕手だからこそ阿部を獲得したのです」と返したのです。大学野球を見てきた重鎮が言っただけに,その通り外野で阿部を起用してもおかしくないのです。しかし長嶋は阿部の捕手としての素質を見込んだのか,当時のメンバーの都合上からなのか…阿部を捕手で起用することに迷いを見せなかったのです。
 また,もう1つ大きいと言えるのは,阿部を1年目から捕手で起用したのは,当時ヘッドコーチを務めていた原の助言とのことです。原が長嶋に進言したからこそ,1年目から阿部が積極的に起用されたのです。原の著書によると,第2次長嶋政権最後の1年は原に采配させていたとのことです。それもあり,長嶋は1年目から阿部を起用すると決めたのかもしれません。
 以上のように,長嶋の信念と原の進言がなければ,阿部は巨人の正捕手になっていなかったのかもしれないのです。そうなれば,阿部は捕手としての知識と経験を重ねることができないことになります。監督としての采配もいろいろなところで変わっていたのかもしれません。
 そのようなことに対して阿部は,「原さんの言葉を信じて起用してくださった長嶋さんも僕にとっては大恩人です」と語っています。自分が「捕手をやってきてよかった」と思うからこそ,「大恩人」と言い切れると思うのです。
 そんな1年目の阿部にとって,長嶋は「神様」のような存在と語ります。現役時代に圧倒的な成績と存在感を見せて,「ミスタープロ野球」と言われるまでの野球人です。「僕レベルの選手が話をするなんてとんでもない」くらいと,阿部は語ります。
 阿部が長嶋の采配を見て感じたことは,実は綿密に戦略を練っていたということなのです。また長嶋自身に捕手の経験はなくとも,捕手目線で考えたらどう見えてくるのか。そのようなことを常に考えて采配していた。阿部はそう感じたのです。
 長嶋といえば「カンピューター采配」と,ひらめきに頼るイメージがあると思います。ところが間近で見た阿部は,そうではないところを感じたのです。そのギャップ故なのか,阿部は驚かされたと語るのです。
 長嶋監督の下でプレーしたのは1年でしたけど,その後も長嶋は阿部を見ていました。そして阿部が引退を決めた後,長嶋から連絡が来ました。「お前さんはいくつになったんだ?」と聞かれると,阿部は「40歳です」と答えます。長嶋は「そうか,もうおじいちゃんだな」と言い,阿部は笑いました。
 その直後,長嶋は阿部に言いました。
 ”お前さんの野球人生はこれからまだ長い。そのことだけは肝に銘じておきなさい”
 「襟を正された思いがした」と阿部は語ります。選手としてはおじいちゃんでも,指導者としてはまだまだ生まれたての赤ちゃんです。
 これから一日一日を過ごしていくうちに,ヨチヨチ歩きができるようになり,やがて大人へと成長してきます。何年先になるかは分からないけど,指導者として多くの人から認めてもらえるところまでたどり着きたい。長嶋の言葉から,阿部はそう思うようになったのです。
 選手として1年目から起用され,指導者になるにあたっての心構えを考えるきっかけを与えられた。両方の1年目に長嶋が関わっているのです。どちらの面でも長嶋の存在がなければ,阿部監督もなかったと思うのです。
 なお,長嶋について詳しくは,以下のリンクをクリックしてご覧ください。

・原辰徳

 阿部が最も長く関わった監督が原です。著書でも原について多く語っており,恐らく監督としても一番参考にする存在だと思います。
 入団1年目,原が長嶋監督の下でヘッドコーチを務めていたときのことです。阿部の後ろに長嶋と原が仁王立ちしています。阿部が試合でミスしたり,大量失点したりすると,原は首根っこをつかみ,ベンチ裏に連行します。
 「お前さんは,この試合がどういう試合なのかわかっているのか?」
 原がそう言うと,阿部は「はい!すみませんでした!」としか言えません。もしも「わかっています」などと言えば,「だったらなんであんなリードをしたんだ!?」と追及されるだけです。
 こうしたこともあり,阿部にとって原は『「非常に怖い存在」でしかなかったんです』と語ります。ヘッドコーチ時代から阿部は原に恐怖心を持っていたということになります。
 そんな原の下で,阿部は13年間選手としてプレーしていました。原を見て阿部が感じたのは,「最も勝利に対する執着心の強い監督」ということなのです。そのことが,ベンチ裏に連行したことにも表れているのかもしれません。
 原はシーズン中に必ずこう言っていました。
 「チームの主力選手であれ,外国人選手であれ,送りバントのサインを出す場面は必ずあるから,普段からきちんと練習しておくように」
 原が主力選手にもバントすることがあるのは,「何が何でもランナーを進めてチャンスを拡大させてやる」という執念からだと思います。主力選手もいつでも打てるわけではないです。確実にランナーを進めて,より確実に点を取れるようにする。原の勝利への執念から出る采配ではないでしょうか?
 それに対して阿部は,「よし,バントのサインが出ているんだから,ここはバントをきっちり決めよう」と腹をくくります。「打ちたい」という本心はあるものの,バントを決めた後に犠牲フライを決めると1点取って勝ち越します。そのままチームが勝利した方が,断然うれしいと阿部は思っていたのです。
 また,バントをきっちり決めることで,打率を下げずに済みます。そうして前向きに捉えていたのです。実際,阿部が19年間でバントをしなかったのは,5シーズンのみです(その内4シーズンは原政権)。原のそうした執念の采配を,阿部も監督として実行する時があるのでしょうか?
 2009年,阿部は神宮球場での試合後,いつも受けているマッサージをせずに球場を後にしました。すると翌日,ぎっくり腰になったのです。トレーナーから報告を聞いた原は,阿部を呼んで言いました。
 「昨日はどんな時間を過ごしていたんだ?マッサージもせずにすぐに帰っただろう?それで翌日,ぎっくり腰になってしまうなんて,オレには納得できん!」
 いつもと同じルーティンをした上で起こった故障なら,原は何も言わなかったと思います。阿部が準備を怠ったからこそ,原は問題視してきつく叱った。阿部はそう思い,準備の大事さを学び,「今の自分にとって何が必要なのか」を常に考えながら行動するようになったと語るのです。
 この件は,原自身の著書でも語られています。原から見た阿部は,人柄もよく人望のある選手で,天真爛漫で年上にも年下にも好かれているとのことです。一つ気になるのは,何かことが起きても「あー,しょうがない」と言って済ませてしまうタイプと見ていたのです。それが苦言につながったのかもしれないのです。
 現役最終年,チームはリーグ優勝を果たしました。阿部の中では,「もう1年現役を続けられるかな」と思っていました。しかし優勝直後,原に「余力を残して指導者になれ」と諭されたのです。
 「自分も1995年に引退したときに,『まだできる』という思いを抱きながらも引退を決めた。ボロボロになってまで野球を続けたら,『もう野球はいい』と達成感にあふれてしまって,指導者をやろうなんて思わなくなってしまう。余力を残して辞めていくからこそ,指導者になったときに,『よし,来年はこういうことをやっていこう』と新たなチャレンジ精神を持つことができるんだぞ」
 この言葉を聞いて,阿部は納得して引退を決めたのです。このエピソードを聞いて,巨人でコーチを務めたことある橋上秀樹はこう語ります。
 ”「オレはまだまだこれだけできる。でもお前たちは全然オレのレベルに到達していないじゃないか」とね。ボロボロになるまで現役を続けた場合には,どんなにいいお手本を見せても,「あの人の晩年は今一つだった」と,若い選手たちから距離を置かれてしまうなんてこともあるかもしれない。”
 それに対して阿部は,「そう思うとなおさら,原監督の言葉はストンと僕の心に落ちました」と語るのです。
 思えば巨人のOBで監督になった人は,余力を残して引退することが多い気がします。川上哲治,長嶋,王貞治も最終年までレギュラーを務めていました。原も阿部も,代打ならもう少しできていたのかもしれません。それでもそこでスパッと引退し,指導者を務めていくという流れが巨人の中でできていたように見えるのです。
 ただし,この流れの中で中途半端だなと感じるのは高橋由伸です。高橋も最終年は代打でならまだできる成績であり,翌年も現役を続ける意向でした。しかし原が監督辞任すると,監督就任を要請されます。それで余力を残して現役引退を決めて,監督に就任したのです。
 ところが高橋は3年間で優勝することができず,監督を辞任したのです。現役に未練を残したまま監督を務めたことで,徹することができなかったように見えたのです。
 原は阿部に説く時,その「失敗」を踏まえていたと考えることはできるでしょうか?阿部の様子を見て,「これなら未練なく引退できるかもしれないな」と感じたのかもしれません。最終年にチームが優勝した,引退後にコーチに就任したという点で,阿部と高橋とでは違いがあります。こじつけかもしれませんけど,そうした「失敗」の経験も原は活かしていたのかもしれません。
 こうして原に説かれことで,阿部はこう思ったのです。
 ”原監督からは巨人の将来や,僕の将来についてこんなことを考えていると,具体的な話を初めて聞くことができた。僕が想像していた以上に,原監督には巨人,そして僕のことを親身になって考えていたことを痛感し,そのお気持ちに応えるべく「今年で引退しよう」と肚を決めた。”
 そうした納得できたことで,阿部は引退して指導者になったと思うのです。指導者としても原を見続けて,いろいろ学んだと思います。もしかしてヘッドを務めていた23年は,原に采配させられていたのかもしれません。そうして満を持して,24年シーズンから阿部が監督を務めるのです。
 このように,阿部は原から多くのことを学びました。また多く勝ったということもあり,説得力も強いと思います。これから監督を務める上で,「原さんならこう考えるな」と一番の参考にするのかもしれません。
 なお,原について詳しくは,以下のリンクをクリックしてご覧ください。


以上,現役・コーチ時代に仕えた監督に対して,阿部が思ったことを書いてみました。


1年目から積極的に起用されて,周りからいろいろ言われていました。

前年まで村田真一が正捕手を務めていただけに,納得しない人も多くいたと思います。

当時の阿部は守備面など拙いところが多かっただけに,投手陣でも「投げにくい」と思う人がいたのではないでしょうか?

