求究道(ぐきゅうどう)のプロ野球講義

プロ野球について,私が聴いて,観て,感じて,発見したことを基に,新たな考えを発信していきます。 皆さんの新たな発見につながることを祈ります。 「求めるものを究める道」がペンネームです。 よろしくお願い致します。

張本勲

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日本人のホームランの概念を変えた「青バット」:大下弘

今年は日本プロ野球誕生90周年というアニバーサリーです。

1934年に大日本東京野球倶楽部が発足し,ベーブ・ルースたちMLB代表と試合しました。

そこから職業野球の気運が高まり,36年から日本職業野球連盟としてリーグ戦が始まったのです。

そこから現在に至って,プロ野球は日本中で愛されるスポーツになっているのです。


ということで,当ブログでも不定期で歴史について書いてみようと試みます。

不定期なので,どれくらいの頻度になるのかは私にも分かりません。


一昨年に,村上宗隆の記録にちなんで,レジェンド小鶴誠についた書いたことがあります。

このような感じで書いてみようかなと思っています。

この90年の歴史を築いてきたレジェンドを,より多くの方に知ってもらいたいなと思っています。


今回書くのは,「青バット」と呼ばれた大下弘です。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


ここに2本のバットがあります。
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東京ドーム内にある野球体育博物館(現.野球殿堂博物館)を,かつて私が訪問した時に撮影したものです。

赤いバットと青いバットがあります。

この2本を使った2人の選手が,しのぎを削り合っていた時があったのです。


「赤バット」と呼ばれた読売ジャイアンツの川上哲治。

正確無比のバッティングコントロールで,弾丸ライナーを飛ばしていました。

そして,「青バット」と呼ばれた東急フライヤーズの大下弘。

天性の遠くへ飛ばす打球技術で,子供たちに夢を与えていました。

戦後間もないプロ野球は,この2人によって盛り上がり,築き上げたと言っていいと思うのです。


大下弘は,1922年12月15日に兵庫県神戸市で生まれました。

小学校,高等小学校と進学し,36年に台湾・高雄市に移住します。

ちょうど日本本国で,職業野球のリーグ戦が始まった年です。

41年12月に明治大学に進学するものの,徐々に足音が聞こえてきます。

そう,12月8日に真珠湾を攻撃したことで,太平洋戦争が始まったのです。

大下が進学したのは,学生の徴兵猶予の特権のためとも言われています。

しかし43年に大学のリーグ戦が中止になり,12月に学徒出陣を言い渡されます。

大下は航空隊を志願し,45年8月15日に終戦を迎えるのです。

大下は大学に復帰し,再びバットを持ち始めます。

あまりにも打球をポンポンと飛ばすことから,「ポンちゃん」というあだ名がついたのです。

大下の打球を飛ばす天性は,この頃から開花していたのです。


10月に大下は,明大の先輩である横沢三郎からプロ入りの勧誘を受けます。

戦後まもなく誕生した新球団・セネタース(現.北海道日本ハムファイターズ)に入団を決めます。

11月に職業野球東西対抗戦で大下は出場します。

この時,戦前の職業野球とは光景がまるっきり変わっているのです。

戦前は大学野球の方が盛んで,職業野球は玄人にしか好まれてなかったのです。

また,当時は野球を遊びだと思う傾向が強く,職業野球は「ろくな奴が行くところではない」と思われていたのです。

給料こそ一般職よりも高いものの,そのような価値観でプロ入りに反対する選手の親などもいたのです。

現に川上哲治も親にそう言われ,「兵役に入るまで」という条件で38年に巨人入りしたのです。

話を戻しますけど,戦後間もない頃になると子供が多く来るようになったのです。

戦後まもなく荒廃しきった日本,誰もが希望を求めていたのかもしれません。

そんな中で,大下は戦後初となる柵越えホームランを放ったのです。

それまでのホームランといえば,低いライナーで飛んだ球の延長線上のものか,ランニングホームランが相場でした。

対して大下の打球は,高い弾道から飛ばす虹のようなホームランなのです。

その打球が描くアーチは,戦後間もない人々に夢や希望を与えるものになったのです。

この瞬間から,日本人のホームランの概念が変わっていったのかもしれないのです。


46年にリーグ戦が再開され,大下のプロ1年目が始まります。

この時,大下23歳。

大下の虹のようなホームランに,多くの日本人は魅了されます。

それは子供や女性をも魅了し,大下は人気選手になっていくのです。

この年104試合出場し,打率.281,20本塁打,74打点,16盗塁を記録しました。

戦前のホームラン記録は,1938年秋の中島治康(巨人:この年,プロ野球史上初の三冠王)と39年の鶴岡一人(南海軍:現.福岡ソフトバンクホークス)の10本が最高でした。

それを戦後間もない新人がいきなりホームラン数を倍にしただけに,大下はプロ野球界に大きな衝撃を与えたのです。

本塁打2位の飯島滋弥も12本と記録更新していたものの,大下はそれすらも超えて圧勝のホームラン王だったのです。

いきなりホームランの最高記録が倍になったら,誰だって大きな衝撃を受けるはずです。

そうイメージすると,大下がとんでもない選手ということが想像しやすいかと思います。


そして大下はやがて,バットの色を青にします。

これはバットの色を赤にしていた川上哲治に対抗したものです。

並木路子の『リンゴの唄』の歌詞にある「赤いリンゴに(中略)青い空」をヒントにしたそうです。

一応参考に,『リンゴの唄』をYouTubeから引っ張ってきます(2024年2月19日アクセス)。

当時は歌も人々に希望を与えており,小さな歌声で魅了していたのが美空ひばりなのです。

そうして希望を与えるものとしてダブったから,赤バットと青バットが誕生したのかもしれません。

赤バットから放たれる弾丸ライナーと,青バットから放たれる虹のようなホームラン

戦後間もないプロ野球,誰もが2人に夢中になっていたと思います。

哲治と大下,共に雑誌の表紙やめんこになったくらいです。

いかに子供たちに夢を与え,愛される選手になったかが分かるかと思います。


47年,この年は大下と哲治で激しい首位打者争いが繰り広げられたのです。

序盤,哲治は高打率を残すのに対し,大下はホームランを狙うあまり凡打が多くなるのです。

大下の打ち方は,MLBの伝説であるベーブ・ルースやルー・ゲーリッグと似ているのです。

構えて一度前へ大きく倒してから,後ろへ大きく持って行ってスイングするスタイル。

そのため,打球がバーンと大きく飛んでいくのです。

ただ,この打ち方はテイクバックからインパクトの間までに時間が掛かり,粗いバッティングになってしまうのです。

その弱点を突かれたため,大下の打率は高くなかったのです。

そこで大下は流し打ちを心がけるようになり,打率が上がってきたのです。

哲治と打率でデッドヒートを繰り広げたのです。

ところが,大下が作り上げた風潮によって,今度は哲治がスランプになったのです。

大下が大きな打球を飛ばすことで,周囲はホームランを期待するようになったのです。

哲治は40年に本塁打王になったことがあるものの,その数は9本でした(ちなみに,46年に10本塁打を放っています)。

大下の20本と比べると,まさに天と地ほどの差があるのです。

その周囲の「ホームラン,ホームラン」という声から,「これからはホームランを打たなければプロではない」という雰囲気になってきたのです。

その期待に応えようとするあまり,哲治の正確無比な打撃が狂ってきたのです。

最終的に哲治は,打率.309(3位),6本塁打,57打点でした。

一方大下は,打率.315,17本塁打,63打点と,全てで哲治を上回ったのです。

首位打者と本塁打王の二冠に輝いたのです(ちなみに打点王は,阪神の藤村富美男で71)。

そう,大下のホームランによって,世の中のホームランに対する認識,価値観が変わってきたのです。

大下は2年連続の本塁打王に輝き,その期待に応えたのです。


巨人,西鉄ライオンズ(現.埼玉西武ライオンズ),大洋ホエールズ(現.横浜DeNAベイスターズ)を優勝に導いた,名将・三原脩は生前語りました。

”日本の野球の打撃人を5人あげるとすると,川上,大下,中西,長嶋,王

 3人に絞るとすれば,大下,中西,長嶋

 そして,たった1人選ぶとすると,大下弘”


