求究道(ぐきゅうどう)のプロ野球講義

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日本人のホームランの概念を変えた「青バット」:大下弘

今年は日本プロ野球誕生90周年というアニバーサリーです。

1934年に大日本東京野球倶楽部が発足し,ベーブ・ルースたちMLB代表と試合しました。

そこから職業野球の気運が高まり,36年から日本職業野球連盟としてリーグ戦が始まったのです。

そこから現在に至って,プロ野球は日本中で愛されるスポーツになっているのです。


ということで,当ブログでも不定期で歴史について書いてみようと試みます。

不定期なので,どれくらいの頻度になるのかは私にも分かりません。


一昨年に,村上宗隆の記録にちなんで,レジェンド小鶴誠についた書いたことがあります。

このような感じで書いてみようかなと思っています。

この90年の歴史を築いてきたレジェンドを,より多くの方に知ってもらいたいなと思っています。


今回書くのは,「青バット」と呼ばれた大下弘です。

それでは,最後までよろしくお願い致します。


ここに2本のバットがあります。
DSC_0041

東京ドーム内にある野球体育博物館(現.野球殿堂博物館)を,かつて私が訪問した時に撮影したものです。

赤いバットと青いバットがあります。

この2本を使った2人の選手が,しのぎを削り合っていた時があったのです。


「赤バット」と呼ばれた読売ジャイアンツの川上哲治。

正確無比のバッティングコントロールで,弾丸ライナーを飛ばしていました。

そして,「青バット」と呼ばれた東急フライヤーズの大下弘。

天性の遠くへ飛ばす打球技術で,子供たちに夢を与えていました。

戦後間もないプロ野球は,この2人によって盛り上がり,築き上げたと言っていいと思うのです。


大下弘は,1922年12月15日に兵庫県神戸市で生まれました。

小学校,高等小学校と進学し,36年に台湾・高雄市に移住します。

ちょうど日本本国で,職業野球のリーグ戦が始まった年です。

41年12月に明治大学に進学するものの,徐々に足音が聞こえてきます。

そう,12月8日に真珠湾を攻撃したことで,太平洋戦争が始まったのです。

大下が進学したのは,学生の徴兵猶予の特権のためとも言われています。

しかし43年に大学のリーグ戦が中止になり,12月に学徒出陣を言い渡されます。

大下は航空隊を志願し,45年8月15日に終戦を迎えるのです。

大下は大学に復帰し,再びバットを持ち始めます。

あまりにも打球をポンポンと飛ばすことから,「ポンちゃん」というあだ名がついたのです。

大下の打球を飛ばす天性は,この頃から開花していたのです。


10月に大下は,明大の先輩である横沢三郎からプロ入りの勧誘を受けます。

戦後まもなく誕生した新球団・セネタース(現.北海道日本ハムファイターズ)に入団を決めます。

11月に職業野球東西対抗戦で大下は出場します。

この時,戦前の職業野球とは光景がまるっきり変わっているのです。

戦前は大学野球の方が盛んで,職業野球は玄人にしか好まれてなかったのです。

また,当時は野球を遊びだと思う傾向が強く,職業野球は「ろくな奴が行くところではない」と思われていたのです。

給料こそ一般職よりも高いものの,そのような価値観でプロ入りに反対する選手の親などもいたのです。

現に川上哲治も親にそう言われ,「兵役に入るまで」という条件で38年に巨人入りしたのです。

話を戻しますけど,戦後間もない頃になると子供が多く来るようになったのです。

戦後まもなく荒廃しきった日本,誰もが希望を求めていたのかもしれません。

そんな中で,大下は戦後初となる柵越えホームランを放ったのです。

それまでのホームランといえば,低いライナーで飛んだ球の延長線上のものか,ランニングホームランが相場でした。

対して大下の打球は,高い弾道から飛ばす虹のようなホームランなのです。

その打球が描くアーチは,戦後間もない人々に夢や希望を与えるものになったのです。

この瞬間から,日本人のホームランの概念が変わっていったのかもしれないのです。


46年にリーグ戦が再開され,大下のプロ1年目が始まります。

この時,大下23歳。

大下の虹のようなホームランに,多くの日本人は魅了されます。

それは子供や女性をも魅了し,大下は人気選手になっていくのです。

この年104試合出場し,打率.281,20本塁打,74打点,16盗塁を記録しました。

戦前のホームラン記録は,1938年秋の中島治康(巨人:この年,プロ野球史上初の三冠王)と39年の鶴岡一人(南海軍:現.福岡ソフトバンクホークス)の10本が最高でした。