それでも阿部は必死に鍛えまくり,やがて誰からも信頼される捕手になったのです。

現役時代,後輩の小林誠司のリードに苦言を呈しているところを見たことがあります。

それだけ説得力のあるリードができるようになった証に見えるのです。

1年目から積極的に起用されたことで,叩かれながらも鍛錬を続けました。

そうした経験を活かしたからこそ名選手となり,監督に選ばれるまでになったと思います。


それでは,阿部が監督としてどのような采配をするのか考えてみます。

・二軍監督時代の「罰走」の意味と,そこから選手に伝えること

 阿部が二軍監督を務めていたある時,賛否両論のことが起こりました。阿部が実行したことに対して,「時代錯誤だ」という意見が出たのです。
 2020年3月22日,巨人の二軍は早稲田大学と試合しました。巨人は敗れて,阿部は試合後選手たちに約1時間の「罰走」を命じたのです。これに対してダルビッシュ有などが苦言を呈し,「パワハラ」とまで言われたのです。同年8月に中央大学戦で敗れた時も,同じく「罰走」を命じたのです。
 これに賛否両論があるのは間違いなく,現在でもいろいろな意見があると思います。そのことは一旦置くことにして,何故阿部が「罰走」を実行したのかを見てみます。
 まず阿部は,「罰走」がいいか悪いかについては理解しています。阿部が意図するのは選手をしごくことや鍛えることよりも,もっと見たいものがあるからです。それは「罰走」する様子から見えるものなのです。
 ”僕が見たいのは,罰走する様子から見えてくる「チクショー」という悔しさだったり,今ではあまり理解されないかもしれませんけど,「根性あるな」とこちらに思わせる選手たちの気持ちの部分ですね。あのときも,彼らが走るその姿を,僕を含めたコーチ是認で見届けていたんですよ”
 阿部の意図を肯定する側に入って考えてみますと,阿部が求めていたのは首脳陣の厳しさに応えることではないのです。選手自身が自分で厳しさを作れているのか,悔しさが湧いてくるのか?それを見たかったからだと思うのです。この「厳しさのベクトル」が重要だと思うのです。
 私が想像するに,嫌々で走っている選手はプロで大成しないと思います。その人は練習させられている姿勢で,自分からは何もしないことが多いと思うのです。
 一方で,「チクショー!まだまだ練習が足りないじゃん」と思う選手は,すぐに実行する意味でも走ると思います。もしも「1時間じゃ足りない,2時間だ」と思う選手がいれば,その選手は大成する可能性が高くなると思うのです。
 このように,ただ首脳陣の厳しさに応えるだけの選手なのか,首脳陣関係なしに自分で厳しさを作ることができるのか?これを阿部は見たかったので,「罰走」させたのではないかと思うのです。ひいてはこの姿勢の違いによって,一流になれるか否かを分けると私は考えるのです。
 この姿勢の違いについて,阿部は著書で語っています。
 ”今のジャイアンツの若い選手を見ていると,一軍で活躍するための練習を積んでいるというよりも,「野球という授業を受けている」ようにしか見えないんですね。コーチが先生で,選手が生徒という立場で,あらかじめ作成した練習メニューを,決められた時間のなかで黙々とこなしていく。そうして一通りこなして夕方になったら,「はい,今日の練習は終わりですよ」となる。これって,学校で授業を受けているのとほとんど変わらないことですよね。僕は「それで本当に一軍で活躍できるのか?」って思ってしまうんです。”
 本来自分で悔しさを持ち,負けた試合後に練習するのは当然。それなのに誰もやらない。それで一軍で活躍できるのか?阿部がファームの選手を見て危機感を持ったからこそ,首脳陣から課したということなのです。
 阿部自身,現役時代はそうした姿勢で練習に取り組んでいました。
 ”とにかく練習することしか考えていませんでした。休みの日もとにかくグラウンドに来て,練習練習の日々。「チームが勝つためには,自分が練習して技術を向上させること」,もうその一心でしたね。(中略)猛烈なプレッシャーをはねのけるためには,愚直に練習して向上を図るしかなかったんです。”
 恐らく,今の巨人のファームの選手で,阿部以上に練習している選手はいないと思います。もしかしたら,一軍にいる選手でもいないのかもしれません。もしもいれば,阿部並みかそれ以上の成績を残していると思うのです。
 また努力について,阿部は次のように語っています。
 ”努力の難しいところは,1やって「努力した」と言い切る人もいれば,100やっても,「まだまだ努力が足りない」という人もいますよね。「これだけやったんだ」と納得できる基準値をどこに設定して,どれだけ自分を高めていけるかが大事だと思ったんです。
  僕は100どころか200,300やっても「まだまだ」と思えるようにしたかった。そうした練習を積み重ねていくことで,今より技術や体力が向上していくと考えたんです。”
 以上を踏まえますと,阿部はプロとして持つべき姿勢,努力について選手たちの意識改革をするのではないかと思うのです。近年一流と言える選手が現れる頻度が少ないのは,こうした姿勢を持つ選手が少なくなっているからと思っていると想像できます。
 そうした意識改革を経て,ファームから選手をすくい上げることも考えられます。ファームで選手を見て,自分の厳しさを持つ選手を一軍に上げていくのかもしれません。そうすることで一流を生み出して,チーム力を高めると考えられるのです。


・キャッチャー目線の野球を選手に浸透させるのか?

 阿部は著書でキャッチャー目線で感じた野球観を語っています。それを監督として選手に浸透させて,選手のレベルアップを図るのかもしれません。では,阿部の語るキャッチャー目線の野球観とは,どのようなものでしょうか?
 まず,9回を1点差でリードしているのと,2点差でリードしているのとでは,心理状態が全然違うと語ります。3点差になれば,気持ちはさらに楽になるとのことです。「相手チームより1点でも多く取って,最終回を迎えたい」と思うのは,監督であればもちろんのことで,選手の立場で考えても当然のことと語ります。
 だからこそ,原の主力選手でもバントを命じることなどに理解を得たのです。捕手からしても,1点でも多く取ると気持ちが変わるのです。そこから考えて,少しでも確実に点を取るためにバントさせるというのは理に適っているのです。
 また自身の経験からでもあると思いますけど,阿部は「若いキャッチャーを起用するのはアリだと思っているんです」と語ります。その上で重要なのは,「この時の配球はこうするべき」とピッチャーとディスカッションできるかどうかなのです。配球に正解がないだけに,「なぜそのボールをキャッチャーが要求したのか」その根拠が言えるようではならないと阿部は語るのです。
 阿部もルーキー時代,斎藤雅樹,桑田真澄,工藤公康といったベテラン投手が集まっており,上原浩治といった主力選手もいました。こうした選手に揉まれて,阿部は自身のリードなどスキルを磨いていったと思います。現に著書で,桑田から学んだことも語っています。
 こういうことができたのも,阿部が投手陣とディスカッションできたからだと思います。入団したての未熟なところから,ベテラン投手が培ってきた様々な哲学を取り入れてきました。そこから「阿部流」のリード術を身につけて,誰からも頼られる捕手になったと思うのです。
 もし意見の合わないピッチャーがいたら,「だったらいっぱい話をしよう」と議論を重ねていけばいいと語ります。実力のあるピッチャーであるにもかかわらず,「自分と考え方が合わないから」という理由で距離を置いてしまうのは,チームのためにならないということなのです。チームが勝つためには,ピッチャーとキャッチャーのお互いの考え方を共有して,ピッチャーの持っている力を100%発揮させるのがキャッチャーの務めと,阿部は考えているのです。
 阿部が捕手の再教育に務めるのなら,この投手と捕手の関係性を見直していくのかもしれません。また,「正捕手は1人が理想」と考えていると想像できます。2023年に正捕手を務めた大城卓三の再教育を進めるのか,はたまた新たな若き捕手を育成していくのか…いずれにしても,捕手の見直しは,阿部が最も力量を問われるところだと思うのです。
 阿部の持論の中に,『「キャッチャーは経験がものをいうポジションだ」と言う方もいましたけど,僕はそうは思いません』というのがあります。バッターボックス内での仕草や,ファーストスイングを見た時に,「あ,きっとこのボールを待っているんだろうな」という読みは,キャリア関係なく,若い時にだってできるものと語るのです。阿部自身が経験の中で気づいた持論だからこそではないでしょうか?
 以上のように,阿部は自身の経験から捕手論を作り上げてきました。そのキャッチャー目線での野球を,今度は監督としてチームに浸透させていくと考えられるのです。これからミーティングするなどして,持論を知ってもらうようにするでしょうか?
 そうすることで,選手やコーチ陣は「阿部野球」というのを知ります。すると阿部の采配の意図を汲みやすくなり,采配の実行をしやすくなります。捕手目線でのサインなどを出す時に,あらかじめ阿部野球を知っておくと「そうか,そうだよね」と納得して迷いがなくなると思うのです。
 自分が培ってきた野球で,それまでは自身のプレーやコーチとしての指導という個人での活動に活かしていました。今度は現場のリーダーとして全員に波及させる,すなわち氷から水に解かして広める「氷解」を求められているのではないかと思うのです。


・昭和の継承と令和への変化

 阿部は引退後に記した著書で,「僕は昭和の頃に学んだ,いい部分を指導に取り入れて,悪い部分は排除していこうと考えています」と語っています。昭和で培ったものでいいところは継承し,指導者を務めていく令和で変化をつけていくということになります。
 阿部はまず,「プロの世界を生き抜いていくうえでの厳しさを植えつけるためには,一定の厳しさは僕は必要だと思っているんです」と語ります。かつての厳しさと言えば,罵声や鉄拳制裁といった「恐怖政治」のことを指すかと思います。
 「罰走」を課したことある阿部ですけど,鉄拳制裁については排除する方針です。今の時代では,うまくなるどころか,委縮してしまってコミュニケーションすらとれなくなってしまうと語ります。そうなりますと肝心なのは,「肝心な厳しさとは何か」ということになるかと思います。
 それについて,阿部はひとつの問いを出します。
 「どうして君たちは二軍にいるのか?」
 答えは明白で,一軍の戦力になるだけの実力が備わってないのです。だからこそ実力をつけるために,今何をしなければならないのでしょうか?そのように課題を示して,徹底的に練習に取り組ませるのです。
 ここで「選手から嫌われてしまうかもしれない」「選手から嫌われないように指導しよう」などと考えると,建前ばかりで本音を言えなくなってしまいます。感情的に言うのではなく,「今のままだと,2~3年後はこの世界にいられないぞ」と選手に危機感を持たせて,練習や試合に取り組ませる。その時のいい方はきついかもしれませんけど,結果的に選手のためになるのではと阿部は考えるのです。
 すなわち,阿部の考える真の厳しさとは「二軍にいることの恐怖」からではないでしょうか?これを自覚してない選手は,簡単に妥協してファームに安住すると思うのです。ここを自覚させるために,どう厳しさを使っていくのかが,令和で必要なものだと思うのです。
 また,阿部は著書で「若い選手への指導に関して,過保護すぎでは成長していかないんじゃないかと思うんです」と語ります。一軍に上がるレベルがないのなら,徹底的に鍛え上げないと伸びていきません。かつてなら,首脳陣による「しごき」一辺倒の指導だったと思います。阿部は選手を成長させるためには,「守ること」と「鍛えること」をバランスよくやる必要があると語るのです。
 また,昭和の指導でよく言われたのは「見て盗め」だと思います。プロ野球界でも,かつて後輩が実績を残している先輩に変化球の投げ方を聞いたときは,「銭を持ってこい」と言われたとのことです。監督でもかつては,1人のカリスマ的な存在でチームを変える影響を与えていたイメージがあるのです。
 対して阿部は,二軍監督時代に選手全員に「わからないことがあったら一緒に考えていこう。そうやって野球のことを学んでいく力を養っていこう」と言ったのです。選手の力量に合わせて声掛けする重要さも知っています。また,試合後に選手に打った球や狙った球について聞き,根拠のある答えが返って来れば「そうか」と納得するようにしているのです。
 他にも,コーチから日々の練習内容について,逐一報告してもらうようにすれば,何か困ったことが起きた時にはコーチ1人で悩むのではなく,監督である自身と一緒に考えていこうというスタンスでいるのです。また,マスコミに対しても,わからないことがあったら一緒に話し合い,少しずつ着実に歩んでいく信頼関係を築いていきたいと思っているのです。
 以上のように,阿部は自分だけで考えたりするのではなく,選手やコーチと「一緒に考えていこう」というスタンスで二軍監督を務めていたのです。すなわち,昭和の一辺倒の指導から,「真のコミュニケーション」として令和で進化させていくと思うのです。「監督だから偉い」というのではなく,「一緒に」というのが進化のポイントなのです。
 昭和で阿部は「厳しさ」を学んだと思います。その必要性を感じつつ,本当に必要なところだけを残して継承していきます。そして,令和でさらに求められている「コミュニケーション」。この2つで「真の」を追求しながら継承と進化をして,監督業にいそしむと私は思うのです。


以上,阿部監督が実行しそうなものを予想してみました。


では最後に,阿部監督の課題がどのようなものなのかを考えてみます。

・背負いすぎて,独りよがりの采配にならないか?

 著書で阿部と対談したのは,2012年から14年まで巨人でコーチを務めていた橋上秀樹です。橋上は阿部の現役時代を振り返って,次のように語っています。
 「慎之助の現役時代を見ていて思ったのは,責任を過度に背負い過ぎているなってことだった。とかくキャッチャーというポジションは,ピッチャーが打たれたら批判されがちだけど,それを一身に背負っていたように思う。実は繊細なタイプにもかかわらず,あれは見ていて気の毒だった。それだけにオレがジャイアンツに行ったときには,慎之助の精神的な負担を軽減させようと思って,心のケアを第一に考えていたんだ」
 橋上のケアによって,阿部の成績は変わったのです。2012年に首位打者と打点王の二冠に輝き,セ・リーグMVPにまでなったのです。優勝・日本一にも輝き,真に巨人は「阿部のチーム」になったのです。この頃から阿部はたまにファーストをやることも出てきましたけど,それが精神的にリフレッシュするのも大切と思っていたのも橋上なのです。
 その橋上から見て阿部は,背負い過ぎているように見えたのです。血液型がA型だからなのか,ルーキー時代から背負わされるようになっていたからなのか…それが「もっと練習」などいい方向にもなったかもしれませんけど,なかなか突き抜ける感じになってなかった一因なのかもしれないのです(ちなみに,著者である私自身はかなり血液型の性格を信じています。「ただの偶然」という人には,「だったら世の中の出来事は,全て『偶然』で片づけてよくない?」と言っておくくらいです)。
 24年シーズンから,阿部は現場のトップである一軍監督を務めます。それまでは二軍監督やヘッドコーチなど,原監督という傘があってのことです。そのため,多少背負い過ぎることは軽減されていたのかもしれません。
 しかし,現場のトップとなれば,もうその傘はないのです。自分の代わりに責任を負ってくれるものはいないのです。そうなると,阿部は再び背負い過ぎるようになり,自身で唱えた対話の必要性も忘れてしまうのかもしれません。そうして独りよがりの采配になる可能性があると思うのです。
 そうならないためのケアと準備は必要だと思います。ヘッドコーチなどが,阿部が暴走した時の止め役を務められるのか?阿部自身が精神を落ち着かせる場や時間を作ることができるのか?
 背負う立場になったと思いますけど,度が過ぎては誰もついてこれないと思います。そのバランスをどうつかんでいくのかが,阿部監督の課題の1つだと思います。


・自身の失敗をうまく捉えられているのか?

