今回は,かなり久々に『「黄金世代の1つ上で』シリーズを書いてみたいと思います。
第22弾は,ホークス,MLBでプレーし,2020年は栃木でプレーしていた川﨑宗則です。
それでは,よろしくお願い致します。
「今,何を求めていますか?」
この質問に率直に答えられる人は,それだけまっすぐに生きているということでしょうか?
それは他人に理解できるものなのか?
簡単に手に入らないものなのか?
いや,もしかしすると,あるかどうかすら本人も分からないものなのかもしれません。
かつて,NPBでプレーし,タイトルも手にして,侍ジャパンで優勝も経験し,MLBでもプレーした選手。
それが川﨑宗則です。
2020年,BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスでプレーしていました。
そのムネに,最初の質問をぶつけたら,どのような答えを返すのでしょうか?
NPBとMLBで活躍も見せた。
追いかけていた憧れがユニフォームを脱いだ。
ここでやめたとしても,ある程度の道は用意されているのかもしれません。
それでも,今年で不惑に入るムネは栃木で今季も戦うことを決めました。
今,本当に何を求めているのでしょうか?
鹿児島県に生まれた川﨑宗則。
中学2年のころ,自分の人生を左右する人物を見かけます。
日本で史上最初の200安打達成,MLBの1シーズン安打記録も樹立した。
そう,超レジェンド・イチローです。
同級生の情報で存在を知り,鴨池球場で初めてその姿を見るのです。
ムネはそれを見て,自分の中に火がついたと言います。
野球を辞めかけていたところで,自分の光を見出したのです。
「清原にはなれないけど,イチローにならなれるかも」
そう直感したとのことです。
ここから,ムネの「イチローのストーカー」が始まるのです。
そこから左打ちに変えて,同じようなスタイルで野球に取り組んでいきます。
鹿児島の名門である鹿児島実業や樟南を目指していました。
しかし,県立の鹿児島工業に進みます。
そして,1999年ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに指名されるのです。
この指名,ムネにとっては完全に「計画が狂った」とのことです。
高校から指名されると思わず,大学を経てプロへ行くというプランだったのです。
そのため,嬉しさよりも完全に道への世界への恐怖が,プロ入り当初の気持ちだったのです。
その恐怖が,ムネを練習に駆り立てたとのことです。
ファームで立花義家コーチに徹底的に鍛えられたのです。
この時のことをムネは,「立花さんとの時間だけは,おれはこれをやるんだということが自分でわかってる時間だった。その他は,何をすればいいかわからない,どこへ行けばいいかわからない。だから,立花さんとの時間は,ホッとしていたような気がする」と語ります。
練習はきつくても,ムネにとっては安心感をもらえた時間だったのかもしれません。
それが功を奏したのか,ファームで首位打者を獲るまでになったのです。
2001年に一軍デビューし,翌年は36試合に出場します。
そして,4年目の03年,ついにムネはブレイクします。
開幕前に小久保裕紀が大きな故障で,1年丸々離脱したのです。
代わってサードのポジションに入ったのがムネです。
やがてショートも守るようになり,この年の優勝・日本一のメンバーとなったのです。
初めて規定打席に達し,打率.294,30盗塁を記録しました。
チームの柱である小久保が不在の中で,新たなチームの光を見せることが出来たのです。
翌04年は全試合出場し,打率.303と初めて大台に達したのです。
自分の武器である俊足に磨きをかけ,44盗塁で盗塁王にもなったのです。
盗塁王,最多安打,ベストナイン,ゴールデングラブ賞。
こうして,球界にも知られる存在へとなったのです。
06年,本格的なプロの国際大会となるワールド・ベースボール・クラシックが始まりました。
その第1回大会,ムネは日本代表に選ばれたのです。
そして,自分の光であるイチローと,初めてチームメイトとなったのです。
ムネがファームで汗を流している間,2000年オフにイチローは海を渡りました。
その6年後,ついにムネはイチローに近づくことが出来たのです。
初めて挨拶をした後,イチローはこう言ったとのことです。
「あーっ,ムネ君でしょ」
イチローも見ていたらしく,いきなり「ムネ君」と呼んだのです。
もう,ムネは天にも昇る気持ちだったとのことです。
ムネの著書を読みますと,私はイチローのWBCへの意気込みや執念がすごいと感じました。