中西とは「怪童」と呼ばれる天才打者・中西太,長嶋茂雄と王貞治は説明不要ですね。

3チームを優勝に導いた名将が,大下をこうしたレジェンドよりも選ばれる打撃人と見ていたのです。

大下がいかに優れているのか,「天才」と言われるのかが分かる言葉だと思います。


ただ,「天才」と思われる大下ですけど,それは天性だけのものではありません。

確かに人気者になってからの大下は,多くの女性と豪遊するようになったと聞きます。

一方で,後に西鉄でチームメイトになる稲尾和久は,生前語りました。

大下はある日,トレパン一丁でバット一本持って外に出ます。

そして帰ってくると,汗ぐっしょりになっていたのです。

そう,汗まみれになるくらいバットを振ってから帰ってきたのです。

練習嫌いと言われた大下ですけど,単なる「天才」ではないのです。

実際,48年は練習不足で不振になっていたと言われています。


大下の登場によって,その後のプロ野球が変わってきます。

大下と哲治という戦後間もないスターによって,プロ野球は子供や女性をも魅了するようになるのです。

同時に,世間はホームランを求めるようになってきます。

やがて様々な打者が柵越えホームランに果敢に挑むようになり,記録が塗り替わっていきます。

48年に哲治と青田昇(巨人)が25本塁打を放ち,大下の記録を更新して本塁打王になります。

ところがその記録は翌年,藤村が46本塁打を放って大きく更新されたのです。

大下が20本塁打と記録を大きく更新してから間もなく,ついにその倍以上にまで到達したのです。

49年は藤村以外にも,別当薫(阪神)の39本,大下の38本,西沢道夫(中日)の37本と,30本塁打越えが4人もいたのです。

そして2リーグになった50年,セ・リーグ本塁打王の小鶴誠(松竹ロビンス)が51本塁打に到達したのです。

まさに,大下から「日本人のホームランの概念」が変わっていったのです。

周囲のホームランを求める声に変わり,やがて選手も柵越えホームランの量産を狙いに行き,記録を更新してもそれ以上のホームランを求める。

そして,それを見た子供たちもホームランに憧れるようになったのです。

大下の戦後間もない虹のようなアーチがなければ,世はホームラン野球になってなかったのかもしれないのです。


人々が大下に魅了したのも,戦後間もないタイミングだったからだと思います。

敗戦で焼け野原になり,多くの人が絶望的な気持ちになっていたと想像します。

その中で様々な娯楽が復活し,プロ野球もその1つでした。

人々は再び見られる娯楽に,生きる希望を求めていたのかもしれません。

そんな時に希望の象徴ともいえる「虹」のような打球を,大下が見せたのです。

こうしたことが重なった奇跡を,大下が生み出したのではないかと私は思うのです。


後に大下と西鉄でチームメイトになる豊田泰光が,生前に語ったものがあります。

豊田が語るには,「長嶋によって,プロ野球が初めて”カラー”になった」とのことです。

打っても走っても守っても,絵になって人々を魅了していたのが長嶋です。

その土体となる「白黒」を作ったのが,哲治と大下だと私は思うのです。

戦後間もない2人のスターが,子供や女性のプロ野球人気を上げました。

そうして戦前より人々がプロ野球に目が行くようになったという土台がある。

そこに,長嶋がどんなプレーでも映える野球を見せます。

長嶋に魅了するようになったのは,その前に哲治と大下が築いた「土台」があったからだと思うのです。

哲治と大下が白黒テレビを作り,長嶋がカラーにしたということでしょうか。

哲治と大下は,こうした点でプロ野球史に欠かすことのできないレジェンドなのです。


それでは,川上哲治と合わせて,その後の大下を語って締めることにします。

その後哲治は,アベレージヒッターとして巨人の中心打者を務め続けます。

1956年には,プロ野球史上初の通算2000本安打を達成します(大正生まれのため,名球会には未加入)。

「ボールが止まって見える」という言葉を残し,「打撃の神様」と呼ばれるようになったのです。

そして58年に現役を引退したのです。


大下はその後,49年に38本塁打,102打点と自己記録を更新します。

50年に打率.339で2度目の首位打者に輝き,別当の三冠王を阻止したのです。

51年は89試合で26本塁打,打率.383で3度目の本塁打王と首位打者に輝くのです。

この時の長打率は.704で,OPSは何と1.169というとんでもない数字なのです。

打率も2位に圧倒的な差をつけて,70年に張本勲が3毛差で抜くまで日本記録だったのです。

52年から西鉄でプレーし,54年の優勝,56年から58年の優勝・日本一3連覇に貢献します。

59年,打率.303を残しながら現役を引退します(規定打席には未到達)。

通算成績は,打率.303,1667安打,201本塁打,861打点,146盗塁でした。

引退後は評論家などを経て,61年に阪急ブレーブス(現.オリックス・バファローズ)で打撃コーチを1年務めます。

68年には古巣・東映フライヤーズの監督になるものの,シーズン途中で辞任します。

74年から75年に大洋でコーチを務め,その後は少年野球や女子野球のチーム監督を務めたのです。

1979年5月23日,56歳で亡くなりました。

美空ひばり,笠置シズ子,川上哲治と共に,戦後復興のシンボルとなったスーパースターの死は,大きく取り上げられたのです。

翌80年,小鶴や千葉茂と共に野球殿堂入りを果たしたのです。


戦後間もない頃,人々の心は荒んでいました。

そんな中で大下が描く虹のようなホームランが,人々に希望を与えました。

それはプロ野球界を変えることにつながり,ホームランの時代を切り開いたのです。

大下の20本塁打が戦前の記録なら,もしかしたら日本のプロ野球は大きく違っていたのかもしれません。

そう考えますと,時代が大下を必要としていたと言えそうなのです。


そんな大下が引退後に語った言葉で締めます。

”私は野球には天才も名人もいないと思っています。

 天才とかなんとかは周りが言うことであって,実際は存在しませんよ。

 私だって凡才です。

 ONといえども凡人の中の非凡の程度じゃありませんか”


「天才」とは何か,いや「天才」なんていないということを示した言葉だと思うのです。



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『パワプロ8決定版』:難攻不落の「伝説最強チーム」

現在最新のパワプロは,『パワプロ2022』ですね。

その中のパワフェスには,様々なチームが存在してます。

過去のパワプロで出てきた高校,大学,社会人チームなどがあります。

それを見て,懐かしいと思った方もいると思います。


その中で,「プロ野球レジェンズ」というチームがあります。

パワプロに出てくるOBによって結成されたチームです。

その選手の最もいい時の能力が集結して戦うことになります。

レジェンドばかりなので,無論手ごわいです。


初めて戦った時,BGMを聞いて鳥肌が立ちました。

そう,この曲なのです(2022年9月5日アクセス)。


『パワプロ8』(決定版)で出てくる曲なのです。

まさに,ラスボス戦というものを表しているように感じます。

そう感じた曲は,パワプロで他には見当たりませんね。


パワプロ8は,『パワプロ8決定版』でプレーしていました。

この曲を聴きますと,サクセスの最終ステージを思い出すのです。

そう,セントラルタワーに仲間を集めて入った時のことです。

仲間を8人以上集めると,そこで「最後の戦い」が始まります。

まず,主人公自身と仲間とそっくりそのまま戦います。

それに勝った時こそ,「難攻不落の最終ステージ」を迎えます。

それが「伝説最強チーム」との対決です。


パワプロ8(決定版)に入っているOB選手が集まるチームです。

しかも,それぞれが全盛期の時の能力です。

それがとてつもなく難しく,ここを一度もクリアできずにソフトを手放した人もいると思います。

私も,一度もここをクリアできずに手放しました。


今回は,この「伝説最強チーム」がどれくらいの強さなのかを見て頂きたいです。

そして,これがいかに難攻不落なのかを知って頂きたいです。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


まずは野手陣です。

こちらが,「パワプロ8決定版」の「伝説最強チーム」の野手陣です。
伝説最強野手

TVゲームが発売されたのは2001年のことです。

その時の私は学生でしたけど,もうこのメンツを見て思いました。

勝てるかあ!