それを戦後間もない新人がいきなりホームラン数を倍にしただけに,大下はプロ野球界に大きな衝撃を与えたのです。

本塁打2位の飯島滋弥も12本と記録更新していたものの,大下はそれすらも超えて圧勝のホームラン王だったのです。

いきなりホームランの最高記録が倍になったら,誰だって大きな衝撃を受けるはずです。

そうイメージすると,大下がとんでもない選手ということが想像しやすいかと思います。


そして大下はやがて,バットの色を青にします。

これはバットの色を赤にしていた川上哲治に対抗したものです。

並木路子の『リンゴの唄』の歌詞にある「赤いリンゴに(中略)青い空」をヒントにしたそうです。

一応参考に,『リンゴの唄』をYouTubeから引っ張ってきます(2024年2月19日アクセス)。

当時は歌も人々に希望を与えており,小さな歌声で魅了していたのが美空ひばりなのです。

そうして希望を与えるものとしてダブったから,赤バットと青バットが誕生したのかもしれません。

赤バットから放たれる弾丸ライナーと,青バットから放たれる虹のようなホームラン

戦後間もないプロ野球,誰もが2人に夢中になっていたと思います。

哲治と大下,共に雑誌の表紙やめんこになったくらいです。

いかに子供たちに夢を与え,愛される選手になったかが分かるかと思います。


47年,この年は大下と哲治で激しい首位打者争いが繰り広げられたのです。

序盤,哲治は高打率を残すのに対し,大下はホームランを狙うあまり凡打が多くなるのです。

大下の打ち方は,MLBの伝説であるベーブ・ルースやルー・ゲーリッグと似ているのです。

構えて一度前へ大きく倒してから,後ろへ大きく持って行ってスイングするスタイル。

そのため,打球がバーンと大きく飛んでいくのです。

ただ,この打ち方はテイクバックからインパクトの間までに時間が掛かり,粗いバッティングになってしまうのです。

その弱点を突かれたため,大下の打率は高くなかったのです。

そこで大下は流し打ちを心がけるようになり,打率が上がってきたのです。

哲治と打率でデッドヒートを繰り広げたのです。

ところが,大下が作り上げた風潮によって,今度は哲治がスランプになったのです。

大下が大きな打球を飛ばすことで,周囲はホームランを期待するようになったのです。

哲治は40年に本塁打王になったことがあるものの,その数は9本でした(ちなみに,46年に10本塁打を放っています)。

大下の20本と比べると,まさに天と地ほどの差があるのです。

その周囲の「ホームラン,ホームラン」という声から,「これからはホームランを打たなければプロではない」という雰囲気になってきたのです。

その期待に応えようとするあまり,哲治の正確無比な打撃が狂ってきたのです。

最終的に哲治は,打率.309(3位),6本塁打,57打点でした。

一方大下は,打率.315,17本塁打,63打点と,全てで哲治を上回ったのです。

首位打者と本塁打王の二冠に輝いたのです(ちなみに打点王は,阪神の藤村富美男で71)。

そう,大下のホームランによって,世の中のホームランに対する認識,価値観が変わってきたのです。

大下は2年連続の本塁打王に輝き,その期待に応えたのです。


巨人,西鉄ライオンズ(現.埼玉西武ライオンズ),大洋ホエールズ(現.横浜DeNAベイスターズ)を優勝に導いた,名将・三原脩は生前語りました。

”日本の野球の打撃人を5人あげるとすると,川上,大下,中西,長嶋,王

 3人に絞るとすれば,大下,中西,長嶋

 そして,たった1人選ぶとすると,大下弘”