第1回のミーティングの最後に,こう言っていたとのことです。
「選手一人一人が集中して,この日の丸の重みを感じて試合に臨まないと勝てないから」
ムネいわく,「日の丸の重みを始めて感じた瞬間」とのことです。
またイチローは,WBCが「メジャーへのアピールの場」と考える空気を恐れていたとのことです。
自分をアピールするプレーをして,勝てるわけがないと思っていたのです。
この姿勢,日の丸を背負う選手皆に聞いてほしいなと思っています。
ムネはこの第1回WBCで,イチロー以外にもいろいろと感じていたのです。
宮本慎也や谷繁元信は,決勝戦の日に自らバッティングピッチャーを買って出ていました。
宮本からショートのことも学んだとのことです。
イチローからも,打撃のことなどをムネは感じていたとのことです。
この時のムネのポジションは,「スターティングベンチ」が主でした。
スタメンと呼ばれる「スターティングメンバー」ではなく,スタベンとムネがいうベンチスタートということです。
この時のことを,ムネはこう語ります。
”第1回のとき,あの人たちが作ってくれた雰囲気が大事だったんだとわかった。補欠だからレギュラーに任せるというスタンスじゃなくて,みんな一緒にやってるという空気を作る。それができるのは,スタベンのおれたち。補欠のおれたちも試合に出てる,緊張感を持って一緒に戦ってるという気持ちを外に出していかないと,レギュラーの人たちにも失礼だし,短期決戦にあってはならない温度差が生まれちゃう”
そう,ムネは宮本や谷繁をはじめ,侍ジャパンから「スタベン」について考えるようになったのです。
これが北京五輪,第2回WBC,MLBでも活かすこととなったのです。
第1回大会で優勝したのち,イチローはムネに最後に言いました。
「ムネ,見てるから,いつも見てるからな。頑張ってこいよ。いつも話しは聞くから,手を抜くなよ。すぐわかるからな」
ムネの「イチローのストーカー」に拍車がかかったのではないかと思うのです。
ホークスで活躍をつづけながら,08年の北京五輪でも代表に選ばれました。
しかし,大会前から痛めていた足が悲鳴を上げ,とうとう骨折となったのです。
ムネは満足に出場できず,チームもメダルを取れない惨敗でした。
「行きます」と言いながら,チームに貢献できなかった。
この時の傷は深く,しばらくの間Mr.Childrenの「GIFT」は聴けなかったとのことです。
その翌年,第2回WBCが開催されます。
ムネは再び選ばれ,再びイチローとチームメイトとなったのです。
この時も,ムネは「スタベン」が主でした。
イニングの間に,ダッシュをかましていたとのことです。
レギュラーや原辰徳監督へのアピールで,「おれはいつでも行くぞ」というものだそうです。
決して「自分が出たいから」というのではないということは,前述のことから想像できると思います。
この時のイチローは不振でした。
そう記憶している方も多いと思います。
そして,決勝戦で決めたセンター前ヒット。
その前を打っていたのがムネだったのです。
延長10回表,1アウト1,3塁の勝ち越しのチャンス。
ここで代打ムネは初球を打ち,ショートフライに倒れるのです。
この時ムネは,バットで地面を叩いていました。
この時のムネの心境。
”おれが打って,あとはイチローさんにとどめを刺してもらうだけだったのに。
あれだけ苦しんできたイチローさんを,こんな場面で打席に立たせちゃう。
なんだよ,イチローさんを苦しめているのはおれだったのかよって思った。
何も言えなかった。
おれが助けなきゃあかんのに。”
もう,自分を責めていたとのことです。
その中で,イチローに神が舞い降りたのです。
そして,2011年オフ,ムネはFA宣言を行使したのです。
決めていました。
「メジャーに行きたい」ではなく,「イチローと一緒にプレーする」という目的なのです。
シアトル・マリナーズ一本に絞り,マリナーズとマイナー契約を結びました。
ムネいわく,「おれが見たかったのは,イチロー選手よりも,アメリカでイチロー選手とプレーする川﨑宗則選手だった」とのことです。
イチローに憧れを持ちつつ,それを自分の野球に昇華しているように私は感じるのです。
ムネはMLB1年目でメジャー昇格ができ,イチローとプレーすることもできました。
イチローのルーティンを共にしていたのです。
ムネのメジャー昇格が決まった時は,感極まって「ムネ,頑張ったもんな」とイチローは言ったのです。
それがシーズン途中で,イチローはヤンキースにトレードとなったのです。