私は小さい頃から名鑑をよく読んでいました。

そこで歴代成績などをよく見ており,それでOBの名前も覚えました。

それで知ったレジェンドが,これでもかというくらい揃っているのです。


1番,通算477盗塁は歴代5位で,33試合連続安打は日本記録。

カープの切り込み隊長・高橋慶彦。

70盗塁が出塁すれば,もう「盗塁してください」じゃないですか。

2番,通算3085安打は唯一の3000本安打。

「安打製造機」はこの男を除いては語れない・張本勲。

最強のアベレージヒッターが2番って,贅沢にもほどがある。

もう,ここで30本塁打100打点が来ますから

3番は日本人最多の55本塁打・王貞治。

4番は三冠王3回・落合博満。

5番,161打点は71年間破られてない不滅の記録。

「和製ディマジオ」・小鶴誠。

55本塁打,三冠王,161打点って,表現できないくらい最強のクリーンアップじゃん。

6番,説明不要のミスター・長嶋茂雄。

ここでも30本塁打に100打点ですよ…

7番,捕手の最強打者・野村克也。

ここで52本塁打って,最強の7番打者じゃん…

8番,「ミスター赤ヘル」・山本浩二。

8番に44本塁打と100打点って…

もう,ホッとできるところのないメンバーです。

このメンバーだけ見ても,「勝てるかあ!」と思ったのです。


また,ベンチのメンバーも豪華すぎます。

投手での代打でしか出ません。

それでも「不惑の大砲」・門田博光,「アーチスト」・田淵幸一,「怪童」・中西太…

さらに,「最強の代打」・高井保弘,同じく代打の切り札・川藤幸三…

誰が代打で出ても,ホームランを覚悟せずにはいられないのです。

マジで,プレーヤーはどのイニングでも気が休めないのです。

現実世界でこんなメンバーが集まれば,相手投手は投げたくないと思うのではないでしょうか?


今度は投手陣を見てみます。

こちらがメンバーです。
伝説最強投手

投手を見ても思いました。

勝てるかあ!

「神様・仏様・稲尾様」こと稲尾和久からスタートです。

いきなり三冠王って…

次は「カミソリシュート」の平松政次,「サブマリン投法」の山田久志…

そして,クローザーは「江夏の21球」でおなじみの江夏豊です。

名球会入りした選手ばかりで,誰なら攻略しやすいとかないです。

実際の試合では,稲尾→平松→山田→村田→西本→中西→江夏の順で登板します。

杉浦と牛島は,延長戦にならないと出ないそうです(私は対戦で延長戦の経験はないです)。

なので,ある程度相手投手に慣れたとしても,次々と交代されるのです。

これもまた,相当苦戦する一因なのです。


ということで,以上が「伝説最強チーム」です。

投手よりも,野手に「勝てるかあ!」を感じるのです。

スタメンで「30本塁打と100打点」が7人も連続で出てきます

しかも,選手全員絶好調です。

マイナス能力があっても発動せず,能力は劇的にアップします。

これらのことを含めて,

勝てるかあ!