中西とは「怪童」と呼ばれる天才打者・中西太,長嶋茂雄と王貞治は説明不要ですね。

3チームを優勝に導いた名将が,大下をこうしたレジェンドよりも選ばれる打撃人と見ていたのです。

大下がいかに優れているのか,「天才」と言われるのかが分かる言葉だと思います。


ただ,「天才」と思われる大下ですけど,それは天性だけのものではありません。

確かに人気者になってからの大下は,多くの女性と豪遊するようになったと聞きます。

一方で,後に西鉄でチームメイトになる稲尾和久は,生前語りました。

大下はある日,トレパン一丁でバット一本持って外に出ます。

そして帰ってくると,汗ぐっしょりになっていたのです。

そう,汗まみれになるくらいバットを振ってから帰ってきたのです。

練習嫌いと言われた大下ですけど,単なる「天才」ではないのです。

実際,48年は練習不足で不振になっていたと言われています。


大下の登場によって,その後のプロ野球が変わってきます。

大下と哲治という戦後間もないスターによって,プロ野球は子供や女性をも魅了するようになるのです。

同時に,世間はホームランを求めるようになってきます。

やがて様々な打者が柵越えホームランに果敢に挑むようになり,記録が塗り替わっていきます。

48年に哲治と青田昇(巨人)が25本塁打を放ち,大下の記録を更新して本塁打王になります。

ところがその記録は翌年,藤村が46本塁打を放って大きく更新されたのです。

大下が20本塁打と記録を大きく更新してから間もなく,ついにその倍以上にまで到達したのです。

49年は藤村以外にも,別当薫(阪神)の39本,大下の38本,西沢道夫(中日)の37本と,30本塁打越えが4人もいたのです。

そして2リーグになった50年,セ・リーグ本塁打王の小鶴誠(松竹ロビンス)が51本塁打に到達したのです。

まさに,大下から「日本人のホームランの概念」が変わっていったのです。

周囲のホームランを求める声に変わり,やがて選手も柵越えホームランの量産を狙いに行き,記録を更新してもそれ以上のホームランを求める。

そして,それを見た子供たちもホームランに憧れるようになったのです。

大下の戦後間もない虹のようなアーチがなければ,世はホームラン野球になってなかったのかもしれないのです。


人々が大下に魅了したのも,戦後間もないタイミングだったからだと思います。

敗戦で焼け野原になり,多くの人が絶望的な気持ちになっていたと想像します。

その中で様々な娯楽が復活し,プロ野球もその1つでした。

人々は再び見られる娯楽に,生きる希望を求めていたのかもしれません。

そんな時に希望の象徴ともいえる「虹」のような打球を,大下が見せたのです。

こうしたことが重なった奇跡を,大下が生み出したのではないかと私は思うのです。


後に大下と西鉄でチームメイトになる豊田泰光が,生前に語ったものがあります。

豊田が語るには,「長嶋によって,プロ野球が初めて”カラー”になった」とのことです。

打っても走っても守っても,絵になって人々を魅了していたのが長嶋です。

その土体となる「白黒」を作ったのが,哲治と大下だと私は思うのです。

戦後間もない2人のスターが,子供や女性のプロ野球人気を上げました。

そうして戦前より人々がプロ野球に目が行くようになったという土台がある。

そこに,長嶋がどんなプレーでも映える野球を見せます。

長嶋に魅了するようになったのは,その前に哲治と大下が築いた「土台」があったからだと思うのです。

哲治と大下が白黒テレビを作り,長嶋がカラーにしたということでしょうか。

哲治と大下は,こうした点でプロ野球史に欠かすことのできないレジェンドなのです。


それでは,川上哲治と合わせて,その後の大下を語って締めることにします。

その後哲治は,アベレージヒッターとして巨人の中心打者を務め続けます。

1956年には,プロ野球史上初の通算2000本安打を達成します(大正生まれのため,名球会には未加入)。

「ボールが止まって見える」という言葉を残し,「打撃の神様」と呼ばれるようになったのです。

そして58年に現役を引退したのです。


大下はその後,49年に38本塁打,102打点と自己記録を更新します。

50年に打率.339で2度目の首位打者に輝き,別当の三冠王を阻止したのです。

51年は89試合で26本塁打,打率.383で3度目の本塁打王と首位打者に輝くのです。

この時の長打率は.704で,OPSは何と1.169というとんでもない数字なのです。

打率も2位に圧倒的な差をつけて,70年に張本勲が3毛差で抜くまで日本記録だったのです。

52年から西鉄でプレーし,54年の優勝,56年から58年の優勝・日本一3連覇に貢献します。

59年,打率.303を残しながら現役を引退します(規定打席には未到達)。

通算成績は,打率.303,1667安打,201本塁打,861打点,146盗塁でした。

引退後は評論家などを経て,61年に阪急ブレーブス(現.オリックス・バファローズ)で打撃コーチを1年務めます。

68年には古巣・東映フライヤーズの監督になるものの,シーズン途中で辞任します。

74年から75年に大洋でコーチを務め,その後は少年野球や女子野球のチーム監督を務めたのです。

1979年5月23日,56歳で亡くなりました。

美空ひばり,笠置シズ子,川上哲治と共に,戦後復興のシンボルとなったスーパースターの死は,大きく取り上げられたのです。

翌80年,小鶴や千葉茂と共に野球殿堂入りを果たしたのです。


戦後間もない頃,人々の心は荒んでいました。

そんな中で大下が描く虹のようなホームランが,人々に希望を与えました。

それはプロ野球界を変えることにつながり,ホームランの時代を切り開いたのです。

大下の20本塁打が戦前の記録なら,もしかしたら日本のプロ野球は大きく違っていたのかもしれません。

そう考えますと,時代が大下を必要としていたと言えそうなのです。


そんな大下が引退後に語った言葉で締めます。

”私は野球には天才も名人もいないと思っています。

 天才とかなんとかは周りが言うことであって,実際は存在しませんよ。

 私だって凡才です。

 ONといえども凡人の中の非凡の程度じゃありませんか”


「天才」とは何か,いや「天才」なんていないということを示した言葉だと思うのです。



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独立リーグからタイトルホルダーに 角中勝也

今回も『「黄金世代」の1つ上で』シリーズを書きたいと思います。

第10弾は,独立リーグから首位打者までになった角中勝也です。

それでは,よろしくお願い致します。



現在,日本には野球の独立リーグで4つの組織があります

四国4県が中心の「四国アイランドリーグplus」

北信越が中心の「ベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)」

関西で構成される「関西独立リーグ」

女子プロ野球選手が所属する「日本女子プロ野球機構」

この4つが存在しています。


この中で,NPB入りが多いのが四国とBCリーグです。

ここには大学や社会人からNPB入りを目指す選手や,NPBで戦力外になりもう一度復帰しようと汗を流す選手がいます。

NPBよりも少ない年俸で,希望に向かって戦っています。

そこからNPB入りして活躍する選手もいるのです。

独立リーグが創設されてから,ドリームをつかむ選手も確かにいるのです。


この年代には,独立リーグからタイトルホルダーにまでなった選手がいます

千葉ロッテマリーンズ,角中勝也です。

チームをけん引するシュアなバッティング。

難しそうな球でもヒットにできるバッティングは,投手を困惑させます。

「独立リーグ初」ということを成し遂げ,独立リーグ希望の星となっていると思います。


角中は日本航空第二高校(現:日本航空高校石川)で甲子園出場はなりませんでした。

高校を出てからは,大学でも社会人でもなく,2005年に創立したての独立リーグに入団しました。

06年から高知ファイティングドッグスでプレーしました。

一体,角中は何故まだ海のものとも山のものとも知らない独立リーグへ進んだのでしょうか?