 阿部は失敗について,次のように語っています。
 「失敗も野球のひとつなんですよね。なぜ失敗したのかを選手と共有することによって,次につなげていく。監督だから偉いのではなくて,監督だって選手と共有することによって,次につなげていく姿勢が大切だと僕は思っています。一軍から二軍の選手を誰か上げる話になったときにも,僕のほうから提案することがありました。『二軍では結果は出てないんですが,彼はこれだけのことをやっていました」と具体的な成果を根拠を持って話をすれば,原監督をはじめ一軍の首脳陣は耳を傾けてくれます」
 この視点は,自身が選手を見るからのものだと思います。選手が失敗したとしても,監督たち首脳陣と共有することで,次に何をすべきかを見つけていく。失敗をそう捉えるべきではと,阿部は考えていると思います。
 阿部も現役時代や指導者時代,様々な失敗をしてきたと思います。他人の失敗を以上のように語っていますけど,自分の失敗をどのように捉えているのでしょうか?恐らく失敗を消化して,次の成功につなげていったとは思います。だからこそ,ここまでの成績を残すことができたと思うのです。
 自身の失敗をうまく捉えるには,謙虚な姿勢が必要だと思います。自分の課題をしっかりと見つけて,「共に考えていこう」という姿勢を持ち続けることができるのか?他人のことを冷静に見れても,自分のことに同じように見れるとは限りません。
 選手やコーチ陣と向き合うのと同時に,自分とも向き合っていくことができるのか?それは背負うというだけではないと思います。しっかりコミュニケーションを取れるようになってこそ,自分で気づくことがあると思うのです。阿部にその考えがあるのでしょうか?


以上,阿部監督の課題を考えてみました。


それでは締めに入ります。

阿部が将来的に巨人の監督になることは,恐らく既定路線だったと思います。

フロントもそう思って,引退後すぐに二軍監督にしたのではないでしょうか?

そうしてファームを知ってもらいながら,監督としての「リハーサル」を積んでいったと思うのです。

そして一軍コーチとして,原を身近に見ていたと思います。

原が自ら帝王学を阿部に叩き込んでいたのでしょうか?

阿部がヘッドを務めていた時に,自分が長嶋にされたのと同じように采配させて「リハーサル」をさせていたのでしょうか?

それらは分かりませんけど,阿部は監督になる準備をしていたと思います。

そして,満を持して阿部監督が誕生したのです。


水原茂,川上哲治,長嶋茂雄,藤田元司,原辰徳と,巨人の名選手が名監督になる流れは続いています。

その流れの中に,阿部が飛び込むことになります。

ただし,流れだけで名監督になれるほど甘くはないはずです。

流れができているということは,それだけの歴史と伝統があります。

それを継承することが,阿部の使命でもあるのです。

果たして,阿部は監督としてもさらなる歴史と伝統を築くことができるのでしょうか?

阿部の挑戦は,優勝以外にもあると思うのです。



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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。


阿部慎之助の野球道
橋上秀樹
徳間書店
2020-09-29





原点―勝ち続ける組織作り
原 辰徳
中央公論新社
2010-03-25


石井一久監督が辞任,楽天が強くなるのに必要なのは?

本日,楽天の石井一久監督が,今季限りで辞任すると報道されました。

まあ,3年間務めて2年連続CSすら行けない成績。

これはもう仕方ないと思っています。


後任については,現在のところある記事で今江敏晃の名前が出ています。

内部昇格なのか,外部から招聘するのか?

ドラフト前に決めるのかどうかが,ひとつの基準だと思います。


実はこの「分からない」というのが,楽天の現状を表しているのだと思います。

そう思える一番の理由はこちらです。

どのようなチーム作りをするのか,ビジョンが全然見えない

これが長年曖昧になっているから,楽天は10年間優勝から遠ざかっているのだと思うのです。


一久がGMになったのは,2018年8月のことです。

この年の1月に星野仙一が亡くなったために,新たにGMを設けたのです。

GM就任から5年,監督就任から3年間楽天に在籍していました。

果たして,一久は球団に何を残したのでしょうか?


正直に言いますと,私は選手の獲得以外に何かあるのかと思うのです。

確かに一久がGMになってから,楽天はFAなどで積極的に選手を獲得していきました。

浅村栄斗,鈴木大地,田中将大,西川遥輝など,実績ある選手を集めました。

「侍ジャパンか?」と思うくらい,選手が集まっていたと思うのです。

しかし,それで優勝できたわけでもなく,また他に残したものというのが見当たらないのです。


特に,長年課題になっていることが全然解決されている感じがしないのです。

外国人獲得(特に野手),正捕手や和製大砲などが育ってない,育成からスターが生まれていない。

このような課題が,この5年間で全然解決されてないのです。

獲得した選手はそれなりに年齢を重ねているときに来るので,5年間で盛りが終わることは珍しくないです。

すなわち,「一久政権で残したもの」というのが,なしに等しいと私は思うのです。


この5年間のドラフトで獲得した選手にしても,主力になれたと言えるのはせいぜい辰己か小深田くらいではないでしょうか?

競合で早川を獲得したにもかかわらず,全然エースに育ってないのです。

エースだけでなく,和製大砲,正捕手など育成が成ってないところが多すぎるのです。


というように,一久がGMになってから,どのようなビジョンでチーム作りをしていたのか全然分からないのです。

残したものがないとなれば,後任監督も誰になるのか全然分からないのです。

ヤクルトは野村克也野球,カープなら機動力と投手力の野球がベースになっています。

そのため,後任監督もその基準に沿った選出ということになるのです。

ところが楽天にはベースとなるものがないのです。

「楽天野球とは?」と質問されて,的を射た答えをフロントは出せるのでしょうか?

だからこそ,誰が後任がいいのか,誰が後任になるのかも全然分からないのです。

もっと言えば,今のままなら誰が監督になっても勝てないように思うのです。


かつて私は,将来の監督が誰になるのかについてネタを2回書いたことがあります。

それはこちらとこちらです。







こちらで書いた私の将来の監督予想は,「GM次第」と「オーナー次第」と書きました。

誰がGM(またはGM的な役職)になり,そのGMが誰を監督に選ぶのか?

もっと言いますと,そのGMを選ぶオーナー・三木谷浩史がどういうビジョンを持つのか?

それが定まらないことには,将来の監督も見えないということになるのです。


つまり,監督選びの基準が曖昧なのは,「こういうチームにしたい」「こういうようにして勝ちたい」というビジョンが曖昧だからなのです。

一久の師匠である野村克也は,「組織はリーダーの力量以上に伸びない」と語っています。

監督のビジョンが曖昧だから,チームの戦い方もぼやけてしまう。

GMのビジョンが曖昧だから,チーム作りもぼやけてしまう。

フロントのトップ,すなわちオーナーのビジョンが曖昧だから,球団運営もチーム作りもぼやけてしまう。

すなわち,楽天が強くなるのに必要なのは,球団のトップであるオーナー次第なのです。


実は私の中では「一久は今季限りかな」と思っていました。

ということを,昨季からずっと思っていたのです。

本来なら,昨季限りで一久が辞任してもおかしくはないと思っていました。

契約期間に従って,今季まで務めたということにはなりました。

それでも勝てなかったから,責任とって辞任ということになりますね。


そして私は,一久が監督を辞任してもGMで残るという可能性も考えていたのです。

一久が三木谷のお気に入りとなれば,再びGMにするのではと思ったのです。

実際,選手を連れてくるだけの力は持っていると証明していますからね。

それを踏まえて新監督を選ぶのなら,「この人を監督にするのでは」と思っていたのです。

それが古田敦也なのです。


古田と一久はヤクルト時代のチームメイトで,仲もいい方だと思います。

恐らく古田なら,単身で仙台に行くことに抵抗はないと思うのです。

ヤクルトで兼任監督の経験が2年あるだけに,「リハーサル」も済んでいると思います。

さらに一久と同じくノムさんの門下生ということで,チーム作りも大きく変えることはないと考えられます。

以上の事から,私は一久GM,古田監督という体制もあり得るのではと思っていたのです。


ところが,どうやら一久は辞任と共に退団ということになりそうです。

今のところ,新たにGMを据えるというような話は出ていません。

これから発表される可能性もあります。

ただ,どうやら私の構想通りにはならないという感じですね。


例えば,ここからある方針を打ち出すという手もあります。

球団創設から在籍する「生え抜き重視」で行きたいのなら,礒部公一や山﨑武司が監督という手もあります。

東北の地域密着重視で行きたいのなら,中畑清や落合博満という手もあります。

それが妥当なのかは別として,そうしたビジョンで監督選びするのなら,それはそれでありだと思います。

営業とうまくマッチして,観客を多く呼べる可能性も浮上しますからね。


ただ,そうした一貫した監督選びもチーム作りもないとなれば,この先勝ち続ける,ファンを呼び続けられるチームにはなりません。

何か爆発的なことが起こることで優勝できたとしても,持続性はないと思います。

勝ち続けるチームを作るためには,ある程度の一貫したビジョンが必要になるはずです。

それは様々な名将が証明しているはずです。

それにもかかわらず,楽天は一貫したチーム作りを創設から一度も行ってないのです。


2009年にノムさんが解任されました。

しかし,その後もノムさんの門下生を監督にしていれば,ヤクルトのような野球をできていたと思います。

あるいは星野で優勝・日本一になれたのなら,そこから山﨑など星野の門下生を監督にする手もありました。

平石を監督にした時に,「ここからは生え抜きをより重視するぞ」というのでもよかったはずです。


そうしたことを楽天は怠ったために,選手ばかりを集めて,育成などのチーム作りという土台作りを怠った

いわば「砂上の楼閣」ということになっているのです。

これではマー君など選手を集めても,活かしきることができずに勝てるわけないのです。


このまま何のビジョンがないままの球団経営をしていれば,選手も「これで優勝できるのか?」と疑心暗鬼になります。

どうやら松井裕樹がFAを行使するみたいです。

移籍先が国内か海外かは分かりませんけど,このままだと残留はないのではと思っているのです。

松井が入ったのは,楽天が優勝・日本一になった2013年のドラフトです。

すなわち,松井は一度も優勝を経験してないのです。

「一度は優勝を経験したい」という動機で移籍するのは,内川聖一や村田修一などの事例があります。

「これからこうやって勝ちます」と具体的なビジョンを見せずに,松井を引き留めることはできるのでしょうか?


ということで,「このままでは誰が監督をやっても勝つことはできない」というのが私の結論です。

「組織はリーダーの力量以上に伸びない」

楽天を初めてCS進出に導いたノムさんのこの言葉。

それをリーダーである三木谷が思い出して目覚めない限り,楽天の黄金時代はあり得ないと思います。


かつてノムさんは阪神監督時代,当時のオーナー久万俊二郎に直訴したことがあります。

「これまでの不振の原因はオーナー,あなたにありますよ」

そう言われて久万は怒ったものの,「ごもっともなんだよな」と身に染みたのです。

そこから阪神は星野を監督にして,補強するなどチームを変えていったのです。


どうやら三木谷には,ノムさんのように直に苦言を呈する人が近くにいないようです。

こうなったら,自ら目覚めるしかないです。

今私は楽天にそう思っています。



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監督学 稲葉篤紀編 続編

今回は,「監督学」シリーズを書いてみます。

今回は,2019プレミア12と2021東京五輪で侍ジャパンを優勝に導いた稲葉篤紀です。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


稲葉については,以前も書いたことがあります。

こちらにリンクを貼っておきますので,是非ご覧ください。


こちらを書いたときは2019年2月のことです。

第2回プレミア12が開催される前ということになります。

プレミア12を含めて,2020年開催予定の東京五輪,21年開催予定のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の監督を務める予定でした。

この3つの大会で稲葉がどのように采配するのかを予想していたのです。


それから4年の時を経て,稲葉はプレミア12で優勝しました。

その後にコロナが襲い,東京五輪は21年,WBCは23年に延期されたのです。

稲葉は東京五輪まで監督を務めて,初めての金メダルに導いたのです。

それを持って侍ジャパンの監督を辞して,WBCは栗山英樹が率いることになったのです。


監督を退任した後,稲葉は著書を出しました。


こちらを読んでみて,もう一度稲葉監督を考えてみることにしたのです。


稲葉は2017年の「アジア プロ野球チャンピオンシップ」,19年のプレミア12,21年の東京五輪全てで優勝に導きました。

WBCこそ延期になって指揮をとれなかったものの,プレミア12と東京五輪で初めての優勝という大きな役割を果たしました。

特に五輪の金メダルは,長年誰も成し遂げられなかったことです。

そのため,多くの野球人やファンにとっての念願成就になったと思うのです。

それだけでも,もう稲葉に大きな拍手なのは間違いないですね。


ということで,侍ジャパンの監督として「負けない」という結果を出した稲葉。

「負けなかった」要因はどこにあるのでしょうか?