としか言えないのです。


ただし,この最終ステージをクリアすれば,パワプロ8の真のエンディングを見ることができます。

なおかつ,相当素晴らしい選手を作成することができます。

このサクセスのルール上,最後の手段として挑むという人もいると思います。

そう思って入ってみたら,このとんでもないメンバーです。

パワプロ8決定版をやりまくっていた当時,私は何度挑んでいたでしょうかね…

そんな思い出を持ってる方がおられますのなら,コメントよろしくお願い致します。


今回このネタを書いたのは,村上宗隆がきっかけなのです。

一昨日の試合で,村上は51号に到達しました。

これで1950年の小鶴誠に並んだのです。

ということで,昨日「71年間破られてない記録保持者:小鶴誠」というネタを書いたのです。

書いているとき,「そういえば小鶴は,パワプロ8決定版にいたな」と思い出したのです。

ならばと,「伝説最強チーム」を丸ごと紹介したのです。

考えてみれば,村上はこうしたレジェンドたちに挑んでいるということになります。

村上はレジェンドになれるのか,もうレジェンドなのか…

皆さんの答えはいかに…



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『野村克也からの手紙』を読んで その4

今回も『野村克也からの手紙』を読んで感じたことを書いてみます。


それでは,よろしくお願い致します。


今回は「恩師,友へ」あての手紙についてです。

学ばせてもらったことへの感謝を中心に書いています。


鶴岡一人・・・感謝半分恨み半分,それでも受け継ぐものがあった「恩師」

 鶴岡が南海ホークスの監督でなければ,テスト生のノムさんがここまでの選手になることはなかったと思います。それはノムさん自身も認めていることです。それでも,どうしても感謝だけの気持ちではないのです。その気持ちのまま,ノムさんは鶴岡のもとへ行くことになりました。
 ノムさん曰く,鶴岡は決して自分のチームを褒めませんでした。むしろ,相手チームの選手のことをよく褒めていました。「あいつを見ろ。あれが銭の取れる選手じゃ」という具合にです。当時は戦後まもなく,生きるか死ぬかという意識が強かったと思います。だからこそ,「銭」という言葉が使われたと思います。
 ただ,その中でノムさんが「褒められた」と感じたのは2回だけです。1回目は,ノムさんが3年目のことです。レギュラーの故障などで,ハワイキャンプの試合でノムさんが起用されたのです。そのキャンプ後の鶴岡の言葉です。
 「ハワイでのキャンプは失敗だった。でも,1つだけ収穫があった。それは野村に使えるメドが立ったことだ」と。ノムさんは,自分を見ていてくれたことを意気に感じました。そこから,ノムさんはレギュラーになってきたのです。
 もう1つは,ある日のことです。ノムさんとすれ違ったときに,鶴岡がさりげなく言いました。「お前,ようなったのう」と。滅多に褒めないだけに,ノムさんはさらに意気に感じたのです。
 こうして,滅多に褒めないからこそ,称賛の言葉が響くとノムさんは感じました。その考えから,ノムさんも監督時代は選手をあまり褒めませんでした。「無視・称賛・非難」と段階を作り,「褒められている内は二流だぞ」ということを示すまでになったのです。自身も「銭」という言葉を使うことを含めて,鶴岡の影響を受けていると認めているのです。
 ただ,その後鶴岡はノムさんを称賛しなかったのです。65年に三冠王を獲っても,鶴岡は「何が三冠王じゃ。ちゃんちゃらおかしいわ」とノムさんに言ったのです。70年にノムさんが選手兼任監督になって,鶴岡に助言を求めようと挨拶をした時です。「お前,監督がどういうもんか,わかってるのか!」とすごい剣幕で言ってきたのです。
 同じチームメイトだった杉浦忠や広瀬叔功などについては,腫れ物に触るように接していました。なのに,ノムさんに対しては何故かこのような態度だったのです。ノムさんの最初の奥さんとの披露宴での仲人を断ったにもかかわらず,広瀬の時は引き受けました。
 鶴岡は情に訴える監督の典型例とノムさんは見ています。杉浦や広瀬をはじめ,穴吹義雄,大沢啓二などを「子分」として接していたのです。杉浦たちも,鶴岡を「親分」として慕っていました。こうした関係が,「親分のためにやるぞ」と意気に感じるようになり,南海は常勝軍団になっていったのかもしれません。
 ただ,その一方で「一派」から外された人は面白くないです。その一例がノムさんだったのです。ここまでの選手になったにもかかわらず,何故鶴岡は「野村は俺が育てた」と自慢しないのでしょうか?一番の大選手になったのも関わらず,「本当の功労者は杉浦じゃ」と言っていたのでしょうか?
 77年オフに,ノムさんは南海監督を解任されました。解任会見でノムさんは,「鶴岡元老にぶっ飛ばされました。スポーツの世界にも政治があるとは思いませんでした」という発言をしました。自分が成績を残しているにも関わらず解任されたのは,鶴岡によるものではないかと感じたのです。
 鶴岡は23年間監督を務め,通算1773勝とプロ野球界で最も勝った名将です。監督退任後も,南海に大きな影響力があったのは想像に難くないです。鶴岡の子分でないノムさんが監督になったことが,元来気に入らなかったのでしょうか?
 ノムさん解任後に監督になったのは,広瀬や杉浦など「子分」が多かったです。しかし,最下位が指定席というくらいの弱小チームとなり,88年オフをもってホークスはダイエーに身売りとなったのです。
 果たして,ノムさんの考えるように鶴岡の影響で解任となったのかは分かりません。鶴岡が何故ノムさんを嫌っていたのかも,鶴岡が亡くなるまで語りませんでした。
 しかし,93年にヤクルトを日本一に導き,正力松太郎賞をノムさんにと推薦したのは鶴岡です。何より,ずっと南海の4番兼正捕手で起用し続けたのも鶴岡です。ノムさんの考えること全てが正しいとは限りませんが,恨みが強いだけにそう思えなかったのかもしれません。
 2000年に鶴岡が亡くなった時,ノムさんは葬儀に参列せず,花輪も送りませんでした。杉浦や大沢もノムさんに対して苦言を呈していました。しかし,結局ノムさんの考えは変わらないまま,ノムさんは鶴岡のもとへ行ったのです。
 鶴岡に対する締めは,「監督のさりげないひと言が,選手の自信とやる気を育てる」です。選手を滅多に褒めないなど,ノムさんが鶴岡の影響をいいように受けているところがあるのも事実です。ノムさんは鶴岡を手本にもしている一方で,「精神野球」というところは反面教師にもしているのです。これらを含めて「恩師」としているのかもしれません。
 果たして,あの世でノムさんは鶴岡に再会できたでしょうか?そして,今だから聞けることを聞いているのでしょうか?それとも,杉浦や大沢といった子分たちに囲まれているのを見て,やはり近づくことができないのでしょうか?何が正しいかどうかは,当事者同士しか知らないことですからね。


杉浦忠・・・南海史上最強のバッテリーなのに・・・

 今の若い人たちは,杉浦忠という野球人を知っているのでしょうか?ノムさんは亡くなる直前まで解説者を務めていたこともあり,若くてもノムさんを知っている人は多いかなと思います。そのノムさんの現役時代に,南海でエースを務めていたのが杉浦なのです。
 杉浦とノムさんは同年代です。ノムさんがテスト生に対して,杉浦は立教大学から鶴岡がスカウトした選手です。長嶋茂雄と共に「立教の三羽ガラス」と言われており,先輩の大沢は長嶋と共に杉浦をスカウトしたのです。結果として長嶋は巨人に入りましたが,1958年に杉浦は義理を通して南海に入りました。
 1年目から27勝を挙げて新人王になり,翌年は投手5冠王に輝きました。38勝4敗,防御率1.40,336奪三振,勝率.905,9完封という,今では考えられない驚異的な数字です。当時は,エースが先発・中継ぎ・抑え全てを務めていた時代でした。それでもこの数字というのは,杉浦の球がいかに打てなかったのかを示していると思います。
 杉浦が伝説になるのは,2年目の日本Sのことです。巨人相手に第1戦から4戦まで,全ての試合で投げたのです。それも3試合は先発で,第3戦と4戦は完投してのことです。そして,全ての試合で勝利投手となり,4連投4連勝という伝説を作ったのです。無論,シーズンでも日本SでもMVPとなりました。
 そんな杉浦は,よくノムさんと広瀬と共に行動していました。夜の街を歩き,門限破りもよくやっていました。鶴岡からは「南海の三悪人」と言われていました。ノムさんも江夏,江本,門田を「南海の三悪人」と言いましたが,自分も三悪人と表現されていました。
 杉浦とノムさんは,今でいう「最優秀バッテリー」のような黄金バッテリーだったのかもしれません。エースと4番の重要性をよく説くノムさんですが,まさに当時の南海はしっかりと両方君臨していたということだと思います。
 そんな杉浦に対して,ノムさんは1つ恨み節を出しました。ある年のオールスターで,杉浦,ノムさん,稲尾がベンチに座りました。その時,杉浦は稲尾に「野村は,お前を研究しているんだぜ」と自慢したのです。杉浦からすれば美談を紹介したいだけで,悪気は全くなかったと思います。
 ただ,ようやく稲尾の攻略法を見つけた側からすれば,完全に「余計なことを言いやがって」です。言おうとした杉浦に「やめとけ」と言っても,「いいじゃないか」といって秘密を漏らしたのです。やがて,その攻略法対策を稲尾が実行したのです。ノムさんからすれば,「また攻略法を見つけないと」というしかないです。
 そして,杉浦の言うことで,ノムさんが癖などを研究していることがパリーグ全体に知られたのです。グラブでボールを隠すようになり,癖を出さないような対策をパリーグの投手がとってきたのです。「余計なことを言いやがって」という恨み節があったものの,杉浦によって球界を変えることにもなったのかもしれません。
 こんなエピソードもあります。連投を重ねたからでしょうか,杉浦の成績が段々と下がってきたのです。そこで杉浦は,同じ南海の主力投手である皆川睦雄にならってシンカーを覚えようとします。これに対してノムさんは,持ち味のストレートまでおかしくなると言って反対しました。杉浦は聞き入れず,成績はさらに下降していったのです。
 あれだけ勝つ投球をしていたにも関わらず,13年間で187勝を挙げて杉浦は現役を引退しました。ノムさんは,「自分の言うことを聞いていれば,もう少し勝てていたのに」と思っていたのです。
 杉浦とノムさんが袂を分かったのは,ノムさんが兼任監督になったのがきっかけだそうです。ノムさんの推測では,杉浦は鶴岡親分の寵愛を受けていました。そのため,次は自分が監督と考えていたか,鶴岡に言われたのではないでしょうか?ところが,川勝傳オーナーはノムさんを兼任監督にしました。これが面白くなかったのではないかとノムさんは考えているのです。
 ノムさんが解任されたのち,杉浦は南海監督を務めます。88年に南海ホークスは身売りとなりますが,その時の監督が杉浦だったのです。ホーム最終戦セレモニーでは,「ホークスは不滅です。ありがとうございました。(福岡へ)行ってまいります」と言って,南海ホークスは幕を下ろしたのです。ダイエー初年の89年まで監督を務めました。
 2001年に杉浦が亡くなりました。鶴岡との確執が取れないノムさんに対して苦言を呈していたとのことです。ただ,鶴岡の寵愛を受けていた子分から言われても,ノムさんは響かなかったのだと思います。
 杉浦に対する締めは,「企業秘密は,同僚にも漏らしてはならない」です。杉浦の「余計なこと」も,ノムさんにとっては学ぶものがあると捉えているのかなと思います。敵は相手チームだけとは限らないと,他の様々な人にも当てはまることではないかと思います。
 杉浦が亡くなって19年。ノムさんは杉浦と再会できたでしょうか?穴吹など,先に逝った南海戦士と話をしているでしょうか?あの世で,もう一度「南海ホークス」を結成しているでしょうか?「若い頃はよかった」と思うことは,あの世でならいくらでも言っていいのかもしれません。