追いかけて1年目で,光が去ることとなったのです。
やはり,ポッカリ穴が開いたようなものだったのです。
ただ,敵としてのイチローを見たとき,ムネにはまた気づいたことがあるとのことです。
味方にした時の安心感,常にライトにイチローがいるということ。
「野球選手というのは,毎日,ゲームに出続けることが何よりもファインプレー」とムネは感じたのです。
マリナーズでのプレーは1年で終わり,2013年からはトロント・ブルージェイズでプレーしました。
ここでムネは,粘りの打撃という「和食のバッティング」を見せるようになるのです。
「ステーキバッティング」が多いアメリカで,世界に誇る,体にいい「和食のバッティング」を実行するのです。
ブルージェイズで3年,シカゴ・カブスで1年プレーしました。
常にメジャーでなくとも,ムネにとってはそれは重要ではなかったのです。
「自分のやりたいことをやることのほうが大事」
環境が違うだけで,野球ができれば,メジャーもマイナーも同じ。
どこに所属しても,常にゲームは行われるのです。
「野球のできる体で,おれがそこへ行くことが重要なんであって,それ以外のことは必要ない」
それは,MLBでのプレーが終わっても同じなのかもしれないのです。
2017年,カブスとのマイナー契約が解除となり,ムネはホークス復帰となったのです。
故障もあり,結局42試合の出場に終わったのです。
ところが,体調不良を理由にシーズンオフの行事は辞退しました。
それどころか,18年の契約も保留が続いたのです。
結局,ムネはホークスとの自由契約を選んだのです。
野球からしばらく離れて,心の回復に努めていくとのことです。
そのためでもあるのか,しばらくムネの動向は不明だったのではないかと思います。
19年7月,ムネは台湾でコーチを務めることが発表されました。
その年限りでコーチを辞任したのは,ムネが選手としての契約を希望したからです。
そう,ムネは野球を諦めてなかったのです。
2020年は新型コロナウィルスの感染拡大で,台湾に渡ることが出来ませんでした。
8月,BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスで,選手として契約となったのです。
そこには,かつて北京五輪やWBCで共に戦った西岡剛や成瀬善久がいます。
特に西岡とは,WBCで二遊間を組んでいました。
日本を代表する二遊間が,栃木の地で再び蘇ったのです。
ここまでかつての侍ジャパンが集まって,栃木が盛り上がらない訳ないはずです。
今季も,ムネは継続してプレーすることを決めています。
そう決めた理由は,やはり今も同じではないかと思います。
「野球のできる体で,自分がそこに行くということが重要」
ムネは再び野球ができるようになり,幸運なことに栃木という地を見つけたのです。
「やりたいことがある」,「続ける理由がある」以上,ムネに迷いはないのかもしれません。
ムネはMLB時代について,「30歳にしてアメリカに来て,新しいおもちゃを買ってもらったような気分」と語ります。
そう,「”ベースボール”という名のおもちゃ」ということです。
その上で,このように語っているのです。
”「これをやってみよう」「あれを真似してみよう」と思うことが,そのまま僕の活力になつながる。本当に子どもみたいだけど,これが僕にとって大切”
「新しい遊びにハマった感覚」だとムネは感じているのです。
こうした「野球少年」だからこそ,不惑に入っても栃木でプレーしているのではないかと思うのです。
栃木にも「新しい遊びがある」と,ムネは発見したのでしょうか?
地元球団に入り,柱である小久保と共に汗を流しました。
やがて自身が主力となり,日本代表に選ばれました。
そこで自分の「光」となる憧れと,共に栄冠をつかみました。
そして,イチローを追いかけてアメリカへ行き,多くのものを見つけました。
プロとしてプレーする体や心を育んだとしても,今のムネは「野球少年」という原点に戻ったのかもしれません。
ただし,360度回った景色を見た「野球少年」です。
ただの「野球少年」と,回った景色を見てきた「野球少年」は明らかに違うはずです。
ムネは「戻った」というより,「進化した野球少年」なのかもしれないのです。
不惑…栃木…
ムネにとって,そんなことは全く関係なく,重要ではないのかもしれません。
「走り続けたい」,「野球をやり続けたい」
それが,ムネが「野球少年」でい続ける理由なのかもしれないのです。
もしかして,イチローが引退した45歳を超えてプレーするのでしょうか?