そこを中心に考えてみたいと思うのです。


それでは著書を読んだ上で,稲葉監督の采配などを考えてみます。

●アジアチャンピオンシップから東京五輪まで,段階を踏んだ育成と編成

 稲葉は監督就任当初,2021年開催予定のWBCまで務める予定で契約したと思います。この間にアジアチャンピオンシップ,プレミア12,東京五輪と大きな大会があります。稲葉はこの期間を活かして,五輪とWBCに照準を合わせて侍ジャパンを育成・編成したのではないでしょうか?
 コロナが襲ってきたことによって,結果的に21年の東京五輪まで監督を務めたことになりました。そのため稲葉は,東京五輪に向けて逆算した上で侍ジャパンを築いたということになるのです。
 まず,17年開催のアジアチャンピオンシップです。この大会は韓国,台湾と共に若い選手の育成を目的とした国際大会です。そのため参加資格は,24歳以下(第1回大会のみ1993年1月1日以降生まれ)または入団3年以内,オーバーエイジ枠(既定の年齢上限よりも年長の選手)が3名というものです。
 その時のメンバーはこちらです。
稲葉1

 若い選手の育成目的の大会というだけあり,山崎康晃以外は初の侍ジャパン選抜ということになります。中には「この選手って,そんなに活躍したのか?」と思うような代表もいるくらいです。若くて活躍している,将来有望な選手を集めたということになるのです。
 3か国しか参加してないということもあり,決勝を含めて3戦しか行われていません。そのため,目立って活躍した選手も,これといって見当たりません。それでも3戦全勝し,日本が第1回大会の優勝となったのです。
 ただし,アジアチャンピオンシップはあくまでも「若い選手育成」が目的の大会です。そのため,WBCや五輪と比べると「何が何でも勝つぞ」という気概は,少々薄かったように思います。私自身も,そこまで優勝に舞い上がった記憶もないのです。
 では,稲葉はこの大会をどのように位置づけたのでしょうか?この大会をどのように活かしたのでしょうか?
 まず稲葉は初戦に臨むにあたって,東京五輪の金メダル獲得のために目指す野球のスタイルを定めました。投手中心の守り勝つ野球。点を取らないと勝てないので,攻撃面では「スピード&パワー」を打ち出したのです。
 実際,このメンバーを見てみますと,長打力よりも走力に特化した選手が多いのです。選抜前に辞退を表明したものの,森友哉と吉田正尚も招集予定だったのかもしれません。そのため長打力を集めるところは思い通りではなかったのかもしれません。
 それでも,俊足選手を徹底的に集めて,山川穂高といった長打力が武器の選手という,稲葉の構想通りになったところもあると思うのです。この大会では山川,上林誠知,外崎修汰,西川龍馬がホームランを打ちました。そこに機動力と守備力を絡めて,稲葉の思う通りの野球ができたと私は思うのです。
 この大会を通じて稲葉は,「俺はこういう野球がやりたい」ということを選手たちにアピールしたと思います。そうすることで,国際大会に出たいならば何が必要なのかの手がかりを与えたと思うのです。このような伏線を張ったことで,後の大会で選手は迷いや疑問を極力少なくして試合に臨めたのではないでしょうか?
 また,この大会は初めて日の丸を背負う選手も多かったです。そのため稲葉はまず,「ジャパンというチームは常に勝っていかないといけない」と勝利への意識づけをしたのです。第1回や若い選手育成目的ということで,どうしても気概に欠けるムードがあったと思うのです。しかし稲葉は,この大会でできること,先々につなげることを意識して采配していたのです。
 大きく言えば,初めて侍ジャパンになった選手に「これが日の丸を背負うことだ」「これが国際大会だ」ということを経験を通じて伝えたということになります。また,「俺が監督の間は,こうやって国際大会を戦うぞ」というアピールもしました。いわば,東京五輪に向けての下ごしらえを,この大会で実行したということになりますね。
 翌年の2018年に日米野球が開催されました。こちらが代表メンバーです。

稲葉2

 日米野球は,WBCなどのような本格的な国際大会ではないです。そのため,多くの選手が初めての侍ジャパン入りとなったのです。前年のアジアチャンピオンシップから継続して選ばれた選手もいて,より多くの選手が日の丸を経験することになったのです。
 そこに,17年WBCで代表になった松井裕樹,山田哲人,田中広輔,菊池涼介,秋山翔吾を交えたのです。これによって,「日の丸を着けるとは」を共にプレーすることで教えることが出来たと思うのです。「背中で語る」という存在を,アジアチャンピオンシップよりも稲葉は重視したのかもしれないのです。
 これらを踏まえて,2019年に第2回プレミア12が開催されました。代表メンバーがこちらです。稲葉3

 色付けされている通り,多くの選手が初めて国際大会の本戦(プレミア12,五輪,WBC)で代表入りとなったのです。この大会で初の侍ジャパンもいますけど,アジアチャンピオンシップや日米野球の経験を経て代表入りした選手も多くいるのです。まさに,「経験を踏まえて」「国際大会を活かして」ということが出来ていると言えるのです。
 稲葉本人としては,『17年夏の監督就任以来,強化試合や日米野球で招集してきた若手,中堅,ベテランを含め,スピード,パワー,経験などバランスの良い「強いチーム」ができました』と著書で語っています。この「バランスの良い」というのは,このメンバーを見てみますと確かに言えるのです。
 哲人,源田壮亮,菊池,周東佑京といったスピード,哲人,浅村栄斗,正尚,鈴木誠也といったパワーと能力に適した選手。山本由伸や田口麗斗といった若手に,岸孝之や會澤翼といったベテラン。そうした選手に侍ジャパンの経験をさせたことを含めて,「バランス良く」というメンバーを組めたと思うのです。
 結果はスーパーラウンドでアメリカに敗れたものの,それ以外は勝って決勝進出しました。決勝で韓国を破り,優勝することが出来たのです。初めて国際大会本戦で優勝したこともあり,稲葉は涙を流しました。
 そして,いよいよ東京五輪の時が来ました。コロナが襲いかかったことで,1年延期となりました。そのため,稲葉にとってはこれが監督として最後の本戦となったのです。メンバーはこちらです。稲葉4

 色付けされているように,アジアチャンピオンシップから侍ジャパンを経験を積んだ選手が多いのです(緑色は除く)。そのため,ぶっつけ本番という感じが薄まったということは想像できます。
 経験を積み重ねただけでなく,稲葉が当初から構想として持っていた「スピード&パワー」に沿ったメンバーにもなっています。また,由伸や村上宗隆といった若い選手,坂本勇人や田中将大といったベテランというようにバランスよく選ぶこともできたのです。
 五輪では日本が全勝し,初めての金メダルを獲得できたのです。北京五輪でメダルなしという苦汁をなめた稲葉にとっても悲願でした。こうして稲葉の侍ジャパン監督は終わったのです。
 このように,稲葉は監督に就任してから五輪に向けたチーム育成と編成を行っていたのです。ひとつ一つの大会をただ勝ちにいくのではなく,その大会を次の大会に活かすということを欠かさなかったのです。稲葉なりに「この大会がある意義」を考え,それに沿った代表選びをしていたと考えられるのです。その結果,五輪で金メダルという最大の目標を達成できたのです。
 これまでの代表監督を見ても,ここまで段階的に代表選びしていた人もいなかったと思います。これはプロとしての国際大会が増えてきたというのもあります。かつては継続的に国際大会もあったわけでもなく,大会ごとに代表監督を選んでいました。23年現在は4年をベースに代表監督を務めるようになり,だからこそ稲葉のような段階的な代表編成もできるようになったと思うのです。
 こうした稲葉の段階的な育成と編成の恩恵を受けたといえば,4つ全てに出てくる康晃と甲斐拓也,日米野球以外の3つに出た近藤健介と源田壮亮だと思うのです。いずれも主力リリーフ,正捕手,ショート,打撃の中心選手とチームの柱になった選手です。稲葉は段階的に走・攻・守全てで柱になる選手を育てていたのです。
 もしかしたら,稲葉が今後の代表監督の指針を示したのかもしれません。五輪は次の開催が未定なだけに,最大の大会はWBCとなります。次回は2026年に開催予定ですけど,そこに向けた代表育成と編成をするのがいいと稲葉が示しているように見えるのです。
 若い選手を中心に侍ジャパンを経験させて,プレミア12という本戦に向けて準備する。そして,最大の目標への土台を作っていく。国際大会が現状の形である限りは,こうした組み立てが今後の代表監督に求められることだと思うのです。
 稲葉退任の後に栗山英樹が監督就任し,23年WBCが行われました。稲葉監督時代に侍ジャパンを経験した選手が主力となり,2009年以来の優勝をつかむことが出来たのです。まさに,稲葉が築き上げた土台を栗山によって活かすことが出来たということなのです。
 稲葉が段階的に侍ジャパンを作り上げたというのは,各年ごとにテーマを掲げたところからも挙げられます。18年は「学ぶ」として,日米野球後には五輪に向けたチーム構想がある程度でき上がってきたという手ごたえをつかんだのです。19年は「創」をテーマに,3月のメキシコとの強化試合も踏まえて,プレミア12でチームを「創って」いったのです。
 そして20年は「結」をテーマに,チームの結束力を高めて五輪に臨もうとしました。いい形で締めくくるという意味も込められています。ただコロナによって五輪が延期になり,21年に「束」をテーマにしたのです。
 プレミア12から五輪まで1年半ほど時間が空くので,「もう一度ジャパンとして結束しよう,チームを束ねよう」という考えから選んだのです。ちなみに,「国民の皆さんも含めて,みんなで結束力を持ってた戦いましょう」や「コロナ禍で尽力してくださっている医療従事者の皆さんへ,感謝の花束を贈りたい」という意味も込めていると語っています。
 以上のように,稲葉は「東京五輪という大きな大会に向けて」という意識を崩さなかったのです。それぞれの大会やそれぞれの年の位置づけを怠らず,それぞれの大会で優勝したのです。その場の大会を勝つだけでなく,次の大会につなげた育成と編成を行っていたのです。これが初の五輪優勝をつかんだことにつながったと思うのです。


●「いいメンバー」を集めるのではなく,「いいチーム」を作りたい

 「いいメンバーを集めるのではなく,いいチームを作りたい」
 これが稲葉が日本代表のチームを作る上で一貫して目指したことです。経験豊富なだけではなく,個人としての能力が優れているだけでもないです。
 肝心なのは,日本代表の勝利のために,自分に何ができるかを考えて,持っている力を存分に発揮できる。選手が結束して一つになるチームを作りたい。稲葉はそのように考えていたのです。そして,東京五輪では,そのような理想のチームで戦うことが出来たと語るのです。
 では,「いいチーム」を作るために稲葉が具体的に行動したことを紹介します。まず,できるだけ積極的に現場に行きます。海外を含めて,試合の視察回数は数えきれないとのことです。これには2つの狙いがあると語ります。
 1つは,選手をしっかり見て把握することです。現場で所属チームの監督,コーチから,さらに深いところでどういうタイプの選手かを聞きます。リリーフ投手の肩の作り方もその1つです。
 それを踏まえた上で選手と接すると,選手たちは「ちゃんと分かってくれてるんだ」と信頼感を抱くことになります。稲葉はそのように気をつけていたのです。
 もう1つは,選手にジャパンを意識してもらうことです。視察の時は個人名も出して「きょうは甲子園に森下を見に来ました」などと語ります。時には個人的に選手と連絡を取り,侍ジャパンへの思いを聞いたりもしたのです。
 実力だけでなく,ジャパンへの熱量も必要です。何故なら,代表チームではどんな状況にでも対応してもらわなければなりません。国際大会は,1つ負ければ次の対戦相手や日程や試合数も変わります。そのため,シーズンと違う起用法や打順を求められるだけでなく,試合に出られないこともあり得るのです。それを受け入れられるかは熱量によるのです。
 実際,稲葉が集めたメンバーは,ジャパンへの強い思いを持っていたとのことです。誰一人嫌な顔もせず,本来の役割ではなくても自分の仕事をしっかり果たしたのです。ジャパンへの熱量を稲葉が見ていたからこそ,「いいチーム」ができたのです。
 また,東京五輪代表を発表した直後に,稲葉は代表選手に直筆の手紙を出したのです。これは稲葉がかつて,2007年オフの北京五輪のアジア予選で代表に選ばれた時の経験から思いついたことです。星野仙一監督から同じく手紙をもらい,稲葉はその時の感激を覚えていました。稲葉も監督に就任した時から,星野と同じことをやろうと決めていたのです。
 その手紙の最後に,稲葉は「結束」の一言を書き添えました。東京五輪前の代表戦は19年のプレミア12で,その後コロナもあって活動が出来ずに,時間が空いてしまったのです。もう一度世界と戦うには皆が必要だ,一緒に戦おうという思いを込めたのです。
 このようにして,稲葉は「いいメンバー」を集めるのではなく,「いいチーム」を作っていたのです。最初からどのようなチームを作るのかを決めていたからこそ,一貫した行動を続けて,稲葉の思うチーム作りができたと思うのです。それが国際大会の勝利につながったのではないでしょうか?