稲尾和久・・・「一流が一流を育てた」というライバル

 ノムさんは,日本人選手のメジャーリーグ移籍に球界の危機感を持っていました。一流や超一流がどんどんメジャーに行くことで,日本に一流選手がいなくなっていきます。それは人気選手がアメリカに持って行かれるだけでなく,「一流が一流を育てる」という持論があるからでもあります。
 打者は壁に直面した時,投手をどのように攻略するのか必死に対策を練ります。投手も打たれた後は,次はどう抑えるのかに知恵を絞ります。こうして打者も投手も,それぞれ対戦することで自身のレベルが上がっていく。これがノムさんの考える「一流が一流を育てる」です。
 ノムさんにとって,対戦投手の中で自分を一流にしてくれたと語るのが稲尾です。ノムさんは相手の癖を研究し始めることで,再び打てるようになってきます。しかし,どうしても攻略法が見つからない投手がいました。それが稲尾です。
 やはり,いい投手ほど癖がないものです。鶴岡監督にも,「お前は二流はよう打つけど,一流は打てんのう」と嫌味を言われます。どうすれば稲尾を打てるようになるのか,ノムさんは知恵を絞ります。
 そこでノムさんは,当時は珍しい16ミリフィルムで撮影された稲尾の映像を何度も見ました。そして,ようやく癖を見つけたのです。球種は分からないですけど,インコースかアウトコースかの判別が一瞬の動きで読めたのです。それが分かると,球種も絞ることができます。こうして,稲尾を攻略できるようになるのです。
 しかし前述の通り,ノムさんが研究していることを杉浦が稲尾に言ったのです。内容まではしゃべってないので,ノムさんは「あれだけでは分からないだろう」と思っていました。ところが稲尾は癖を修正し,マウンドでノムさんに向けてニヤッと笑ったそうです。
 そこからはもう,ノムさんと稲尾による狐と狸の化かし合いです。オールスターではパリーグの他の投手の球を受けることができるので,ノムさんにとっては情報収集の場です。そのため,稲尾はノムさんのサイン通りに投げないのです。「おい,要求したのと違うじゃないか」と言っても,「あれ?そうでしたかな?」とごまかしていたのです。
 稲尾は生前,「当時我々はオールスターでセリーグのバッターと勝負していない。パリーグのキャッチャーと戦っていたんですよ」と語っていました。パリーグの投手は,情報収集をするノムさんと勝負していたのです。そのため,セリーグのバッターの印象があまりないと語る投手もいるのです。その1人が稲尾なのです。
 ノムさんは,稲尾との勝負は「楽しかった」と語っています。お互いに執念を燃やして攻略法を見つけていくことで,お互いに野球頭脳が鍛えられたのです。ノムさんも「投手で最大のライバルは稲尾」と語りました。稲尾もノムさんを意識していたのは,前述の通りです。
 稲尾に対する締めの言葉は,そのまま「一流が一流を育てる」です。まぁ,私からすれば,お互いに超一流だと思いますけど。今の球界で,これを意識して野球に取り組んでいる選手はいるでしょうか?一流選手の存在のありがたみを感じているのでしょうか?
 今の球界で「ライバル」という意識が乏しくなっているのかもしれません。それだけ特定の選手を意識しなくなったということなのか,公言しなくなったのか・・・「自他ともに認める」という存在が,どれだけ球界を当時盛り上げていたのかなと思うものです。
 稲尾が亡くなって13年。ノムさんも稲尾のもとに行きました。本書で最後に「ありがとう,サイ」と書きました。その言葉,あの世で稲尾に直接言っているでしょうか?再び野球談議に花を咲かせているでしょうか?


長嶋茂雄・・・「ひまわりと月見草」からのライバル

 実は,長嶋が南海に入っていた可能性があるのは前述の通りです。もしも実現していたら,南海の4番はどうなっていたでしょうか?プロ野球の人気はどうなっていたのでしょうか?ノムさんは,そういうことを想像しながら亡くなったのかなと思います。
 ノムさんがどれだけ打っても全然記事の一面になりません。一方で長嶋は,不振であっても一面に載るくらいです。天覧試合のサヨナラホームランを契機に,巨人人気は加速していきます。長嶋のプレーや背番号「3」に,多くのファンが熱狂していたのです。
 そんな人気の差について,ノムさんはこのように表現しました。「長嶋と王が太陽に向かって咲く向日葵なら,俺はひっそりと咲く月見草」と。この言葉から「月見草」はノムさんの代名詞となり,私もカテゴリやタイトルに使わせてもらっています。
 そんな長嶋に対して,ノムさんのささやき戦術は通じません。ノムさんのささやきを聞かず,自分の聞きたいことだけをしゃべります。まぁ,話を聞かない人ということですね。それでも,スイングスピードは見た中で一番と語っていました。
 また,長嶋がオールスターも日本Sもポストシーズンの試合も一切休まないことに,ノムさんは感心していました。「俺を見ている人がいる」ということで,簡単に休めなかったのです。また,ONは共にすごい練習をしていたことで,他の選手も気を抜けなかったと言います。そこもノムさんは「ONはチームの鑑」と認めていたのです。
 ノムさんと長嶋は,現役時代違うリーグにいました。なので,ノムさんはライバル視していませんでした。ライバル視するようになったのは,ヤクルト監督に就任して,長嶋が巨人監督に復帰してからです。
 ノムさんの「ID野球」と長嶋の「カンピューター野球」。『あんな「カンピューター野球」に負けてたまるか』とノムさんは意識しました。そこでマスコミに,長嶋や巨人に対する言葉を発するようになったのです。そうすることで,球界を盛り上げようと考えたのです。
 長嶋はこれに対して,「他のチームに負けても腹が立たない。でも野村に負けると腹立つんだよな」と語っていました。長嶋も意識するようになったのです。そして,名球会で顔を合わせたときは,とうとうノムさんを無視するようになったとのことです。長嶋には,ノムさんの意図が読めなかったのでしょうか?
 お互いに監督をやめた今は,きちんと話すようになりました。18年2月に開催された,巨人とホークスのOB戦ではお互いに総監督を務めていました。ノムさん,長嶋,王,張本勲の4ショットは,本当に圧巻に感じました。昭和を彩った超一流が今も健在ということを示したと感じたのです。
 長嶋に対する締めは,そのまま「今でもお前がひまわりで,俺は月見草」です。今でも長嶋がキャンプや球場に現れると,野球ファンは感慨を覚えるものです。長嶋は今でも,球界に光をもたらす「ひまわり」のままなのです。
 長嶋はノムさんの訃報に対して,「また大切な人を失った」と語っています。1月には「まだまだ頑張るぞ」とノムさんが言ったのに対して,長嶋も「お互い頑張ろう」と返しました。その1か月後に,ノムさんは先に逝きました。向日葵は今,月見草に対して何を思っているのでしょうか?