角中はこのように語っています。


”高校卒業後は社会人野球に進もうと考えていたのですが、3年夏の県予選で早めに敗退したことで社会人入りの話は立ち消えになってしまったんです。じゃあ、どうしようか……となった時に監督さんから勧められたのがアイランドリーグでした”


角中は,独立リーグに救われたのです。

独立リーグがそのころにできたから,飛び込めたのです。

これが角中の野球人生を左右したと思います。

高卒1年目から開幕1番に座り,やがてクリーンアップも打つようになりました。

打率.253,4本塁打,28打点を記録しました。

NPBのスカウトの目に留まり,独立リーグからのNPB入りも現実的になってきたのです。

2006年大学生・社会人ドラフト7位で,千葉ロッテマリーンズに入団しました。

角中は,独立リーグという過酷な環境から這い上がったのです。

大学や社会人を経ず,高卒1年でプロ入りしたのです。


1年目から9試合に出場し,4安打を放つ成績を見せました。

ファームでの打率.335はリーグ2位という素質の高さを見せていました。

周囲からは,シュアな中距離ヒッターということで福浦和也のような存在になれるといわれました(独立リーグでの背番号は,福浦と同様で「9」)。

2年目にはプロ初ホームランが飛び出しましたが,10試合の出場に終わりました。

そこから10,13試合にとどまり,2010年は1安打も放てませんでした。

この年はチームが日本一になったものの,角中は歓喜の輪の中には入れませんでした。

角中はこの時,プロの難しさを感じていたと思います。

11年はイースタンリーグで出塁率.423でリーグトップとなりました。

一軍では1試合に5安打を放つこともあり,外野やDHでの出場が増えてきました。

打順も3番や5番を打つこともあり,51試合の出場で打率.266の成績を残しました。

この時の角中は,「タイミングのコツをつかんできた」とのことです。


それが12年に大きく開花したのです。

角中はレギュラーに定着し,13試合連続は「角中が打点を挙げた試合は勝利」ということになりました。

交流戦で首位打者にもなり,独立リーグ出身初のオールスター出場にもなりました。

後半は調子を落とす時もありましたが,終盤に盛り返しました。

結局,中島裕之(現:宏之)との首位打者争いを制し,打率.312でタイトルとなったのです。

石川県出身の首位打者は01年の松井秀喜以来で,独立リーグ出身初の規定打席達成と首位打者とベストナインになったのです。

オフに年俸の大幅アップを勝ち取ると,結婚も発表しました。

さらには,第3回WBCの代表候補にもなったのです。

まさに角中はこの年,「独立リーグにとっての希望の星」となったと思います。

「独立リーグ出身初」で,ここまでのことを成し遂げました。

その注目は,日本代表入りかというところまでになったのです。


注目の中迎えた13年,角中は本当に日本代表入りを果たしました。

野手でも独立リーグから日本代表になれる」ということを証明したのです。

シーズンでは主力として試合出場を続けました。

打率は.288だったものの,5本塁打は前年より向上しました。

盗塁2桁も,この年が初めてのことです。

14年は打率.277の中で,8本塁打を放ちました。

長打力については,徐々に進化していったのです。

15年は前半は3番,オールスター出場以降は2番を主に打ちました。

故障が長引いたこともあり111試合出場でしたが,打率は.293と盛り返しを見せました。

16年は,その盛り返しをさらなるところまで高めたのです。

アルフレド・デスパイネの故障もあり,4番を務めることもありました。

3度目のオールスター出場を果たし,打率.339,178安打を記録しました。

自身2度目の首位打者となり,自身初の最多安打にも輝きました

自身初の全試合出場も果たし,打率は2位と2分5厘以上の差をつけたのです(2位は西川遥輝)。

オフには独立リーグ出身初の1億円プレーヤーとなり,背番号もサブローの後を継いで「3」に変更しました

17年は故障の影響もあり110試合出場にとどまり,打率は.269でした。

昨季はまたしても故障に泣き,打率はレギュラー定着から最低の.265に終わりました。

今季は,独立リーグ出身初の1000本安打を達成しました。

それでも,またしても故障に泣いて,最近復帰したばかりです。

ここから盛り返しを見せれるでしょうか?


角中はこれまで,様々な「独立リーグ初」の記録を作ってきました

首位打者,オールスター出場,規定打席達成,日本代表,1億円プレーヤーなど。

この年代では,T-岡田に次いでタイトルホルダーとなったのです。

ここから,安打製造機の道を歩んだかのように思います。

しかし,打率3割を超えたのは,首位打者を獲得した2度のみです。

ホームラン2桁は一度もなく,盗塁2桁は2度,打点の最高は16年の69です。

一言でいうと,「中途半端なレギュラー」ということになるのです。

タイトルホルダーから生きる道を見つけたかと思いきや,それにふさわしい成績を残してないのです。

首位打者を2回獲得するのなら,やはりコンスタントに3割打者として成績を残すべきかと思います。


さらに,ここ最近は外野では荻野貴司,清田育宏,岡大海など一芸に秀でた選手が頭角を見せています。

打撃面でもブライアン・レアード,中村奨吾,井上晴哉などが頭角を現してきました。

若い選手でも平沢大河,安田尚憲,藤原恭大と有望選手が入っています。

なおさら,角中の中途半端が目立っているような気がします

3割をコンスタントに打っていた福浦と比べると,やはり「一芸」に弱い感じがあります

今年で32歳で1000本安打を達成しましたが,果たして2000本はいけるのでしょうか?


今の角中は,「これからはどうすればレギュラーで居続けれるのか」を確立していくべきかなと思います。

自分の最大の持ち味は何で,それにふさわしい成績を残すには何が必要なのか?