●コミュニケーション能力の高い監督

 稲葉の関係者や稲葉に仕えたコーチや選手の証言を集めますと,稲葉監督の特徴としてコミュニケーションを挙げていることが多いのです。では,侍ジャパンを勝利に導いた,稲葉のコミュニケーションとはどのようなものなのでしょうか?
 まず稲葉は監督に就任して,コーチを選ぶにあたって次のように考えました。
 "私は最初から「全く知らない者同士が一から関係を作るより,よく知っている者がコミュニケーションを深めて,より良い関係を築く方がいい。イエスマンではなく,自分の意見を持っていて言い合える仲良し軍団だったら,それでいい」と考えていたのである。どんな声があろうと,信じた仲間と一つの目標に向かっていこう,という決意は変わりませんでした。”
 稲葉はこれに基づいて,日ハム時代のチームメイトでもある建山義紀と金子誠,年齢の近い井端弘和と村田善則,日ハム時代にコーチを務めた清水雅治を選んだのです。この組閣には「お友達内閣」と言われることもあったと思いますけど,稲葉は自分の信念に基づくことからブレなかったのです。
 投手コーチを務めた建山は,稲葉について「私が今まで関わってきた中にはいないタイプの監督」と語っています。建山の選手時代を含めて,ここまでコーチの意見を聞いてくれる監督はいないとまで言うのです。
 稲葉は建山に対して,「こうしたいからこういうチーム編成にしたい」と指図するのではありません。「内野手は,外野手はどうする?」「投手はどうする?」というような感じで,コーチの意見をすごく聞いていたのです。それを聞いたうえで,受け入れると受け入れないの判断をきっちりするのです。もしも受け入れないと決めた時は,一言声をかけるのです。
 稲葉の下だと,コーチの手腕が問われると建山は語ります。案をしっかり考えなければと気合が入り,大変やりがいがあったのです。コーチを一つの駒として扱うのではなく,コーチも全員横並びで接してくれたと,建山は稲葉を捉えているのです。
 稲葉は4年間を通して,コーチ陣には「どんなことでも言ってきて」とずっと伝えていたのです。コーチとして,自分の担当の責任を持ってもらっていたのです。勝敗の責任は監督自身が全て取るものの,担当コーチに任せて,全員でいいものを作っていくという方針を決めていたのです。コーチ陣はそれを理解して,自分の仕事を務め上げたのです。
 建山の助言を受け入れた一例として,東京五輪での中川皓太と菅野智之の代替選手を選ぶ時を挙げることが出来ます。まず選抜メンバーの少なさから,ワンポイント要員は選びにくいのです。そこで1人ぐ投げ切れる投手として,当時ルーキーの伊藤大海を選んだのです。
 もう1人選んだのは,大会前に故障がちになっていた千賀滉大なのです。それを次の言葉で推したのが建山なのです。
 ”まだ五輪まで時間があるし,千賀は絶対に調子が上がってきます。その確信はあります。そしてギアも上がった時には,とんでもないピッチングをします。五輪時期にベストパフォーマンスになっている千賀を招集してないことの方が後悔します。今の状態からは,上がるしかないです。それまでの試合では打たれるかもしれませんが,気にしないでください”
 稲葉以上に様々な投手を4年間見続けてきた建山がここまで言うということで,稲葉は千賀を選ぶと心を決めたのです。明確な根拠を建山が用意したからこそ,稲葉は信じて受け入れることが出来たと思うのです。
 実際,伊藤と千賀は東京五輪で抑えるところを見せて,見事に優勝に貢献しました。建山の眼力と稲葉の信じる力は,間違ってなかったのです。稲葉がしっかりとコミュニケーションを取っていたからの結果が出たのです。
 稲葉のコミュニケーションはコーチに対してだけでなく,選手に対しても積極的に行っていたのです。どのように取っていたのか,プレミア12で代表に選ばれた(大会直前に故障で辞退)秋山翔吾の証言があります。秋山はその前の小久保裕紀監督の下でも侍ジャパンに選ばれており,稲葉とは代表コーチとの関係でもあったのです。
 稲葉は秋山に対して,「今のチームどう感じている?」や,「あの選手,馴染んでいけそう?」という質問をします。これは選手の立場からすると,監督に「大丈夫か?」と聞かれると「大丈夫です,頑張ります」と答えるものです。しかし,選手同士で会話をしていると,本音がポロリと出るものでもあるのです。
 監督に対して出ない選手の本音を,秋山は重要と思ったところを稲葉にしゃべっていたのです。稲葉にそのような意図があったのかは分かりませんけど,秋山は稲葉が「結束」や「和」をいつも重んじていることを読み取っていました。そのためにも,選手同士でコミュニケーションを取らないと,ジャパンにかける熱量も上がっていかないと秋山は感じていたのです。お互いに感じ合っていたからこそnコミュニケーションなのかもしれません。
 1992年のバルセロナ五輪で日本代表監督を務め,法政大学でも監督をしていた山中正竹も語ります。山中は稲葉を「コミュニケーション力に優れた監督」と語り,その特長として「共感力」と捉えているのです。選手と話をしていても,「ああ,そうだよな。俺もそう思うよ」「なるほど。もう少し聞かせて」などと言って,さらに話をするのです。それは自分の考えがないのではなく,相手の考えを自分の中に引き込み,うまく話を引き出していくのです。自分が話すだけではなく,相手の話を引き出すのが「共感力」だと私は思うのです。
 稲葉はコーチや選手とコミュニケーションを取ることで,内発的なモチベーションを高めているのです。「自分のことを理解してくれているな」「この監督と一緒にプレーしたいな」という気持ちにさせていたと,山中は評価しているのです。
 他にも,東京五輪ではベンチスタートとなった栗原陵矢,源田壮亮,近藤健介といった選手に対しては,特別に「君たちが大事なんだよ」ということは言いませんでした。それでも,打撃練習中に「調子どう?」と声をかけるようにしており,前日に試合出ていれば「昨日は緊張した?」とたわいのない会話をしていたのです。それに加えて,「明日の相手,救援陣がすごくいいよね」など,自分たちの出番をイメージできるような会話もするようにしていたのです。
 私が思うに,稲葉は言葉を選びつつも,飾るようなことを言わないでいたと思うのです。チームが一丸で戦うことをかねてから言っていたことで,ベンチ選手も自分の役割を自覚していたはずです。そう信じていたからこそ,特別な言葉ではなく「自然と言える必要な言葉」を選んだのではないかと思うのです。それによってベンチ選手も意気に感じて,金メダルに貢献するプレーを見せたのではないでしょうか?
 以上のように,稲葉はコミュニケーションの高い監督ということが出来,周りもそのように評価しているのです。稲葉の中で「結束」を重んじていたからこそ,自身の持ち味である「共感力」を活かしたコミュニケーションを取っていたと思うのです。まさにこれは,どのような場面でも使える「真のコミュニケーション」ではないかと捉えることが出来るのです。


以上,稲葉監督の特徴を考えてみました。


通常なら,最後に監督の課題や足りなかったところを書きます。

しかし,今回は挙げません。

何故なら,国際大会の監督は「勝ったら全てOK」と言っていいからです。

何年も監督を務めることがあり得るチーム監督に対して,国際大会の監督は就任期間が決まっています。

そのため,その期間だけ勝てばいいのです。

稲葉はアジアチャンピオンシップ,プレミア12,東京五輪と全ての大会で優勝しました。

なので,今後の課題も足りなかったところも挙げられないのです。

そこが,1チームの監督との違いのひとつでもありますね。


それでは締めに入ります。

稲葉は最大の目標である東京五輪を含めて,全ての大会で優勝することが出来ました。

その要因を考えてみますと,これからの侍ジャパンにも必要なものを残したと言えるのです。


1つは,大きな最終目標に向けた計画的な選手進出です。

稲葉は東京五輪という最終目標を見据えた上で,アジアチャンピオンシップとプレミア12の代表を選びました。

そうして段階を踏んだ上で,それぞれの大会を勝って,最終目標の東京五輪の金メダルを獲得できたのです。

これはアジアチャンピオンシップやプレミア12といった,国際大会が設立されたことを活かしたのです。

稲葉が監督の時,アジアチャンピオンシップは第1回,プレミア12は第2回と非常に歴史が浅いのです。

前任の小久保裕紀監督の時は,WBCの前に第1回プレミア12があったくらいです。

その前の山本浩二監督の時は,WBC以外に大きな大会はなかったのです。

大会の他にも日米野球などの他国との強化試合もあります。

それでも,実際に大きな大会で戦う方が,「代表で戦う」という心構えが違うと思うのです。

そのような経験を集約させて,最終目標の五輪やWBC優勝に活かしていく。

その道筋を稲葉が示したように思えるのです。


もう1つ稲葉が示したのは,それを含めた日本代表監督の戦い方です。

それまで野球日本代表は,大会ごとに監督を決めていました。

アテネ五輪が来たら長嶋茂雄が就任,第1回WBCが来たら王貞治,北京五輪が来たら星野仙一という具合にです。

そのため,どうしても計画は短期的なものに限定されてしまうのです。

選手は代表選抜から団結していくのに対して,首脳陣はその前から固まっていくはずです。

ただ,あまりにも期間が短いために,首脳陣が考えを共有する前に大会が来ることもあるのです。

それでうまくいかなかったケースもあるのではないでしょうか?

しかし,2011年から侍ジャパンが常設化させることで,計画的に代表監督を選ぶことが出来ました。

稲葉の場合は,2017年のアジアチャンピオンシップから,恐らく2021年開催予定のWBCまでを務める予定だったと思います。

4年間務めると長期的になったことで,コーチ陣と考えをシェアできる機会は変わったと思うのです。

段階的に選手を選んでいくということも,これによって可能となりました。

それを活かして,稲葉は全ての大会に勝つことが出来たのです。

まさに,これからの侍ジャパンの監督の務め方,戦い方を導いたのが稲葉ではないかと思うのです。


東京五輪で金メダルを獲ることは,様々な野球人の思いに応えたとも言えます。

五輪で金メダルを獲れなかった長嶋,星野をはじめ,野球代表監督たちのリベンジを果たしました。

また,その時戦った選手のリベンジにもなりました。

様々な野球人が,稲葉に対して称賛の言葉を送りました。

改めて日本代表監督が抱える思い,稲葉の偉業を感じるものです。


これからの代表監督は,稲葉を見て「代表監督とは」を考えていくのかもしれません。

稲葉を参考にして,WBCなど最大の目標に向かって戦っていくと思います。

稲葉が示した道筋,日本代表が勝ち続けるための道筋にもなるのでしょうか?

これから侍ジャパンの監督になる野球人の宿命となっていると思うのです。



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当たり前のことを当たり前にやるだけ,ただし本気で by 星野仙一

今日も横浜でベイ戦です。

先発はヤクルトが丸山翔,ベイがバウアーです。


ベイは,注目されているバウアーが投げます。

とうとうスワローズ相手に初めて投げますね。

サイヤング賞投手の実力,いかなるものでしょうか?


一方スワローズは,丸山翔がプロ初先発です。

今週,誰かが昇格するのかと思っていたところ,丸山翔に出番が来たのですね。

恐らく,首脳陣としてはお試しとして起用したのだと思います。

3回までのショートスターターのつもりかもしれません。

まずは何イニング投げるかよりも,どこまで投げることが出来るかですね。

本当は昨日リリーフをつぎ込んだため,今日は節約したいところです。

丸山翔の次に投げる第2先発も重要なのかもしれません。


ここ2試合,「チームスワローズ」と言えるような試合になっている気がします。

やはり,高津が重要視するものを活かせれば,十分勝つことはできるのですね。

今季はホンマに主力の不振が多いです。

だからこそ,「チームスワローズ」の真価,必要性が見えてくるのかもしれません。


さあ,ここまで来たらカード3連勝したいです。

「チームスワローズ」を忘れずに,行くぞ!


「チームスワローズ」が求めるものへ!

さあ,行こうか!

Go Go Swallows!!