川﨑宗則,何を求めて走り続けているのか…
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それでは,またのお越しをお待ちしております。
皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。
第22弾は,ホークス,MLBでプレーし,2020年は栃木でプレーしていた川﨑宗則です。
それでは,よろしくお願い致します。
「今,何を求めていますか?」
この質問に率直に答えられる人は,それだけまっすぐに生きているということでしょうか?
それは他人に理解できるものなのか?
簡単に手に入らないものなのか?
いや,もしかしすると,あるかどうかすら本人も分からないものなのかもしれません。
かつて,NPBでプレーし,タイトルも手にして,侍ジャパンで優勝も経験し,MLBでもプレーした選手。
それが川﨑宗則です。
2020年,BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスでプレーしていました。
そのムネに,最初の質問をぶつけたら,どのような答えを返すのでしょうか?
NPBとMLBで活躍も見せた。
追いかけていた憧れがユニフォームを脱いだ。
ここでやめたとしても,ある程度の道は用意されているのかもしれません。
それでも,今年で不惑に入るムネは栃木で今季も戦うことを決めました。
今,本当に何を求めているのでしょうか?
鹿児島県に生まれた川﨑宗則。
中学2年のころ,自分の人生を左右する人物を見かけます。
日本で史上最初の200安打達成,MLBの1シーズン安打記録も樹立した。
そう,超レジェンド・イチローです。
同級生の情報で存在を知り,鴨池球場で初めてその姿を見るのです。
ムネはそれを見て,自分の中に火がついたと言います。
野球を辞めかけていたところで,自分の光を見出したのです。
「清原にはなれないけど,イチローにならなれるかも」
そう直感したとのことです。
ここから,ムネの「イチローのストーカー」が始まるのです。
そこから左打ちに変えて,同じようなスタイルで野球に取り組んでいきます。
鹿児島の名門である鹿児島実業や樟南を目指していました。
しかし,県立の鹿児島工業に進みます。
そして,1999年ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに指名されるのです。
この指名,ムネにとっては完全に「計画が狂った」とのことです。
高校から指名されると思わず,大学を経てプロへ行くというプランだったのです。
そのため,嬉しさよりも完全に道への世界への恐怖が,プロ入り当初の気持ちだったのです。
その恐怖が,ムネを練習に駆り立てたとのことです。
ファームで立花義家コーチに徹底的に鍛えられたのです。
この時のことをムネは,「立花さんとの時間だけは,おれはこれをやるんだということが自分でわかってる時間だった。その他は,何をすればいいかわからない,どこへ行けばいいかわからない。だから,立花さんとの時間は,ホッとしていたような気がする」と語ります。
練習はきつくても,ムネにとっては安心感をもらえた時間だったのかもしれません。
それが功を奏したのか,ファームで首位打者を獲るまでになったのです。
2001年に一軍デビューし,翌年は36試合に出場します。
そして,4年目の03年,ついにムネはブレイクします。
開幕前に小久保裕紀が大きな故障で,1年丸々離脱したのです。
代わってサードのポジションに入ったのがムネです。
やがてショートも守るようになり,この年の優勝・日本一のメンバーとなったのです。
初めて規定打席に達し,打率.294,30盗塁を記録しました。
チームの柱である小久保が不在の中で,新たなチームの光を見せることが出来たのです。
翌04年は全試合出場し,打率.303と初めて大台に達したのです。
自分の武器である俊足に磨きをかけ,44盗塁で盗塁王にもなったのです。
盗塁王,最多安打,ベストナイン,ゴールデングラブ賞。
こうして,球界にも知られる存在へとなったのです。
06年,本格的なプロの国際大会となるワールド・ベースボール・クラシックが始まりました。
その第1回大会,ムネは日本代表に選ばれたのです。
そして,自分の光であるイチローと,初めてチームメイトとなったのです。
ムネがファームで汗を流している間,2000年オフにイチローは海を渡りました。
その6年後,ついにムネはイチローに近づくことが出来たのです。
初めて挨拶をした後,イチローはこう言ったとのことです。
「あーっ,ムネ君でしょ」
イチローも見ていたらしく,いきなり「ムネ君」と呼んだのです。
もう,ムネは天にも昇る気持ちだったとのことです。