この成績のままでは,打撃で頭角を現してくる若い選手に負けてくると思います。

角中に,その自覚はあるのでしょうか?


この年代でタイトルホルダーになったことあるのは,T,角中,川端慎吾,レアードです。

大和や銀次は,ベストナイン,ゴールデングラブ賞を取ったこともあります。

今のところ角中は,間違いなくこの年代のベストナインに入ってもいいと思います。

松井に次いで,石川県のヒーローになっているのかもしれません。

そのヒーローが,再び3割打者に返り咲くことができるのでしょうか?

ロッテのレギュラーとして,首位打者として,石川県のヒーローとして・・・

そして,独立リーグの星として,角中の完全復活を待っていると思います。

見せてほしいです,独立リーグの底力を。



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それでは,またのお越しをお待ちしております。


皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

(参考文献)
『二宮清純 レポート 千葉ロッテマリーンズ角中勝也 大事な場面で結果を出す この男は何を「持っている」のか』https://gendai.ismedia.jp/articles/-/35051,2019年7月6日アクセス。

ツバメを勝利に導けるか 川端慎吾

今日は試合がありません。

ということで,今回もある選手についての私の思いなどを書いてみたいと思います。

以前に青木宣親について書きましたが,今回は誰でしょうか?

それでは,お付き合いよろしくお願い致します。


今,スワローズでは主力が悉く抜けています。

登録抹消とまでいかなくとも,スタメンが厳しい主力もいます。

この非常事態に,以前故障で1試合も出れなかった彼は何を思っているのでしょうか?

この状況で,自分ができることを何だと思っているのでしょうか?


東京ヤクルトスワローズ,背番号「5」川端慎吾です。


”バットに夢を乗せ 放つその打球で

 ツバメを勝利へ 導け慎吾”



このように応援されている,アベレージヒッターです。

首位打者も獲得したことあるシュアな打撃

追い込まれても徹底的に粘る,相手に与えるしつこさ

サードもファーストもこなす守備

そのような武器を駆使して,チームに貢献しています。


2011年はあと一歩という苦汁を味わい,15年は主力として歓喜の時を味わいました。

酸いも甘いも経験した選手は,段々と少なくなっていきます。

その両方も経験したから,現状の景色も違って見えるのかもしれません。

果たして,今慎吾が見ている景色はどのようなものなのでしょうか?


応援歌の通り,ツバメを勝利に導けるのでしょうか?