王貞治・・・「俺の価値を下げた男」というライバル

 世の中,そのジャンルで一番になった人のことは良く知られます。しかし,2位になったものは余程のインパクトがない限り,なかなか知られないものです。私もホームランランキング1位の王は早く知りました。一方,2位がまさかヤクルトの監督のノムさんというのは,初めて知った当時は思いもしませんでした。
 ホームラン記録において,いろいろなところで王はノムさんを抜きました。63年にノムさんは,小鶴誠が50年に記録した51号を抜く52号を放ちました。「これで俺の記録は10年は抜かれない」と思っていたら,翌年に王が55号を放って抜きました。ちなみに,ノムさんの52号は落合博満と並んで,今でも日本国籍選手の最高記録です(王は台湾国籍)。
 そして,通算本塁打でも350号から550号まで,ノムさんがプロ野球史上初の達成でした。しかし,とうとう600号で王に抜かれたのです。最終的には,通算本塁打で868号と657号の差となったのです。
 こうして,ホームランを中心に打点などで次々とノムさんは王に抜かれて2位になったのです。こういうことから,ノムさんは王のことを「俺の価値を下げた男」と表現しているのです。
 ただし,ONがいたからこそ自分もここまで来れたとも言っています。王はどう思っているのか分かりませんけど,ノムさんにとってはライバルと見ていたのです。王がいなければ,ノムさんも657号まで行っていたのか分からないものです。
 王の練習風景を見た時は,「すごい」と感じて,自分の練習は遊びみたいと感じたとのことです。飲んでも常に自分を律していたのを見た時は,「俺の記録はいつか抜かれるな」と思っていたとのことです。そう感じていたのなら,この記録は必然だったのかもしれないのです。
 監督としても,王とノムさんはしのぎを削っていました。王はホークスを常勝軍団にしていく中で,ノムさんは誕生したばかりの楽天監督になりました。ただし,王の采配はオーソドックスだったので,やりにくさはなかったと語っています。
 王は人のことを悪く言いませんし,今もホークスの会長を務めています。ノムさんはホークスから切られたものです。「お前は,どこまで人格者なんだ」と本書では書かれています。
 王に対する締めは,「神様は,努力する人間を見ている」です。一本足打法になってから,王は自分を律し,師匠・荒川博の下で常に素振りを重ねました。本人も「同じ年代の人の中で,一番バットを振ったでしょうね」と語っています。それでいい成績を残したのですから,この発言には誰も反論できないと思います。
 これほど努力をしている人を,神様はきちんと見ていたのですね。王は努力について,こう語っています。「努力が報われないことなんてない。報われない努力があるとするのなら,それはまだ本当の努力ではない」。王の中では,報われるまでやり続けることが本当の努力なのです。今,あの世でノムさんはこの言葉に対して,何を思っているのでしょうか?
 ノムさんの訃報に対して,王は「同じ時代を悪戦苦闘して戦った戦友」と語りました。現役時代に,ノムさんの家に訪問していたことも語りました。王にとってのノムさんは「戦友」です。この言葉,今あの世でノムさんはどう思っているのでしょうか?


以上,「恩師,友へ」にあてた手紙から感じたことでした。

次回が,このシリーズの最終回の予定です。

それでは,またよろしくお願い致します。



開幕はいつか来ると信じて,読んで頂いた皆さんの何かの足しになればと願っています。

最後までご覧いただき,ありがとうございます。

ご意見ございましたら,是非当ブログでもツイッターでもコメントお待ちしております。

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それでは,またのお越しをお待ちしております。


皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

野村克也からの手紙 ~野球と人生がわかる二十一通~
野村 克也
ベースボール・マガジン社
2018-06-19


ノムさんとパリーグのレジェンドたち(現役時代)

今回も,先日亡くなったノムさんについて書いてみたいと思います。

今回のテーマは,「パリーグのレジェンドたちと」です。

ノムさんの現役時代,パリーグのレジェンドたちとどのような関わりがあったのでしょうか?