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監督学 新井貴浩編

今回は,「監督学」シリーズを書いてみます。

第42弾は,2023年シーズンから広島東洋カープの監督を務める新井貴浩です。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


まずは,新井の簡単なプロフィールから書きます。

1977年1月30日,広島市で生まれました。

県立広島工業高校を経て,駒澤大学でプレーします。

1998年ドラフト6位で広島東洋カープに入団します。

1年目から一軍出場し,7本塁打を放ちます。

2年目に16本塁打を放つと,4年目にはレギュラーに定着します。

全試合出場して,28本塁打を記録するのです。

翌2003年から4番を打つものの,19本塁打と昨季より成績を落とします。

04年は規定打席に達成できず,10本塁打に終わるのです。

05年は返り咲きを見せて,43本塁打で初の本塁打王に輝きます。

打率も初めて3割をマークすると,翌年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選ばれます。

WBCの優勝に貢献すると,この年は再び全試合出場して,初めて100打点を超えるのです。

07年も全試合出場し,28本塁打と102打点を記録し,カープの主砲として存在感を見せてきます。

この年のオフにFA宣言を行使し,阪神タイガースに移籍します。

08年は北京五輪の代表に選ばれ,日本の4番を打つのです。

また,この年の12月から日本プロ野球選手会の会長に就任します。

2010年は打率.311,112打点と自己最高を更新します。

11年は93打点で,初の打点王に輝きます。

その後も阪神の4番を打つものの,14年は規定打席に達せず3本塁打に終わるのです。

オフに自由契約となると,古巣カープに復帰します。

15年は再び規定打席に達して,レギュラー返り咲きを見せるのです。

翌16年にカープは優勝し,新井は初めてチームの優勝を経験するのです。

この年,打率3割,19本塁打,101打点を記録し,セ・リーグMVPに選ばれるのです。

この年の4月には2000本安打を達成し,名球会入りを果たします。

18年に63試合の出場に終わると,この年限りで現役を引退します。

カープで3連覇を経験し,それを置き土産にバットを置くのです。

その後は解説者や評論家を務めます。

そして23年シーズンより,広島東洋カープの監督を務めることとなるのです。

マーティ・ブラウン以来の生え抜きでない監督となるのです。

広島で生まれてカープでプレーし,阪神という他の野球も経験しました。

カープが大好きな気持ちを持ち,監督としてチームの再建に挑むのです。


以上,新井の簡単なプロフィールでした。


次に,新井が現役時代に仕えていた監督を見てみます。

こちらの図表をご覧ください。
新井1

侍ジャパン以外で優勝を経験したのは,緒方孝市監督の時だけです。

それ以外での優勝経験監督を挙げれば,山本や岡田もいます。

「教材」として豊富かと言われますと,様々ところで優勝してない分微妙です。

名将と言われる王貞治や星野仙一にしても,国際大会の時のみです。

こうした歩みの中で,新井自身がどのように学んでいったか次第ということになりますね。


それでは,仕えた監督に対して新井がどのように思っているのかを書いてみます。

●山本浩二

 新井が3年目となる2001年から,山本浩二が再びカープの監督に就任しました。1991年にカープが優勝した時の監督です。その時以来の優勝を狙っての再就任だと思います。
 金本知憲が阪神に移籍した03年から,新井はカープの4番を託されます。前年に好成績を残したということもあり,山本は新井に新たな主砲を託したのです。
 しかし,4番の重圧になかなか勝てず,新井は結果を出せなかったのです。それでも山本は新井を4番から外しませんでした。
 そんな中のある試合で,山本は新井を監督室に呼びました。新井を座らせると,「苦しいか?」と尋ねました。その言葉に,新井は涙をこらえることができませんでした。そんな新井を見て山本は,
 「つらいか?苦しいだろう。でもな,おれもおまえと同じ経験をしてきたんだよ」
 と続けたのです。新井は「すいません」と言うのが精一杯でした。その試合から,新井は4番から外れたのです。
 山本もかつて,「ミスター赤ヘル」としてカープの4番を打ち続けていました。4番の重圧は痛いほど知っており,最初に4番を託され続けた時の苦しさも身に染みていると思います。そんな経験を話しながら,山本は新井に寄り添う時ではないかと判断したのかもしれません。
 新井としては,打てなくても4番で起用し続けた山本の方が余程つらかったのではと思いました。そう考えると申し訳なく,自分が情けなく感じたのです。それと同時に,新井は決意を固めます。
 「絶対にもう一度四番を打ってやる!」
 このようなこともあり,新井は「浩二さんを胴上げしたい」と人一倍思いを抱くようになったのです。04年はさらなる不振になったものの,05年に再び4番を打つようになって本塁打王となったのです。
 ただ,その年限りで山本は監督を辞任しました。山本は新井に,「もう大丈夫だろう。がんばれよ」と言いました。その言葉が嬉しかったのと同時に,「もう少し早くなんとかなっていれば,迷惑をかけることもなかったのに…」と自責の念も感じたのです。山本を胴上げできなかったことに対して,新井は申し訳なさを強く思っていたのです。
 そんな新井が北京五輪で日本代表に選ばれると,山本は打撃コーチとなって再び一緒に戦うこととなったのです。日本の4番を託された新井に対して,山本はポツリと言います。
 「おまえがここまで成長しているとは思わなかったよ…」
 カープ時代,山本は新井を褒めなかったとのことです。それだけに,初めて褒められたのです。新井はとても嬉しかったと語ります。
 少年時代は,「ミスター赤ヘル」として4番を打っていた山本を新井は見ていました。今度は選手と監督として,カープの4番を受け継ぐこととなりました。4番を打つ苦しさを知っている山本が言葉をかけたからこそ,新井の琴線に触れたのかもしれないのです。「4番の苦しさ」という点で,新井は山本から何かを受け継いだのかもしれません。
 今度は,新井が誰かにカープの4番を託す側となります。誰に託して,どれだけ辛抱して起用していくのでしょうか?もしも苦しんでいるときは,かつて自分がかけられたような言葉を出すのでしょうか?


●マーティ・ブラウン

 山本の後を受けて,06年からマーティ・ブラウンがカープの監督となりました。現役時代に92年から94年までカープでプレーしており,引退後はMLBのマイナーリーグの監督を務めていました。かつて日本でプレーした外国人OBに,チームの再建を託すこととなったのです。
 ブラウンは就任すると,キャプテン制を復活させます。投手キャプテンとなった黒田博樹と共に,新井の2人をチームの中心に据えるようになったのです。2人がチームを引っ張るようにブラウンは言って,キャンプからの調整を全て任せたのです。
 それまでの新井は「やらされる練習」が中心でした。しかし,ブラウンが監督になってから自分自身で考えて調整することを求められたのです。いっぱしの選手として認められた一方で,新井は責任が生まれるという怖さも感じるのです。
 それから新井は周りのことを考えられるようになっていきます。入団してしばらくは自分の練習で手いっぱいでした。そこから自分に余裕ができたということで,チームのことも気にしなければいけないと考えるようになったのです。ブラウンの監督就任は,新井にとって大きな転機となったのです。
 新井がブラウンから学んだことは,コミュニケーションの大切さです。ブラウンは選手一人ひとりの気持ちに寄り添って対話していると,新井は感じていたのです。常日頃から積極的に選手に話しかけていました。中堅・ベテランは一言えば十くらいは分かってもらえると信頼していたので,主に若い選手や控え選手に話しかけていたとのことです。
 それを新井はその後の人生に活かしていたのです。2015年にカープに復帰すると,新井は多くコミュニケーションを取るようにしたのです。一緒に食事に行くなどして,野球のこともいろいろ話したりしたのです。この頃はベテランになっていたこともあり,ブラウンと同様に新井自ら選手に寄り添う方がいいと思ったのかもしれないのです。
 今度は新井が監督として選手と接することとなります。ブラウン政権の4年間でAクラス入りとはなりませんでしたけど,新井は大切なものを学んだのです。引退してからそれほど時が経っていないので,コミュニケーションを取るなら若い選手が最初は中心となりそうです。果たして,新井はブラウンと同様に選手に寄り添うことを選ぶのでしょうか?

●和田豊

 2012年の開幕戦,新井は和田豊から4番を託されます。「四番はおまえに任せる。頼むぞ」と言って,阪神の4番に指名したのです。前年不振だった金本に代わって,新井が阪神でも4番を打つこととなったのです。
 しかし,新井は4番でなかなか打てず,4番どころかスタメンすら外されたのです。前年に打点王に輝いた実績を残していたものの,4番でそれを発揮することができなかったのです。この年から,新井は不振気味に陥ってくるのです。
 そして,14年に向けて球団は新外国人のマウロ・ゴメスを獲得します。ポジションはファーストで,新井と重複します。この時が3年契約の3年目ということもあり,新井は危機感を持ちます。
 一方で,高額年俸でゴメスを獲得したことで,「競争なんてあるわけないじゃないか」と思ってもいたのです。和田や球団社長からは「競争だからな」と言われました。紙面でも「熾烈なファーストのポジション争い」と書かれたこともあり,新井は開幕スタメンに向けて奮起します。
 オープン戦で新井の調子が良かったことや,ゴメスの来日が遅れたこともあり,新井は開幕に向けて手ごたえを感じていました。いよいよ開幕戦というところで,和田は新井を呼んで話をしました。
 「ゴメスはダメかもしれない。それでも最初はゴメスでいくが,ダメだった時は頼む。気を抜かずに用意をしておいてくれ」
 新井は自分の耳を疑い,言葉が出なかったのです。「それなら,最初から競争なんて言うなよ」と思ったのです。開幕戦はゴメスが「4番ファースト」で出場し,新井はスタメンにすら入れなかったのです。結局,この年における新井の最初のスタメンは交流戦に入ってからなのです。
 新井は代打でも何でも頑張ると気持ちを切り替えようとしました。しかし,どこか上がり切らないところがあると語るのです。結局この年,新井は94試合の出場に終わり,10年ぶりに規定打席に達しなかったのです。
 それでもチームはクライマックスシリーズ(CS)を突破し,9年ぶりに日本シリーズに進出できたのです。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも,新井はスタメンではありませんでした。それでも第3戦からはDH制となり,新井がスタメンになる可能性が浮上したのです。
 この時の新井は腰痛を抱えていたものの,ベンチ入りは出来ていました。第3戦は左腕の大隣憲司が先発予想されており,新井の出場も十分考えられていました。首脳陣は新井に,「無理はしなくてもいい。大隣が来る時に合わせて調整してくれ」と言います。新井はなんとか出場できるまでに調整しました。
 しかし,大隣が先発でも新井はスタメンではありませんでした。第3戦に負けたということもあり,新井の心中は完全に冷めていたのです。結局,日本シリーズで新井のスタメンはなく,阪神も敗れたのです。
 これが決定打となり,新井は「ここでは競争できない。いくら頑張ってもムダだ」と思うようになったのです。オフに制限を超える減額幅の金額を提示されると,新井は拒否して自由契約を選んだのです。こうして,新井の阪神での7年間は終わったのです。
 私は決して,和田の全てが悪かったとは思いません。その時のチームの需要に合わせて,ベストだと思う選手を起用するのは監督として当然のことだと思います。新井が大人になり切れてないというところもあると考えることもできます。
 しかし,この方法はTVゲームなら全然それでいいと思います。実際にプレーしているのは人間で,感情やプライドなども持っています。和田の新井への接し方は,それを踏まえた上での配慮が足りなかったのではないかと思います。もしかしたら,何も言わない方が新井自身で考えて行動するということでよかったのかもしれないのです。
 この経験から,新井は無責任な言動が,どれだけ選手に影響を与えるのか分かっていると思うのです。「自分が嫌なことは人にするな」という気持ちも持っているはずです。本当はベンチに回したいと思っても,言動が間違っていると監督の思うような動きにもならないのかもしれません。
 このことを身に染みた上で,新井は選手にどのような言葉をかけるのでしょうか?少なくとも,スタメンを張っていた選手を簡単にベンチ要員にすることはないかと思うのです。


●緒方孝市

 2015年から新井はカープに復帰し,同じ時に緒方孝市が監督に就任します。かつては先輩と後輩として共に戦ってきたものの,今度は監督と選手としての関係となるのです。
 就任したばかりの緒方と顔を合わせると,「お前,全く違和感ないな」と声をかけられるのです。FAで裏切るような形で去っただけに,新井は復帰という決断に不安を抱いていました。それを緒方は感じたのか,その言葉によって新井は少し安心したというか,嬉しい気持ちになったと語ります。
 現役時代の緒方は,新井にとっては大きな先輩でした。その時と比べると,監督になってからの緒方はイメージが変わったとのことです。積極的にコミュニケーションを取っていたとのことです。
 カープに復帰して,新井は開幕に向けて張り切って調整していました。しかし,それが空回りしていたのか肘を痛めたのです。開幕に間に合うかどうかわからない中,一軍登録メンバー発表の前日に新井は緒方に呼び出されたのです。
 「お前,いけるよな?開幕メンバー,登録するぞ」
 新井の気持ちは上がり,「もちろん,いけます。お願いします!」と即答したのです。もしも,「いけるか?ダメなら無理はするなよ」という言い方なら,そんな気持ちになれなかったと新井は語るのです。
 緒方の言葉によって,新井は自分が必要されていると意気を感じたのです。この言葉は嬉しかったと語ります。緒方が新井のそのような性格を知っていたからこそ,このような言葉を出したのかもしれません。
 新井は開幕戦に代打で出場し,マツダスタジアムで大歓声を受けたのです。緒方の言葉がなかったら,この瞬間はなかったのかもしれません。新井は緒方に本当に感謝していると語るのです。
 緒方によって,カープは16年から18年まで3連覇を果たしました。新井にとっては初めての優勝を経験し,16年はセ・リーグMVPに選ばれたのです。緒方監督の下で,新井は初めてだらけの経験をたくさんできたのです。
 その始まりは,復帰1年目の緒方の言葉なのかもしれません。今度は新井の方から,選手が意気に感じるような言葉をかける時が来ます。どのような言葉を選び,選手のモチベーションを上げていくのでしょうか?
 なお,緒方について詳しくは「監督学 緒方孝市編」をクリックしてご覧ください。