慎吾は和歌山商業高校から2005年高校生ドラフト3位でヤクルトに入団しました。

同期で同世代には,後に共に主力となる村中恭平が1位で入団しました。

背番号「36」は,ショートで「ミスター・スワローズ」といわれた池山隆寛が入団したときの番号です。

高卒でショートという共通点もあり,出世番号として期待の高さを示していたのです。


1年目から二軍で79試合出場し,一軍でも6試合出場しました。

ドラフトを経て高卒1年目が一軍出場したのは,1987年に出場した土橋勝征以来のことなのです。

2試合目でマルチヒットと初打点を記録し,早くもお立ち台に立ったのです。

土橋も池山も成し得なかった,高卒1年目で初安打・初お立ち台を経験したのです。

そこから徐々に一軍試合出場を増やし,08年にはプロ初本塁打も出ました。

しかし,度重なる故障に悩まされ,一軍と二軍を行き来することが続きました。

プロ1年目で初ヒットとお立ち台,度重なる故障。

まるで,これからの野球人生が,よくも悪くもこの時から決まっていたみたいな感じに見えます。


そんな慎吾が奮起してきたのは,2010年のことです。

この時期,慎吾の周辺でいろいろなことが起こりました。

2009年ドラフトで,自分と同世代の大卒選手が入団したのです。

その中で,慎吾が意識せざるを得ない選手もいます。

近畿大学から3位で入団した荒木貴裕です。

同世代で同じショート,キャプテンシーが評価され「宮本慎也2世」とまで呼ばれました。

これからつかもうとしているところに,強力な同世代ライバルが入ってきたのです。


そして,2009年のドラフトはここだけではなかったのです。

この年に発足した日本女子プロ野球機構(GPBL:現JWBL)でも,第1回ドラフト会議が行われたのです。

その中で注目されたのは,京都アストドリームス(現:京都フローラ)の内野手部門で1位指名された選手です。

兄と同じ高校,社会人のソフトボールで活躍した川端友紀です。

兄と同じショートで,1年目に首位打者となりました。

日本史上初の兄妹プロ野球選手が誕生したのです。

もしかしたら,慎吾も妹に触発されたところがあるのかもしれません。


これだけではなく,最大のライバルも立ちはだかったのです。

FAで阪神から藤本敦士が入団したのです。

2003年と05年に阪神の優勝に貢献した,最大のショートの主力候補です。


こうしたことが起こったので,さすがの慎吾も奮起しなければならなかったはずです。

頭角を現してきた鬼崎裕司とともに,荒木,藤本でショートの争いが始まったのです。

10年の開幕スタメンのショートは,ルーキーの荒木でした。

後に藤本が主力となりましたが,不調で守備のいい鬼崎が試合に出るようになりました。

しかし,運命はどう転換するか分からないものです。

この年の5月に高田繁監督が途中辞任し,小川淳司が監督代行となりました。

現状打撃でチームを上げていく必要があると感じた小川は,打撃重視でメンバーを再構成していきました。

その中でショートで慎吾を採用したのです。

慎吾は守備で難を見せるものの,打撃で見せてくるようになりました。

この年,自己最高の214打数で打率.298を残しました。


11年に向けて,名ショートの宮本慎也から特訓を受けることが報道されました。

宮本も,自身がサードにコンバートしたことで,次なるショートに目処をつけたかったのです。

この年も,慎吾にとって好転してきたのです。

開幕スタメンに選ばれた川島慶三が死球で離脱し,慎吾がショートで出場するようになりました。

6番宮本,7番慎吾,8番相川亮二は,「脅威の下位打線」と言われるようになりました。

主力が離脱してきたときは,慎吾が3番に座ることもありました

そこでも打棒をいかんなく発揮したのです。

初めて規定打席に達して,107安打,打率.268を記録したのです。

しかし,チームはあと一歩というところで優勝を逃す結果となりました。

そして,慎吾はCS前に故障して出場することはできませんでした。

慎吾にとっては飛躍の年でもありましたが,ものすごく悔しいシーズンにもなったに違いないです。


12年から,引退したアーロン・ガイエルから受け継ぐ形で,背番号が「5」となりました。

かつて土橋などがつけていた,「名脇役」と呼ばれる番号を慎吾がつけることになったのです。

この年はショートだけでなく,宮本の休養日にはサード,終盤にはファーストを守ることもありました。

125試合に出場して,打率.298,本塁打4,打点49と,打率3割まであと一歩というところまで来ました

13年は手術の影響で,70試合の出場に止まりました。

この年で引退した宮本からは,慎吾に対する不満とも願望ともいえる言葉が出てきました

自身が試合に出なくなった今こそ,レギュラーを取れるチャンスである。

それをモノにできなかったら,ユニフォームを脱ぐときが早くなるだけ。

打率3割を残せそうな素質があるだけに,宮本は慎吾に対して歯がゆい思いを持っていたのかもしれません。


その思いを汲んだのでしょうか,14年に慎吾は覚醒の時を迎えます

サードで142試合出場し,同じくこの年からブレイクした山田哲人とともに打線の中核を担う存在となりました

打率.305,10本塁打,69打点と全ての点でキャリアハイの記録を出して,2桁本塁打と打率3割を初めて達成しました。

宮本の発破があったからか,後継者としてようやくレギュラーとなれてきたのです。


そして,15年に自身にとってもチームにとっても歓喜の時を迎えるのです。

この年から監督に就任した真中満の方針もあり,3番から途中で2番に変更しました。

それが功を奏したのか,年間通してこれまで以上の安定感を見せたのです。

143全試合に出場し,打率.336,8本塁打,57打点,195安打と首位打者と最多安打に輝きました。

本塁打王と盗塁王のトリプルスリーとなった哲人,打点王となった畠山和洋とともに打撃タイトルをヤクルトで総なめしたことで話題となりました。

この年の優勝に貢献したのは,言うまでもないです。

サードでベストナインとゴールデングラブ賞を受賞し,オフのプレミア12で日本代表にも選ばれました。

こうして慎吾は,球界を代表する選手となれそうな活躍をようやく見せることができました。


しかし,ここからが本当の慎吾にとっての苦難の道となったのです。

16年は打率3割を続けたものの,骨折で抹消されたこともあり,満足に出場とはなりませんでした。

そして,17年は開幕前に椎間板ヘルニアを発症し,とうとう一軍出場とはなりませんでした。

最初は手術を回避して復帰しようとしましたが,状態が回復せず8月に手術となったのです。

チームはこの年に記録的な大敗を喫し,本人も試合に出れないことで歯がゆさや責任を感じたでしょうか。

昨季は復帰を果たしたものの,頭部死球もあり完全復活とは言い切れない成績でした。

97試合に出場して,打率.259,3本塁打という成績でした。


こうして迎えた今季は,開幕一軍とはなりませんでした。