それでは,よろしくお願い致します。


ノムさんが入団する前,プロ野球で戦後スターとなっていたのは赤バットと青バットでした。

赤バットの川上哲治と青バットの大下弘でした。

後に1950年から2リーグ制が始まると,大下は東急フライヤーズにいたのでパリーグに行きます。

「天才」と言われた大下は,戦後の荒廃した中で暮らす人々に勇気を与える虹のようなホームランを量産します。

虹を描くような軌道のホームランは,それまで見たことがないだけに強烈なインパクトを与えます。

後に西鉄ライオンズに移籍となりますが,大下は初期のパリーグで存在感を見せていました。

ノムさんにとっては,手の届かない存在だったと思います。


1954年に,ノムさんはテスト生で南海ホークスに入団します。

この頃のスターといえば,西鉄の「怪童」中西太です。

中西は1年目の52年に新人王となり,翌年には2年目でトリプルスリーとなったのです。

その後もタイトルは確実という活躍を見せて,怪童ぶりを発揮していました。

スタート時のノムさんにとっては,文字通りの「バケモン」だったと思います。


ノムさんは3年目にレギュラーをつかんでいくと,4年目には中西や山内和弘(後に一弘と改名)ら強打者を抑えて,本塁打王になるのです。

怪童などに勝ったこともあり,「これでプロで飯を食っていける」と思ったと語っています。

ところが翌年,ノムさんは打てなくなるのです。

その原因は自分でも分かっていました。

変化球にタイミングが合わなかったのです。

「野村,カーブのお化けが来るぞ」と野次られ,カーブノイローゼになったこともあったのです。

それを打開したのは,『打撃論』という1冊の本からなのです。

メジャーリーグで「最後の4割打者」と言われる,テッド・ウィリアムズが著したものです。

そこからノムさんは,相手投手の癖や傾向などを研究するのです。

ノムさんは変化球が来ると分かっていれば打てる,自分は不器用と自覚したのです。

そこから,「月見草の眼」が始まったのです。


ノムさんの打率は上がり始め,本塁打王に返り咲きもしました。

しかし,どうしても癖の分からない投手がいました。

それが「神様・仏様・稲尾様」と言われた,西鉄の稲尾和久です。

やはり,いい投手ほど癖がないものです。

鶴岡一人監督からも,「お前は二流はよう打つけど,一流は打てんのう」と嫌味を言われます。

そこでノムさんは,当時珍しかった8ミリフィルムで稲尾を撮影したものを何度も見ていました。

すると,わずかですが癖を見つけました。

振りかぶったときに,一瞬だけボールの白いところが手から見えるとインコース,それ以外はアウトコースと分かったのです。

球種は分からずとも,それだけでもヤマを張ることができるのです。

そこから,稲尾を打てて来るようになったのです。


そして,ここから稲尾とノムさんの「狐と狸の化かし合い」が始まったのです。

稲尾も「おかしいなぁ」と感じていました。

そこでオールスターで,南海の杉浦忠からあることを聞きました。

「野村は投手を研究しているんだよね」と暴露したのです。

ノムさんは「言うな」と言っていたものの,杉浦としては美談として稲尾に話したのだと思います。

ノムさんとしては「余計なことを言いやがって」です。

その後,稲尾の癖を見て「よし,インコース」と思ったら,アウトコースに投げられました。

ノムさんは稲尾を見ると,稲尾はニコリと笑ったそうです。

稲尾も自分を研究して,癖を変えてきたのです。

そうなると,ノムさんも再び稲尾を研究して攻略法を見つけます。

こうして,お互いの研究合戦であり,「狐と狸の化かし合い」が始まったのです。

ノムさんは持論として,「一流が一流を育てる」というのがあります。

なのでノムさんは,日本人選手が次々とメジャーに行くことを快く思ってなかったのです。

そう考える原点は,この稲尾との対決にあると語っていました。


そんなあらゆる研究するノムさんを,他球団の選手も警戒してくるのです。

ノムさんにとってオールスターは,パリーグの他の投手の球を取れる,またとない機会です。

まさに「情報収集」の場なのです。

相手もそれをわかっているので,ノムさんに情報を盗まれないようにするのです。

稲尾も「オールスターはセリーグの打者ではなく,ノムさんと戦っていた」と生前語っていました。

その為,パリーグ投手はノムさんのサイン通りに投げないのです。

イニングが終わるとノムさんに「お前シュートのサイン出したのに,何でストレートを投げたんだ?」と言われます。

そうなると稲尾たちはごまかします。

「あれ?そうでしたっけ?」とかいうのです。

なので稲尾は,長嶋茂雄のオールスターでの初打席のことを全然覚えてないと語るのです。

それくらい,ノムさんの「月見草の眼」は存在感を見せていたのです。


そんなノムさんは,あらゆる手でプロ野球界を生きていきます。

相手投手の癖だけでなく,データつまり傾向を打席や配球で活かし始めます。

そして相手打者と戦ううえで使ったのが,有名な「ささやき戦術」です。

相手打者が打席に立つとき,そっと何かをつぶやくことで,相手打者の集中力を下げる手です。

ささやくのは「バットが高いぞ」とか,「あれ?手がいつもと違うな」ということもありました。

もしくは,相手のプライベートにかかわることをささやいて,ドキッとさせていたこともありました。

「余計なことを言わないでください」と言っても,ノムさんは「いや,独り言だけど」とか言ってごまかします。

ここでも,パリーグの他の選手はノムさんを警戒していたのです。


現在,「喝」芸で日曜の朝の定番となっている張本勲も,打席でノムさんと戦っていた一人です。

張本にとっても,相手投手ではなくノムさんと戦っていました。

そんな張本は,ノムさんのささやきに対して報復をしたことがあるとのことです。

空振りをする流れで,ノムさんの頭にバットをぶつけたとのことです。

これが本当かどうかは,当人同士くらいしか分からないかと思います。

ノムさんの著書によると,張本に対してささやきをやめたのは報復ではないそうです。

張本に対してささやくと,張本は神経質ということもあり何度も打席を外していたのです。

そのこともあり,ノムさんは張本に対してささやきをやめたと語っています。

いずれにしても,張本にとっても「捕手・野村」は脅威であったということだと思います。


このささやき戦術に対しては,王や長嶋に対しては効果がなかったというのは,以前に語った通りです。

他にも効果がなかったのは,大杉勝男と榎本喜八です。

大杉は東映や日ハム,ヤクルトで通算486本塁打放った名打者です。

もち名球会です(亡くなっているので名誉会員となっています)。

そんな大杉はノムさんにささやかれると,「うるさい!」と一喝したとのことです。

それで「先輩に対して『うるさい!』とは何ぞや」と,一触即発になったとかなってないとか・・・

いずれにしても,大杉もノムさんのささやきを気にしていたということです。

一方,榎本は大毎やロッテ,西鉄で活躍した「安打製造機」と言われた選手です。

通算2314安打を放った偉大な打者です(名球会については何のリアクションもしてないので退会扱いになっています)。

榎本はすさまじい選球眼があり,独特のオーラでささやく余地がなかったとのことです。

ノムさんも著書で,榎本の攻略には苦労したと語っています。


ノムさんとの戦いは,打撃だけでなく走塁でも繰り広げられていました。

急の1番打者である福本豊は,盗塁で相手に脅威を与えていきます。

福本攻略でノムさんが編み出したのが,今では当たり前となっている「クイック投法」です。

ランナーがいるときに投手は大きく振りかぶらず,すぐに投げるようにする動作です。

当時ノムさんはプレーイングマネージャー(選手兼監督)になっていた年齢で,肩に衰えが見えてきた時期でもありました。

そうしたこともあり,南海投手陣にランナーが出たときはクイックで投げるよう指示したのです。

これには福本も対策を考える契機になったのです。

ノムさん以前に三原脩が提唱はしていたものの,球界に定着させたのはノムさんと言われています。

ノムさんの工夫が,球界を変えたところもあるのです。

「一流が一流を育てる」というのは,福本との戦いでも示されていると思います。


選手兼監督になってからは,ヘッドコーチのドン・ブレイザーと共に「頭を使う野球」をチームに定着させていきます。

このブレイザーこそ,日本に頭を使う野球を教えたと言ってもいいと思います。

ミーティングでブレイザーが語ることは,今の球界では当たり前となっています。

その中でノムさんは,「南海の三悪人」と出会います。

江本孟紀,江夏豊,門田博光です。

江本は1年目で移籍してノムさんに,「俺が受けたらお前は2桁勝てる。お前はもうエースだから,これを着けろ」と背番号「16」を渡します。

江本はこれに衝撃を受けて,本当にエースとなったのです。

1973年に南海が優勝した時の胴上げ投手も江本でした。

しかし江本は自尊心が強く,長髪を切るにしても言うことを聞かなかったのです。

理路整然と説明したことで,ようやくしぶしぶ切ったとのことです。

門田は小さい体で長打力を磨いたこともあり,頑固な性格でした。

毎回本塁打狙いのバッティングをして,ノムさんが「コンパクトに振れ」と言っても聞きませんでした。

日本で最も本塁打を打っている王のところへ連れて行ったことがあります。

そこで毎打席本塁打を狙っているのか聞いてみますと,王は「違う」と回答します。

これに対して門田は,「ノムさんは,王さんと口裏を合わせている」というのです。

これにはもうお手上げとなりましたが,ノムさんは発想を変えます。

要するに門田は天の邪鬼なのです。

右と言えば左,左と言えば右を向く性格なのです。

なのでノムさんは,門田に対してコンパクトに振ってほしいときは「もっと振り回さんかい」と逆のことを言いました。