ムネの著書を読みますと,私はイチローのWBCへの意気込みや執念がすごいと感じました。
第1回のミーティングの最後に,こう言っていたとのことです。
「選手一人一人が集中して,この日の丸の重みを感じて試合に臨まないと勝てないから」
ムネいわく,「日の丸の重みを始めて感じた瞬間」とのことです。
またイチローは,WBCが「メジャーへのアピールの場」と考える空気を恐れていたとのことです。
自分をアピールするプレーをして,勝てるわけがないと思っていたのです。
この姿勢,日の丸を背負う選手皆に聞いてほしいなと思っています。
ムネはこの第1回WBCで,イチロー以外にもいろいろと感じていたのです。
宮本慎也や谷繁元信は,決勝戦の日に自らバッティングピッチャーを買って出ていました。
宮本からショートのことも学んだとのことです。
イチローからも,打撃のことなどをムネは感じていたとのことです。
この時のムネのポジションは,「スターティングベンチ」が主でした。
スタメンと呼ばれる「スターティングメンバー」ではなく,スタベンとムネがいうベンチスタートということです。
この時のことを,ムネはこう語ります。
”第1回のとき,あの人たちが作ってくれた雰囲気が大事だったんだとわかった。補欠だからレギュラーに任せるというスタンスじゃなくて,みんな一緒にやってるという空気を作る。それができるのは,スタベンのおれたち。補欠のおれたちも試合に出てる,緊張感を持って一緒に戦ってるという気持ちを外に出していかないと,レギュラーの人たちにも失礼だし,短期決戦にあってはならない温度差が生まれちゃう”
そう,ムネは宮本や谷繁をはじめ,侍ジャパンから「スタベン」について考えるようになったのです。
これが北京五輪,第2回WBC,MLBでも活かすこととなったのです。
第1回大会で優勝したのち,イチローはムネに最後に言いました。
「ムネ,見てるから,いつも見てるからな。頑張ってこいよ。いつも話しは聞くから,手を抜くなよ。すぐわかるからな」
ムネの「イチローのストーカー」に拍車がかかったのではないかと思うのです。
ホークスで活躍をつづけながら,08年の北京五輪でも代表に選ばれました。
しかし,大会前から痛めていた足が悲鳴を上げ,とうとう骨折となったのです。
ムネは満足に出場できず,チームもメダルを取れない惨敗でした。
「行きます」と言いながら,チームに貢献できなかった。
この時の傷は深く,しばらくの間Mr.Childrenの「GIFT」は聴けなかったとのことです。
その翌年,第2回WBCが開催されます。
ムネは再び選ばれ,再びイチローとチームメイトとなったのです。
この時も,ムネは「スタベン」が主でした。
イニングの間に,ダッシュをかましていたとのことです。
レギュラーや原辰徳監督へのアピールで,「おれはいつでも行くぞ」というものだそうです。
決して「自分が出たいから」というのではないということは,前述のことから想像できると思います。
この時のイチローは不振でした。
そう記憶している方も多いと思います。
そして,決勝戦で決めたセンター前ヒット。
その前を打っていたのがムネだったのです。
延長10回表,1アウト1,3塁の勝ち越しのチャンス。
ここで代打ムネは初球を打ち,ショートフライに倒れるのです。
この時ムネは,バットで地面を叩いていました。
この時のムネの心境。
”おれが打って,あとはイチローさんにとどめを刺してもらうだけだったのに。
あれだけ苦しんできたイチローさんを,こんな場面で打席に立たせちゃう。
なんだよ,イチローさんを苦しめているのはおれだったのかよって思った。
何も言えなかった。
おれが助けなきゃあかんのに。”
もう,自分を責めていたとのことです。
その中で,イチローに神が舞い降りたのです。
そして,2011年オフ,ムネはFA宣言を行使したのです。
決めていました。
「メジャーに行きたい」ではなく,「イチローと一緒にプレーする」という目的なのです。
シアトル・マリナーズ一本に絞り,マリナーズとマイナー契約を結びました。
ムネいわく,「おれが見たかったのは,イチロー選手よりも,アメリカでイチロー選手とプレーする川﨑宗則選手だった」とのことです。
イチローに憧れを持ちつつ,それを自分の野球に昇華しているように私は感じるのです。
ムネはMLB1年目でメジャー昇格ができ,イチローとプレーすることもできました。
イチローのルーティンを共にしていたのです。
ムネのメジャー昇格が決まった時は,感極まって「ムネ,頑張ったもんな」とイチローは言ったのです。
それがシーズン途中で,イチローはヤンキースにトレードとなったのです。
追いかけて1年目で,光が去ることとなったのです。
やはり,ポッカリ穴が開いたようなものだったのです。
ただ,敵としてのイチローを見たとき,ムネにはまた気づいたことがあるとのことです。