それでも一軍登録され,今季1戦目となる中日戦で1000本安打を達成しました

順調に達成できるかと思った節目の記録を,14年目でようやく達成したのです。

昨日も途中出場から追加点となるタイムリーを放ちました。

苦節はあったものの,慎吾は今確かにチーム内で存在感を見せているのです。


私の慎吾に対する思いは,主力として戻るかどうかは別として優勝に貢献して欲しいです。

今年で32歳になる慎吾は,間違いなく主力以外でも役割を求められるようになっているはずです。

チームには青木宣親や坂口智隆など,慎吾より年長者もまだまだたくさんいます

自身が復帰したばかりということで,遠慮しているところもあると思います。


しかし,この事態ではその役割を大きく慎吾に求められているのです。

野手で慎吾より年長は,主力では雄平くらいです。

坂口,バレンティンはファームに行き,青木も満足に出れる感じではありません。

哲人も西浦も怪しくなってきた今,慎吾の出番が増えてくる可能性はあります。

そして,野手年長者の雄平が引っ張っていくかもしれませんが,それを支えれるのは慎吾か荒木だと思います。

ここから全試合出場しろというのは難しいかもしれませんが,若い選手が多い今慎吾が見せれるものがあるはずです。


かつてはしのぎを削ったライバル関係にあった選手も,今となっては同志となっていると思います。

荒木,大引啓次,三輪正義といった選手は,今となっては後輩に何かを見せる存在となっています。

後輩には村上宗隆,廣岡大志,宮本丈,渡邉大樹,山崎晃大朗など次を担いそうな選手がいます。

こうした選手たちとポジション争いをする立場でもありますが,今の慎吾はそれだけを求められてはないと思います。

かつて自分が宮本に言われたことを,今度は自分が示す番になったのかと思います。

村上が高卒2年目で2桁本塁打を達成する活躍がありますが,まだまだ足りないところだらけです。

若いメンバーもまだまだ現状としては足りません。

そうした後輩に「簡単にポジションは獲れないぞ」,「油断したらレギュラーは簡単に取られるぞ」と示したり,話したりする先輩が必要なのです。

自身がなかなか獲れなかっただけに,慎吾にそれを伝える役割を担って欲しいなと思います。


現状,自分が完全復活することで頭がいっぱいなのかもしれません。

完全復活して欲しい思いは私にもあります。

32歳は,まだ老け込むには早すぎます

完全復活すれば,1500本安打,そして2000本も見えてくるのかもしれません。


それでも,慎吾の中に「チームに対して」という思いがあるのかもしれません。

それがどれだけあるかで,自分のできることと行動が変わってくると思います。

今ヘッドコーチを務めている宮本にそれを求められているかは分かりません。

それでも,自分の中で何か変わってきているのは間違いないと思います。

全く試合に出れなかったこと,酸いも甘いも知ったこと,復活を果たしてベンチでも腐らずに出場すること。

そうした経験を少しでもいいので,周りに波及させてほしいとも思います。

慎吾が培った「氷」を,「水」にして周りに波及させる「氷解」に至れるのでしょうか?

それを慎吾に求められているのが,まさに今なのだと思います。

それができるようになるからこそ,自身の大台の記録も見えてくるのかもしれません。


応援歌の通り,「ツバメを勝利へ導いて欲しい」。

どのような形でも,もう一度優勝を味あわせてほしい。

これが私の慎吾に対する今の期待であり,思いであります。



ご意見ございましたら,是非当ブログでもツイッターでもコメントお待ちしております。

ツイッターのフォローもよろしくお願い致します。


それでは,またのお越しをお待ちしております。


皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

新プロ野球構想 その6 京都に球団を創設なら・・・

とうとうカープと2位の差が,5位と楽天の差と同じになりました。

独走態勢に入ったといっていいと思います。

この時期に「自力優勝消滅」という言葉を聞きますと,いよいよ2位以下は優勝が遠のく気になるのでしょうか・・・

可能性がなくなったわけではないので,最後まで奮闘して欲しいなと思います。

やはり,「諦めたらそこで試合終了だよ」ですから。


それでは,今回も私が考える新プロ野球球団の構想を考えてみたいと思います。

今日取り上げるのは,京都府です。

まずはデータとして,図表1をご覧ください。
新構想11

実は京都府には昔,拠点とするプロ野球球団があったのです。

松竹ロビンスという,セリーグで最初に優勝したチームなのです。

かつて京都に存在した衣笠球場をメイングラウンドに使用していました。

しかし,大洋ホエールズ(現在のDeNA)と合併し,京都の球団は2年で消滅しました。

京都に新球団創設となれば,1952年以来の復活となります。

再び京都に球団ができることはあるのでしょうか?


それでは,1つ1つ見ていきたいと思います。

1.球場の収容人数
候補に挙げているわかさスタジアム京都は,現在の収容人数2万人の球場です。

規定の3万人に達するには,改修工事が必要になります。

改修工事については,東北楽天のように段階的に進めていけば可能になると思います。

NPBの公式戦が今年3年ぶりに開催されました(5月27日のオリックスvsロッテ戦)。

最寄りの駅が,オリックス・バファローズの前身と同じ阪急ということもあり,当日は阪急ブレーブス時代のユニフォームを着用していました。

プロ野球へ歩み寄っていることから,球団誘致への理解も得られる可能性はあると思います。

課題として挙げられるのは,今わかさスタジアムは女子プロ野球や女子高校野球で使用されているという点です。

プロ野球として使用するとなったとき,そのあたりでどのように折り合いをつけるのでしょうか?

女子野球も,今プロ野球が存在するなど盛り上がりを見せていると思います。

野球界を盛り上げるという点で,女子野球の存在を無視したり,ないがしろにはできません。

新プロ野球球団とともに盛り上げていくことも踏まえて,使用できるかの道は見つける必要があると思います。


2.都市の人口
京都市の人口は,100万人を超えています。

100万人を超える人口を抱えながらプロ野球球団がないのは,京都市の他に神戸市,さいたま市だけです。

ただし,神戸はオリックスの準本拠地(ほっともっとフィールド神戸)であり,埼玉は所沢市に西武があります。

全くないのは,京都府だけということになります。

広島市や仙台市を超える人口を抱える京都市だけでも,十分観客を確保できるはずだと思います。

関西に住んだことのない私だからかもしれませんが,気がかりなのは京都に阪神,オリックスファンがどれだけいるのでしょうか?

大阪にあるオリックスと兵庫にある阪神と,差別化を図ることができるのでしょうか?

「関西といえば阪神,オリックス」というイメージが,私の中にあるからかもしれません。

関西で一体になっているのか,「私たちは京都だ」という自負の心があるのでしょうか?