●金本知憲

 金本が監督を務めていた時,新井はチームメイトではありませんでした。しかし,新井が大きく影響を受けた先輩ではあります。そのため,今回は入れさせていただくことにします。
 新井がカープに入団した時,金本はすでに主力選手でした。その時から金本は新井に声をかけて,いたずらをするなどの関係となったのです。TVで金本の発言を聞くと,笑いが起こるくらいになっていたと思います。
 そんな金本から新井が学んだことはたくさんあります。あえて一つだけ挙げるとすれば,愚痴をこぼしたり,言い訳をしたりしないということです。金本は一切口にせず,「今に見ておけよ」と反骨心に変えるのです。それで試合出場を続け,結果を出し続けていたのです。
 2001年,新井は調子が上がって,レギュラー定着の可能性が出てきたのです。そう思っていると,5月にアキレス腱を痛めるのです。足を引きずらないと歩けない状況だったのです。
 その状態で球場に向かうと,金本が「試合,どうするんや」と聞きます。新井は「いや,出られるかちょっとわからないです」と答えます,すると金本は,強い口調で言います。
 「骨が折れてないんだったら,絶対に出ろ。おまえは休む怖さを知らない。もし代わりに出場した奴が活躍したら,おまえはもう出られないんだぞ」
 そう言われたものの,新井は「チームに迷惑がかかる」と思って欠場しました。すると,代わりに出場したエディ・ディアスが活躍して,レギュラー枠が1つなくなったのです。アキレス腱痛が軽傷だっただけに,新井はなおさら悔やんだのです。「だからあれだけ言ったのに…」と,金本に怒られたとのことです。
 新井が欠場したのは,「チームに迷惑がかかるから」というものです。その点はどうなのかと,金本に尋ねてみました。金本は答えます。
 「練習で2割,3割できれば,試合になればアドレナリンが出るから,勝手に身体が動く,少しくらいのケガなら絶対にできるんだ」
 金本自身,若い頃はケガが多かったです。それで欠場することで,なかなかレギュラー定着に至りませんでした。そのような経験があるからこそ,新井に強い口調でしゃべったのだと思うのです。
 それからの新井は,多少の痛さや故障なら気力を振り絞って出場を続けました。それが仇になったこともあるものの,新井は主力選手として活躍を続けることができたのです。
 新井がFAで阪神に移籍したのも,金本と共にプレーしたいという思いが一番の理由でした。だからこそFAを行使する会見で,涙ながらに「FAなんてなければいいのに」と本音が出てしまったのです。阪神でも金本の背中を追い続けて,共にプレーしていたのです。
 そんな金本が12年限りで引退し,新井にとっては追い続ける背中がなくなりました。それでも新井は,新たなモチベーションが出たと語ります。
 「お前,すげえじゃん…」
 金本にそのように言われるように奮起するということなのです。金本が引退しても,新井の生きていく上での指標であり続けたのです。それが現実になった時,お世話になった金本への恩返しと考えていたのです。
 結果として,金本と同様に名球会に入れたものの,新井は本塁打などどのジャンルでも金本に勝てなかったのです。新井が求めていた言葉を,金本が心の底から出すことがあったのでしょうか?
 金本は16年から18年までの3年間,阪神の監督を務めました。その一方で,今度は新井が23年からカープの監督に就任します。金本が成し遂げられなかった優勝をできた時こそ,新井が求めている言葉が出てくるのかもしれません。監督を務める上でも,やはり金本が指標となるのでしょうか?
 そんな金本は著書で,新井について語っています。まず褒めることはなく,「みんな,新井のことを過大評価しているように思える」と語ります。その中で一番ダメなところは,気分で練習するところと語ります。練習嫌いなのは,カープ時代から有名な話とのことです。
 ただし,人間的にはいいやつと評価もしています。だからこそ,いい成績を残してほしいところがある。そんな願望も金本は持っていたのです。
 新井が監督になっても,金本は辛口で評価するのだと思います。まあ,新井も褒めてもらえるような期待は持ってないのではないでしょうか?果たして,優勝して監督として金本超えとなるのでしょうか?


●黒田博樹

 黒田もまた,新井が仕えた監督ではありません。しかし,新井を語る上で欠かせない1人です。なので,ここに入れさせていただくことにします。
 黒田は新井の2つ上です。同じ時期に頭角を現したこともあるのか,グラウンド内外にも関わらずお互いに野球の話をしていました。黒田は早い時期から言っていたことがあります。
 「オレはピッチャーを引っ張っていけるように頑張るから,お前は野手を引っ張っていけるように頑張れ」
 その通りになったのは,06年のことです。前述の通りブラウンが監督に就任すると,黒田と新井にそれぞれ引っ張っていく存在になるよう言われたのです。その時も,黒田は新井に言います。
 「お前はもう,チーム内での競争はないのだから,チームという小さい枠で物事を考えたらダメだぞ」
 「横浜にお前と似たタイプで,4番を打っている村田という奴がいるだろう。村田には絶対に負けないという気持ちを持て。これからは,外を見ておけよ。自分よりも成績がいい選手を見て,そいつに勝ちたいと思ってやれ」
 当時,ベイスターズに村田修一という選手がいました。ポジションが新井と同じサードで,新井の後に本塁打王になった選手です。黒田は新井に,内部での競争がなくなったら,次は外に目を向けてライバル心を燃やすようアドバイスしたのです。
 この言葉に対して新井は,次のように感じました。
 「視野を広げて外に目を向ければ,考え方や行動も変わってくる。その頃からそういうことを考えていた黒田さんは,やっぱりすごいと思う」
 新井の視野が広くなったのには,黒田の助言があったのです。後にプロ野球選手会会長を託されたのも,ここがルーツなのかもしれないのです。
 その後,07年オフに共にFAでカープを去ると,15年にお互いにカープに復帰するのです。お互いにカープの優勝を目指して奮闘します。そして,16年に悲願の優勝を果たすと,お互いに男泣きしたのです。
 新井が感じる黒田のすごさは,何事にもブレない,強い意志を持っていることです。どんな状況でも,変わりない強い心を持ち,自分のためだけでなく,周囲のために行動できる人なのです。
 カープに復帰してからの15と16年,黒田の体は決して万全ではなかったのです。しかし,「カープで優勝したい」という思いは変わらず,愚痴や文句も言わずに投げ続けたのです。リリーフ陣が揃って疲労が溜まっていると思ったら,不惑にもかかわらず投げ続けていました。そんな姿を見て,新井は「これぞエース」と思っていたのです。
 その黒田は,23年のキャンプに球団アドバイザーとしてやってきたのです。首脳陣には入ってないものの,かつての盟友である新井を助けているのです。新井にとっても願ったり叶ったりのことで,選手もレジェンドからどんどん吸収しているのではないでしょうか?
 黒田はユニフォームを着なくとも,カープで戦い続けているのかもしれません。そんな思いで,23年シーズンからカープを見ていくのかもしれません。かつての盟友の指揮する姿を,どのような思いで見ていくのでしょうか?


以上,新井が仕えた監督などのエピソードなどでした。


このように見てみますと,新井はいろいろなところから学んでいると思えるのです。

特に,要所要所で師匠にふさわしい人で出会ったことが,新井にとって大きな幸運ではないでしょうか?

同じカープで4番を打った浩二,現役でカープと阪神の4番を打っていた金本,年が近いエースの黒田,外国人監督として日本とは違う野球を見せたブラウン。

このような巡り合わせがあったことで,新井は様々なことを学ぶことができたと思うのです。

阪神というカープ以外の野球も肌で経験し,それを踏まえてカープに復帰したからこそ見えるものもあったはずです。

これらを監督として活かさない手はないと思うのです。


それでは,新井監督の采配などを考えてみたいと思います。

●「心・技・体」で「心」を最も重視

 新井は自身の経験から,「心・技・体」の中で「心」を最も重視しています。監督に就任して,自身だけでなく選手の「心」も鍛えていくことに注力するのではないでしょうか?
 新井のプロ入り当初は,技術も体力も不足していました。それにもかかわらず,1年目から一軍出場を重ねていくのです。その時「技」と「体」の不足を補っていたのは「心」なのです。誰よりも大きな声を出す,攻守交代でも全力疾走をするなどして,気持ちを表に出すことを心がけていたのです。それで少しでも足りない2つを補うことで,新井は若い時を乗り越えていたのです。
 心という土台があり,その上に技と体がくる。心が入っていれば,強い気持ちを持っていれば,自分では無理かなと思うようなことであっても,たいがいのことはできる。新井はそのように考えているのです。これは緒方とのエピソードでも表れていると思うのです。
 一方で,最近の若い選手に対しては,「もう少し感情を表に出してもいいのに…」と思っているのです。今の若い選手は総じてまじめで,練習も一所懸命します。内心では闘志を秘めているにもかかわらず,感情をあらわにするのはカッコ悪いとか,クールの方がかっこいいと考えているのか…新井はそう感じているのです。
 しかし,同じ力量を持った若い選手が2人いれば,闘志あふれる選手と隠している選手のどちらを起用するでしょうか?わずかなチャンスで「くそ」と悔しさを露わにする選手と,淡々とベンチに引き上げる選手とではどちらでしょうか?新井が監督なら,前者を選ぶとのことです。後者はつかみかけたチャンスを自ら逃すことになるのです。
 ”気持ちを前面に出し,全力で,ひたすらがむしゃらに,泥臭く,ボールに食らいついていくしかない。一球一球に集中して,絶対にあきらめず,ひたむきにボールを追いかけていくしかない。だから,打つときも守るときも走るときもつねに一所懸命,絶対に手を抜かない。これだけは自慢できる。
 その一瞬一瞬に自分がやるべきことをきちんと全力で注いでやっていれば,必ず野球の神様が見ていてくれる―僕はそう信じている”
 新井はドラフト6位で,周囲の期待も小さかったです。「誰だ,こんな選手を連れてきたのは」と思った方もいるのではないでしょうか?そんな新井が名球会入りまで達したのは,まさに「心」で全力でぶつかり続けたからなのです。戦略など相手が基準ではなく,「絶対に打ってやる!」という気持ちを持つという自分を基準としていたのです。
 このように,新井は選手に心を磨く,闘志を見せるなど心を見せるといったことを選手に求めるのかもしれません。特に若い選手に対しては,闘志をむき出しにするなどの姿勢を徹底的に求めていくのではないでしょうか?そのような選手を優先的に起用して,観客にも燃えてもらうことを狙うのかもしれないのです。
 これはまさに,昨季までのカープで足りないものだと私は思うのです。昨季までのカープを見ていますと,若い選手でも中堅・ベテランのような振る舞いをしているように見えます。レギュラーならそれでいいと思いますけど,それ以下の選手はそれでレギュラーに勝てるのでしょうか?新井の若い頃を見ていれば,それでは勝てないと分かると思うのです。
 球団も,そのような闘志あふれる戦いが欠けていると感じて,新井を監督に招聘したのかもしれません。カープの赤は,燃える人の象徴であるはずです。今のカープに必要なのは,戦う選手としての「原点」なのかもしれません。それを新井が呼び覚ますのでしょうか?