味方にした時の安心感,常にライトにイチローがいるということ。
「野球選手というのは,毎日,ゲームに出続けることが何よりもファインプレー」とムネは感じたのです。
マリナーズでのプレーは1年で終わり,2013年からはトロント・ブルージェイズでプレーしました。
ここでムネは,粘りの打撃という「和食のバッティング」を見せるようになるのです。
「ステーキバッティング」が多いアメリカで,世界に誇る,体にいい「和食のバッティング」を実行するのです。
ブルージェイズで3年,シカゴ・カブスで1年プレーしました。
常にメジャーでなくとも,ムネにとってはそれは重要ではなかったのです。
「自分のやりたいことをやることのほうが大事」
環境が違うだけで,野球ができれば,メジャーもマイナーも同じ。
どこに所属しても,常にゲームは行われるのです。
「野球のできる体で,おれがそこへ行くことが重要なんであって,それ以外のことは必要ない」
それは,MLBでのプレーが終わっても同じなのかもしれないのです。
2017年,カブスとのマイナー契約が解除となり,ムネはホークス復帰となったのです。
故障もあり,結局42試合の出場に終わったのです。
ところが,体調不良を理由にシーズンオフの行事は辞退しました。
それどころか,18年の契約も保留が続いたのです。
結局,ムネはホークスとの自由契約を選んだのです。
野球からしばらく離れて,心の回復に努めていくとのことです。
そのためでもあるのか,しばらくムネの動向は不明だったのではないかと思います。
19年7月,ムネは台湾でコーチを務めることが発表されました。
その年限りでコーチを辞任したのは,ムネが選手としての契約を希望したからです。
そう,ムネは野球を諦めてなかったのです。
2020年は新型コロナウィルスの感染拡大で,台湾に渡ることが出来ませんでした。
8月,BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスで,選手として契約となったのです。
そこには,かつて北京五輪やWBCで共に戦った西岡剛や成瀬善久がいます。
特に西岡とは,WBCで二遊間を組んでいました。
日本を代表する二遊間が,栃木の地で再び蘇ったのです。
ここまでかつての侍ジャパンが集まって,栃木が盛り上がらない訳ないはずです。
今季も,ムネは継続してプレーすることを決めています。
そう決めた理由は,やはり今も同じではないかと思います。
「野球のできる体で,自分がそこに行くということが重要」
ムネは再び野球ができるようになり,幸運なことに栃木という地を見つけたのです。
「やりたいことがある」,「続ける理由がある」以上,ムネに迷いはないのかもしれません。
ムネはMLB時代について,「30歳にしてアメリカに来て,新しいおもちゃを買ってもらったような気分」と語ります。
そう,「”ベースボール”という名のおもちゃ」ということです。
その上で,このように語っているのです。
”「これをやってみよう」「あれを真似してみよう」と思うことが,そのまま僕の活力になつながる。本当に子どもみたいだけど,これが僕にとって大切”
「新しい遊びにハマった感覚」だとムネは感じているのです。
こうした「野球少年」だからこそ,不惑に入っても栃木でプレーしているのではないかと思うのです。
栃木にも「新しい遊びがある」と,ムネは発見したのでしょうか?
地元球団に入り,柱である小久保と共に汗を流しました。
やがて自身が主力となり,日本代表に選ばれました。
そこで自分の「光」となる憧れと,共に栄冠をつかみました。
そして,イチローを追いかけてアメリカへ行き,多くのものを見つけました。
プロとしてプレーする体や心を育んだとしても,今のムネは「野球少年」という原点に戻ったのかもしれません。
ただし,360度回った景色を見た「野球少年」です。
ただの「野球少年」と,回った景色を見てきた「野球少年」は明らかに違うはずです。
ムネは「戻った」というより,「進化した野球少年」なのかもしれないのです。
不惑…栃木…
ムネにとって,そんなことは全く関係なく,重要ではないのかもしれません。
「走り続けたい」,「野球をやり続けたい」
それが,ムネが「野球少年」でい続ける理由なのかもしれないのです。
もしかして,イチローが引退した45歳を超えてプレーするのでしょうか?
川﨑宗則,何を求めて走り続けているのか…
最後までご覧いただき,ありがとうございます。
ご意見ございましたら,是非当ブログでもツイッターでもコメントお待ちしております。
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それでは,またのお越しをお待ちしております。
皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。