かつて関西には大阪に南海,近鉄があり,兵庫に阪神,阪急がある時代がありました。

その時を考えると,関西でもしっかりそれぞれにファンがあったと思います。

そのように考えてみると,関西でも違う都道府県にできるとなると,京都でファンを確保できるのかなとは思っています。


3.集客への交通環境
わかさスタジアムの最寄りの駅は,阪急電鉄の駅です。

これによって京都府の他の都市や大阪府からも来客できる環境はできています。

京都市をメインに集客を狙うのなら,バスも含めて十分な環境は整っていると思います。

あとは,試合開催に時刻表をどのように合わせるかだと思います。

私鉄の駅近くに球場があるということで,関西で鉄道会社が所有する阪神を参考にするといいかもしれません。

阪神も基本的には,鉄道を利用することを基軸にした集客をイメージしていると思います。

もしかしたら,かつて球団を保有していた阪急と連携をとればいいかもしれません

球団経営から撤退してから30年ですけど,連携をとることでお互いに活性化する可能性はあります。

阪急球団を現在所有しているオリックスとの利害関係は,折り合いをつける必要はあるかもしれません。

しかし,関西で互いに野球を盛り上げる姿勢の方が重要な気はします。

また,京都駅から球場まではバスで行けます。

その京都駅には,数多くの路線が通っています。

それを利用することで,京都市以外に宇治市,福知山市,長岡京市といった京都府の他の都市からも観客を呼べるのかもしれません。

数多くの路線が通っていることで,京都府一体の球団経営というのがやりやすくなる可能性はあると思います


4.意識する地域と他球団との連携
先述の通り,京都市をメインに集客を考えてもいいと思います。

とはいえ,京都駅につながる路線はたくさんありますので,宇治市,長岡京市など他の都市でもアピールするのも必要だと思います。

そうすることで,京都府一体の球団経営ができるのではないでしょうか?

京都府一体でも十分に観客は見込めると思いますが,路線がつながっている滋賀県や奈良県も呼び込むことはできるでしょうか?

滋賀県の皇子山球場や,奈良県のならでんスタジアムで時々試合を開催するのもいいと思います。

特に大阪や兵庫から距離がある滋賀の人々が,京都の新球団に身近さを感じる可能性はあるかもしれません。

歴史のある京都,奈良,滋賀一体の意識した球団経営も,できるかもしれません。

他球団との連携で,阪神とオリックスを外すことはできないはずです。

セリーグとパリーグどちらに入るにしても,「関西ダービー」がより多くなるはずです。

京都の新球団,阪神,オリックスの3チームで盛り上げていくことについて,かつての鉄道球団ばかりの時代とは違うと思います。

同じ鉄道会社同士であったことと,セリーグに人気が固まっていたこともあり,協賛がなかなか浸透しなかったかもしれません。

しかし,今はいがみあったり,利益を独占する考えでは,野球界は盛り上がらないと感じ始めないとおかしい時代に入っています。

巨人とヤクルトが「TOKYOシリーズ」を共同で企画するように,関西ももっとお互いに連携するべきではないでしょうか?

阪神とオリックスでは,リーグが違うので当たるとしても交流戦くらいになってしまいます。

さらに,過去で一度も日本シリーズで対戦したこともありません。

そのため,巨人とヤクルトよりも盛り上がりに欠けてもおかしくはないと思います。

そこに京都の新球団が入ることで,ペナントレース中での「関西ダービー」が可能になります。

関西の3球団になると,ダービーへの意識も変わると思います。

私が京都に球団創設にふさわしいと思うのは,「関西ダービー」ができる可能性を感じたからです。



京都府で新球団を創設することに対する,私の意見をまとめてみます。

まずは,京都府に新球団を創設するのがいいと思った理由です。
1.人口が100万人を超え,京都市だけでも集客を見込めるから
2.鉄道環境が整備されており,京都府内だけでなく,他県からの集客の可能性があるから
3.阪神とオリックスとともに「関西ダービー」で,関西の野球がさらに盛り上がるから
4.京都で行われている女子野球と共に,野球界を盛り上げる可能性があるから。


では,課題は何でしょうか?
1.女子野球との球場使用の兼ね合いにおいて,どのように折り合いをつけるか
2.関西の阪神とオリックスファンと,どれだけ重複するのか



京都は人口を多く抱えていることと,鉄道が広く充実している点で,球団経営に有利な環境が整っていると思います。

100万人以上人口を抱える都市に,プロ野球球団があってもおかしくはないはずです。

かつて松竹ロビンスが存在していた1950年ころは,本拠地の規定があいまいであったり,球団経営そのものがよくわからない時代でありました。

そのため,地域密着という次元には到達できなかったというのは,他の消滅した球団を見ても分かります

しかし,今は違います。

地域密着を含めた球団経営のノウハウを学べる事例が多くあり,人々のプロ野球の関心も全く違います。

自分が住むところに球団ができることで,野球へ目を向ける数が変わるはずです。

自分が住む地域に入団できることがどのような気持ちかは,入団した選手のコメントを聞けば分かると思います。

京都で女子野球が盛んなように,かつての時代から野球界が変わりつつあります。

それを「変わった」と言えるのは,今のところ「プロ野球界」とか単体の世界でしかないような気がします。

京都にプロ野球球団を創設するのは,新たな野球界という大きな枠組みでのつながりのきっかけになるのではないでしょうか?

私が何故今球団数を増やすのがいいかと思うことについては,後に書きたいと思います。


次回は,私の中での最後の候補地,新潟県について書いてみたいと思います。



皆さんに,新たな発見が見つかりますよに・・・ ・・・。
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