●新井の経験から見えるもの,前任までとの違い

 新井はここ最近のカープの監督たちと比べますと,違った視点を持っているのではないかと私は思うのです。それは,前任たちにはない経験があるからだと思うのです。
 まず,新井はドラフト6位から這い上がって名球会入りまで達しました。そのため,期待が小さい選手の気持ちに寄り添えると思います。下の人の気持ちが分かると言い換えてもいいのではないでしょうか?
 一方で,ここ最近のカープ監督はどうでしょうか?前任の佐々岡真司は社会人出身のドラフト1位,その前の緒方孝市は高卒3位,その前の野村謙二郎は大学出身の1位です。緒方は新井に近いのかもしれませんけど,佐々岡と野村は即戦力に近い1位で入団しました。そのため,「上から」という目線になっていたと思うのです。
 「上から」の監督から,「下から」の新井に監督が代わることとなります。ファームで苦労する選手に寄り添うことができることで,下から選手をくみ上げやすくなるのではないかと考えられるのです。2000年代に入ってから,カープで最も下のドラフトで入団した選手の監督ということになりますね。
 新井は自分がここまでプレーできたことに関して,次のように語っています。
 ”身体が大きく,頑丈である以外,とりたてて才能に恵まれたわけでもなく,誇るべき実績を残した訳でもない,まったくの無名だった自分が,「プロになる」という夢を実現したばかりか,プロとしてここまで生き残り,まがりなりにも日本代表の4番を務められるようになったのは,いつもそういう強い気持ちを持っていたからだと思っている。どんなに練習がつらくても,どれだけ打てない状態が続こうとも,どれほどすごいプレッシャーがかかろうとも,僕は絶対に逃げることなく,「気力」を奮い立たせ,立ち向かっていった。だから,真正面からぶつかることしかできないのだ”
 この言葉を聞くと,ドラフト下位や育成からスタートした選手,ファームで伸び悩んでいる選手が這い上がってくるために必要なものが見えるのではないでしょうか?そのお手本となる野球人が監督になっただけに,「新井さんができたんだから,俺もできるかも」と思えるかもしれないのです。そのように思いが変わることで,選手の人生,ひいてはチームが変わる可能性が出てくると考えられるのです。
 また,しばらくカープは監督選びで「純血主義」をとっていました。カープ以外でプレーやコーチを務めたことある野球人は監督にせず,カープのみでプレーやコーチをした野球人を選んでいたのです。純血以外の監督は09年までのブラウン,日本人なら2000年までの達川光男以来ということになりますね。それ以外はカープのみという純血だったのです。
 新井は阪神でもプレーをしていました。他球団でのプレー経験でカープの監督になったのは,外国人のブラウンを除けば88年まで監督を務めた阿南準郎以来なのです。それだけカープは純血主義にこだわっていたのです。
 私はかつての投稿で,黒田か新井が監督になれば純血主義をやめて,チームを変えるのかなと思っていました(詳しくは「監督未来予想図2 広島東洋カープ編」をクリックしてご覧ください)。MLB経験のある黒田,もしくは阪神でプレーした新井。どちらでも,新しい血を導入できるはずです。どちらかを監督にした時,球団が「チームを変えたい」と思いをファンにも伝えることができると思っていたのです。
 この度新井が監督に就任したので,純血主義はとりあえずやめたということになります。新井の要望なのか,ヘッドコーチにカープでプレー経験のない藤井彰人,同じくカープの経験がない弟の新井良太がコーチとして招聘されました。新井と共に新たに阪神の血を導入したいと球団が思ったからこその就任だと思うのです。
 このように,生え抜きでない選手だからこそ,外様の選手の気持ちに寄り添えると思います。新井自身も阪神で外様としてプレーした時,生え抜きとの差を感じたことを語っています。
 ”FA選手や外国人を獲得するのはお金がかかるし,交渉の際に起用法について話すこともあるだろう。そうなると,成績的にそれほど大差はなくても,移籍してきた選手が優遇され,給料も高給になることが多くなる。
 僕はあまり関係ないと思ってやっていたが,長年,チームに所属している生え抜き選手からすれば,やはり外様の選手ばかりが優遇されるのは,面白くないはずだ。特に「来年こそはレギュラーを」と意気込む生え抜きの若い選手などには,「また今年も新しい選手が来たか」という空気が感じられることもあった”
 23年シーズンのカープでいえば,秋山翔吾が該当すると思います。チームが勝つという上では歓迎でも,同じ外野の生え抜きの若い選手からすれば「枠がひとつなくなったじゃん」と思うのかもしれません。このように,外様は外様で感じることがあるのです。
 外様を経験した新井だからこそ,こうした気持ちに寄り添えるのではないかと思います。それは生え抜き監督からはなかなか見えない目線だと思うのです。この新たな目線からも,チームが変わるのかもしれないのです。
 以上のように,新井はここ最近のカープの監督とは違う目線を養っていると考えられます。それによって,チームが変わることにつながるのかもしれません。それは期待してもいいところではないでしょうか?


●新井にとって「野球とは?」「リーダーとは?」

 新井に「野球とは?と尋ねた時,どのような回答を出してくるのでしょうか?新井の著書でいくつか出ているので,それを紹介したいと思います。
 まず新井は,「野球は助け合いのスポーツだと思う」と語ります。特に守備の時に,その姿勢が余計に問われるのです。1つのミスが投手だけでなく,チーム全体に迷惑が掛かります。一方で,誰かのミスを救うこともできます。
 新井自身,格好よく守るつもりはなく,そんなことができる器用さもありませんでした。それでも,とにかく一つひとつのプレーを丁寧に積み重ねたということなのです。その成果が,08年のファーストでのゴールデングラブ賞であると語るのです。
 また,「野球は瞬間のスポーツだ」とも語ります。こちらについて,次のように語ります。
 ”失敗しても自分をコントロールして,すぐに前を向いて次のプレーに向かわなければならない。悪い結果を振り返って反省して次に生かすことは必要でも,結果に振り回されてはいけない。ネガティブに振り返る時間を短くするためには,「その時」できることに集中することだ。自分の立てた計画に縛られず,目の前のことだけ懸命に取り組むことが近道になることもある。辛い練習の毎日だった高校,大学の7年間の経験が教えてくれた”
 こうしたことを,選手に説いていくと思います。また,助け合いや一瞬のプレーを重点的に見て,それができている選手を評価していくと思います。
 新井は現役を生きていきながら,監督やリーダーについても考えたことがあります。新井にとって「リーダーとは?」どのようなものなのでしょうか?
 新井が監督について思ったことを抜粋します。
 ”つくづく監督と言うのは大変な仕事だと思う。
 戦術や技術の指導に関しては,ヘッドコーチや専門のコーチがいるので,ある程度はその人たちに任せておけばいい。
 それよりも大事なのは,いかにチームが一丸となれる空気を作れるか,選手をやる気にさせることができるか,ということではないかと思う。
 そのためには,選手に耳障りのいいことばかりを言っていてはダメだろう。
 心を鬼にして,言うべきことを言わなければいけない時もあるはずだ。そして,それには,相当の体力が必要になる。
 選手と常にコミュニケーションを取って,やりやすい環境を整えてあげる。そして結果に対して,責任を取る。そのくらい,腹をくくってやらなければできない仕事だと思うし,それが監督として,一番大事なことではないだろうか”
 これを踏まえた上で,リーダーに必要な条件として「愛情と情熱」と新井は考えるのです。自身が本当に監督になった今,自分の考えたことに対してどのように思っているのでしょうか?
 今度は,新井が自分の思っていることを実践する時なのです。現役時代に感じたことをそのまま実行していくのか,監督としての様々な経験から軌道修正していくのでしょうか?これから監督を務めながら,新井なりの「監督像」というのができるのでしょうか?


以上,新井監督に期待できる点を挙げてみました。


新井が最も大切にしているのは,「心力をもって,今を精一杯生きる」ではないかと思います。

ドラフト6位と全然期待されてなかった新井が這い上がってこれたのは,この姿勢を持ち続けたからではないでしょうか?

そのように生きてきたからこそ,最近の選手にその姿勢が足りないと感じているのかもしれません。

新井本人も「計画を立てるのは苦手」と語り,常に一瞬一瞬で勝負してきたとのことです。

悪く言えば「出たとこ勝負」の繰り返しですけど,「気力」を持ち続けて挑んできたのです。

4番の苦しみ,外様選手の気持ちなど様々な視点で選手に寄り添うこともできそうです。

それらを活かしてチームを変えることは期待してもいいと思うのです。


最後に,新井監督の課題を考えてみます。

●自分に厳しいからこそ,人にも厳しくできる。しかし,度を越さないか?

 新井は「心」を重視しています。そこをベースに,現段階でできそうなことをを挙げています。恐らく選手にも,心の必要性を解いていくと思います。
 『「もう」ダメではなく「まだ」ダメ』『「やらされる練習」も必要』というように語ります。これらの哲学を活かして,選手に限界を超えるような練習を課し,若い選手を中心に「やらされる練習」を課していくと想像できます。新井自身が経験しただけに,その必要性を説くことができると思うのです。
 自分自身に厳しかったからこそ,ここまでの選手になることができたと思います。だからこそ,選手にも厳しい姿勢を持って練習させたり,厳しい言葉もかけていくと考えられるのです。そのようにして,「心」を鍛錬するのではないでしょうか?
 ただ,その度を越すことは絶対に避けなければなりません。熱い心を持つがゆえに,罵声を出すこともあるのかもしれません。まして鉄拳制裁をするのは,今の時代完全に論外です。
 新井自身も鉄拳を食らったりしていたという時代です。何もかも今の方がいいという考えには懐疑的なのかもしれません。ただし,鉄拳制裁だけは絶対に真似してはいけません。罵声を出してしまうことはあっても,アフターケアは絶対必要です。放置してしまうと,選手が新井を遠ざけるのかもしれないのです。
 そのような事態に備えて,新井はどう準備するのでしょうか?もしも新井が暴走した時の「止め役」を用意するのでしょうか?きちんとした参謀を据えているかどうかも,この課題克服には欠かせないと思うのです。
 「心」を重視しているだけに,一歩間違えれば「気合いだ」「たるんでる」としか言わない精神野球にもなりかねません。そうなったときに暴走が起こるかもしれません。自分のバックボーンをカバーできるものが何なのか,新井はもうつかめているのでしょうか?


●苦手な計画をどう克服するのでしょうか?

 新井は「心」をもって一瞬一瞬で勝負していくという姿勢で現役時代を生きてきました。逆に,計画を立てて物事を進めていくのは苦手と語っています。
 選手時代は,基本的に自分が生き残っていくことを一番に考えます。そのため,人の邪魔をしなければ自分の生き方を貫いていいと思うのです。極論すれば,「自分のことだけ考えてもいい」というのが選手自身の目線だと思います。
 ただし,監督となれば今度はチーム全体を見る必要があります。一瞬一瞬を見る「虫の目」だけでなく,俯瞰的に全体的に見る「鳥の目」も必要になります。1年1年が勝負でも,「3年後はこうなっていたい」という長期的な目線も編成や采配で必要になるのです。
 新井の語っているのを見ていると,「鳥の目」が足りないところではないかと思うのです。特に,数年後を見据えるというのが現役時代になかった視点だと考えられます。監督となれば,それを培う必要があると新井は感じているのでしょうか?
 もしも新井がそれが足りないと感じた時,逆に計画的に物事を進める人が参謀になるといいと思います。足りないと思えば,誰かを連れてこればいいのです。
 23年シーズンに向けて,新井は藤井をヘッドコーチに据えました。阪神での現役時代,共にプレーしたことでお互いを知っていると思います。新井は自分に足りないものをつかんだうえで,藤井を参謀に据えたのでしょうか?ただ気心知り得る仲で選んだのなら,なあなあな「お友達内閣」になるだけです。
 監督1人だけですべてができるわけありません。だからこそ,コーチを連れてくるなどをするのです。どんな監督にも,足りない目線などがあります。監督を務める上で,新井はそのことを理解しているのでしょうか?これから采配する上で,それが見えてくるのかもしれないのです。


以上,新井監督の課題を考えてみました。


それでは締めに入ります。

新井は広島で生まれ,幸運なことにカープでプレーすることができました。

小さい頃からカープを愛し,主力選手にまでなれました。

だからこそ,FA宣言行使の時に「カープが好きなので,辛いです」と涙を流したのです。

しかし,最後は「帰るべき場所」に戻って,優勝を経験してバットを置いたのです。

そして,今度は大好きなカープの監督となったのです。

監督という大役を引き受けたのは,やはり「カープが好きだから」なのかもしれません。

カープに育ててもらい,一度は出ても再び迎え入れてくれました。

その恩義を胸に,今度は監督としてカープに携わる皆に喜んでもらいたいと思っているに違いないです。


ただし,新井は引退してからコーチを経ずに監督になりました。

そのため,監督を務めながら学ばなければならないことはたくさんあるはずです。

球団もまた,「監督を育てる」という目を持つことが必要になります。

そのため,5年は新井と心中する覚悟をもつべきです。

まだ40代と若いだけに,監督を育ててもいいと思うのです。

球団はその覚悟を持って,新井をいきなり監督として招聘したのでしょうか?


そして,自身の弟である良太をコーチに招き入れました。

ようやく初めて,兄弟で地元カープに所属することができたのです。

良太も広島出身,カープが大好きな人です。

その大好きというパワーで,カープに歓喜を再びもたらすことができるのでしょうか?

新井兄弟のカープでの挑戦が,2023年から始まるのです。



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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

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ただ、ありがとう 「すべての出会いに感謝します」
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