すると門田はコンパクトに振るようになったとのことです。


ノムさんが一番手を焼いたのが江夏と言います。

江夏は1975年オフにトレードを打診されますが,「阪神を出るくらいなら,俺は野球をやめる」とまで言います。

そこでノムさんは江夏と話をして,南海に来てもらおうと考えました。

ただし,自尊心の強い江夏に対して「南海に来い」はダメだと考えていました。

そこで江夏と会ってノムさんは,「お前,あの時わざと外しただろ」と言います。

江夏は「えっ,何故分かったのですか」と返し,そこから野球談議が始まります。

そして最後にノムさんは,「一回お前とバッテリーを組んでみたい。江夏が投げて,野村が捕る。これは芸術になるぞ」と言いました。

江夏のトレードが発表されたのは,それから間もなくです(ちなみにこの時阪神に放出された1人が,前述の江本なのです)。

南海に来た江夏ですが,血行障害もあり先発はできなくなりました。

リリーフ転向を打診しますが,「阪神を放出された上に,さらに俺に恥をかかせるのか!?」と聞きません。

そこでノムさんは江夏を調べると,新撰組が好きとのことです。

そこで江夏に対して,「これからは先発,中継ぎ,抑えと分業制の時代が来る」と言います。

その上で,『お前リリーフの分野で「革命」を起こしてみろ』と言いました。

この言葉に江夏は納得し,抑えを務めることになります。

その後の江夏の活躍は,改めて言うことではないと思います。

カープと日ハムで優勝に貢献し,リリーフで初めてMVPを獲得したのも江夏です。

本当に江夏は,リリーフの分野で「革命」を起こしたのです。


こうして「南海の三悪人」と言われた人たちと関わったことで,ノムさんなりの人心掌握術が身についたのです。

その後も監督で様々な選手と関わっていきますが,どこでも成果を出せたのはこの経験があったのです。

だからこそ,「野村再生工場」という選手の再生もできるようになったのです。


1977年オフに,ノムさんは南海を解任されます。

この時に,今まですべての野球に関するものを燃やしたとのことです。

再婚したサッチーが所有する東京のマンションに引っ越すことにします。

幼い克則を乗せた車で,ノムさんは「これからどう生きれば」とつぶやきます。

ノムさんは処世術が下手で,東京に当てもないのです。

その中でサッチーは「大丈夫,何とかなるわよ」と言います。

ノムさんは「そうだよな。命まで取られたわけでもないし」と思ったのです。

このサッチーの言葉に,ノムさんは救われたと語っています。


78年からノムさんはロッテで一捕手としてプレーします。

79年からは,誕生したての西武でプレーします。

その入れ違いでロッテに入団したのが,落合博満なのです。

落合が入団した当時,ノムさんはもう大打者でした。

落合が初めてノムさんと話したのは,打席に立つときでした。

落合が挨拶をすると,ノムさんは「お前が落合か。よく話は聞いてるぞ。頑張れ」と言ったのです。

このエピソードを語ったのは,つい最近のTV番組です。

そこで初めて落合は,ノムさんの訃報について語りました。

その後,落合が三冠王を三度も成し遂げることは,ノムさんは予想していたのでしょうか?

野球談議でお互いに濃密な話をしていたとのことです。

ノムさんと落合でどのような話をしていたのか,全てを知りたくなるものです。


1980年にノムさんは,27年の現役生活に別れを告げました。

27年間ずっとパリーグに所属して,様々なレジェンドと戦ってきました。

私としては,次々とメジャーに行くことに対しては反対意見ではありません。

ただ,ノムさんが語る「一流が一流を育てる」というのは納得できます。

だからこそノムさんは,「ライバルはいた方がいい」という持論もあるのです。

様々な投手,様々な打者,様々なチームメイトとノムさんは戦っていました。

自身の天性だけでは戦えないと自覚したからこそ,努力と工夫で足りない分を埋めたのです。

その工夫は,今では球界の常識となるまでになったものもあるのです。

改めて,球界に残り続けるものを遺したのではないかと,ノムさんに対して思うものです。



ということで,ここまでノムさんの現役時代に関わったレジェンドについて書いてみました。

次の機会には,監督時代に関わったレジェンドについて書いてみたいと思います。

それでは,またよろしくお願い致します。



ご意見ございましたら,是非当ブログでもツイッターでもコメントお待ちしております。

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それでは,またのお越しをお待ちしております。


皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

不滅の400勝投手金田正一,逝く

国鉄スワローズと読売ジャイアンツで活躍して,史上唯一の400勝を挙げました。

そして,1974年にロッテオリオンズを監督として優勝・日本一に導きました。

そうした実績を残した,偉大な左腕投手・金田正一。


その金田が,本日亡くなったとのニュースが入りました。

86歳でした。


金田は1950年に享栄商業を中退して,国鉄スワローズに入団しました。

翌年には233奪三振を挙げて,2年目で最多奪三振となりました。

そこから通算10度の最多奪三振,3度の最多勝と最優秀防御率に輝きました。

57年8月21日の中日戦では,完全試合を達成しました。

58年の開幕戦は,大物ルーキーの長嶋茂雄を4打席4連続三振とプロの洗礼を浴びせました。

56から58年の3年連続沢村賞と,投手タイトルを総なめする大投手となりました。

65年からは巨人でプレーし,この年から始まったV9に貢献しました。

国鉄では味わえなかった優勝を,5年間味わうことができたのです。

69年の最後の試合で,日本プロ野球史上初となる通算400勝を達成しました。

それを置き土産に,同年引退しました。


引退後はロッテで2度監督を務め,第一次政権の74年には優勝・日本一に導きました。

78年には自ら名球会を発足し,初代会長を務めました(後に退会)。

監督退任後も,素直な表現で野球界に物申す姿を見せていました。


通算400勝,4490奪三振,55262/3投球回数,365完投,298敗,1880与四球は歴代トップです。

通算防御率2.34,82完封,39無四球試合,944試合登板とどれをとっても偉大な数字です。

投手だけでなく打撃力もあり,投手として通算36本塁打は史上最高です。

投手として8敬遠も,プロ野球史上最高です。

今の大谷翔平の二刀流は,金田ならできたということなのかもしれません。

14年連続20勝も,もはや不滅の大記録と言っていいかと思います。


V9の川上哲治は,当時の巨人軍の中で一番練習量が多かったと言います。

「練習の鬼」と言われていたONですが,金田の練習量はそれ以上とのことです。

金田の姿勢で,巨人はV9へ進んでいった側面があるのです。

詳しくは「監督のバックボーン 川上哲治編」をクリックしてご覧ください。


ピンポン玉のようにポップする豪速球と,その半分のスピードであるカーブを武器に打者をきりきり舞いさせていました。

「監督を監督する」と言われるくらい,自分が先発しなくとも自らマウンドに行って勝ちをつかんでいました。

ワンマンな選手ですが,それで結果を出していたのです。

当時の国鉄は,金田の成績で順位が決まっていたといっていいのです。


猛練習だけでなく,食事においても当時としては先を行っていたのです。

当時は高価だったミネラルウォーターを飲み,たくさんの栄養価の高いものを食べていました。

当時はまだ珍しかったオートミールにも手を出していたのです。

そうした姿勢が,ONをさらに大きな選手にしていたのかもしれません。


私は「昭和のベストナイン」を考えたとき,先発投手で本格派として金田を挙げていました。

すべてにおいて,記録が偉大だからです。

その時の投稿は,「私の昭和のベストナイン」をクリックしてご覧ください。


背番号「34」は巨人の永久欠番であり,現在も左腕が着けることが多いです。

そうしたことでも,金田の偉大さが今も球界に残っているということなのです。


しかし,これでまた昭和を彩ったスターが世を去ったことになるのですね。

令和に入った今,どんどんと「昭和」というのが色あせていくものですね。

長嶋茂雄,王貞治,野村克也,張本勲など昭和を盛り上げた野球人はまだいます。

共に戦ったON,昭和でともに生きたノムさんや張本は何を思っているのでしょうか?

そして,あの世にいる稲尾和久などと楽しく話をしているのかもしれません。


「金のために野球をやっている」と公言してはばかりませんでした。

もしも当時メジャーに行くことができていたら,真っ先に行っていたのかもしれません。

一体,どれだけの金を稼いでいたのでしょうか…


へばるということを知らないくらいのタフネス左腕でした。

ダブルヘッダーが当たり前の当時,1日2勝はざらにあったとのことです。

第1試合で完投すれば,第2試合でリリーフして2勝するような感じです。

真似はできないと思いますが,それだけのタフネスだったからこそ400勝できたのです。

引退した時,金田の左肘は曲がったままでした。


訃報を知った時,私は一瞬何にかが止まった感じがしました。

偉大な野球人を知ったからこそ,このような感情になったのかもしれません。

投げている姿をこの目で見たことはないですが,数字で本当に偉大だということは痛いほど分かります。

令和に入っても,決して忘れてはならない偉大な野球人というのは間違いないと思います。


こうして,段々と昭和が逝ってしまうのですね…

合掌
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