求究道(ぐきゅうどう)のプロ野球講義

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「松坂世代」より81年生まれが黄金世代?

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イチローを追いかけて,今も「野球少年」 川﨑宗則

今回は,かなり久々に『「黄金世代の1つ上で』シリーズを書いてみたいと思います。

第22弾は,ホークス,MLBでプレーし,2020年は栃木でプレーしていた川﨑宗則です。

それでは,よろしくお願い致します。


「今,何を求めていますか?」

この質問に率直に答えられる人は,それだけまっすぐに生きているということでしょうか?

それは他人に理解できるものなのか?

簡単に手に入らないものなのか?

いや,もしかしすると,あるかどうかすら本人も分からないものなのかもしれません。


かつて,NPBでプレーし,タイトルも手にして,侍ジャパンで優勝も経験し,MLBでもプレーした選手。

それが川﨑宗則です。

2020年,BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスでプレーしていました。

そのムネに,最初の質問をぶつけたら,どのような答えを返すのでしょうか?


NPBとMLBで活躍も見せた。

追いかけていた憧れがユニフォームを脱いだ。

ここでやめたとしても,ある程度の道は用意されているのかもしれません。

それでも,今年で不惑に入るムネは栃木で今季も戦うことを決めました。

今,本当に何を求めているのでしょうか?


鹿児島県に生まれた川﨑宗則。

中学2年のころ,自分の人生を左右する人物を見かけます。

日本で史上最初の200安打達成,MLBの1シーズン安打記録も樹立した。

そう,超レジェンド・イチローです。

同級生の情報で存在を知り,鴨池球場で初めてその姿を見るのです。

ムネはそれを見て,自分の中に火がついたと言います。

野球を辞めかけていたところで,自分の光を見出したのです。

「清原にはなれないけど,イチローにならなれるかも」

そう直感したとのことです。

ここから,ムネの「イチローのストーカー」が始まるのです。


そこから左打ちに変えて,同じようなスタイルで野球に取り組んでいきます。

鹿児島の名門である鹿児島実業や樟南を目指していました。

しかし,県立の鹿児島工業に進みます。

そして,1999年ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに指名されるのです。


この指名,ムネにとっては完全に「計画が狂った」とのことです。

高校から指名されると思わず,大学を経てプロへ行くというプランだったのです。

そのため,嬉しさよりも完全に道への世界への恐怖が,プロ入り当初の気持ちだったのです。


その恐怖が,ムネを練習に駆り立てたとのことです。

ファームで立花義家コーチに徹底的に鍛えられたのです。

この時のことをムネは,「立花さんとの時間だけは,おれはこれをやるんだということが自分でわかってる時間だった。その他は,何をすればいいかわからない,どこへ行けばいいかわからない。だから,立花さんとの時間は,ホッとしていたような気がする」と語ります。

練習はきつくても,ムネにとっては安心感をもらえた時間だったのかもしれません。

それが功を奏したのか,ファームで首位打者を獲るまでになったのです。

2001年に一軍デビューし,翌年は36試合に出場します。


そして,4年目の03年,ついにムネはブレイクします。

開幕前に小久保裕紀が大きな故障で,1年丸々離脱したのです。

代わってサードのポジションに入ったのがムネです。

やがてショートも守るようになり,この年の優勝・日本一のメンバーとなったのです。

初めて規定打席に達し,打率.294,30盗塁を記録しました。

チームの柱である小久保が不在の中で,新たなチームの光を見せることが出来たのです。

翌04年は全試合出場し,打率.303と初めて大台に達したのです。

自分の武器である俊足に磨きをかけ,44盗塁で盗塁王にもなったのです。

盗塁王,最多安打,ベストナイン,ゴールデングラブ賞。

こうして,球界にも知られる存在へとなったのです。


06年,本格的なプロの国際大会となるワールド・ベースボール・クラシックが始まりました。

その第1回大会,ムネは日本代表に選ばれたのです。

そして,自分の光であるイチローと,初めてチームメイトとなったのです。

ムネがファームで汗を流している間,2000年オフにイチローは海を渡りました。

その6年後,ついにムネはイチローに近づくことが出来たのです。

初めて挨拶をした後,イチローはこう言ったとのことです。

「あーっ,ムネ君でしょ」

イチローも見ていたらしく,いきなり「ムネ君」と呼んだのです。

もう,ムネは天にも昇る気持ちだったとのことです。


ムネの著書を読みますと,私はイチローのWBCへの意気込みや執念がすごいと感じました。

第1回のミーティングの最後に,こう言っていたとのことです。

「選手一人一人が集中して,この日の丸の重みを感じて試合に臨まないと勝てないから」

ムネいわく,「日の丸の重みを始めて感じた瞬間」とのことです。

またイチローは,WBCが「メジャーへのアピールの場」と考える空気を恐れていたとのことです。

自分をアピールするプレーをして,勝てるわけがないと思っていたのです。

この姿勢,日の丸を背負う選手皆に聞いてほしいなと思っています。


ムネはこの第1回WBCで,イチロー以外にもいろいろと感じていたのです。

宮本慎也や谷繁元信は,決勝戦の日に自らバッティングピッチャーを買って出ていました。

宮本からショートのことも学んだとのことです。

イチローからも,打撃のことなどをムネは感じていたとのことです。


この時のムネのポジションは,「スターティングベンチ」が主でした。

スタメンと呼ばれる「スターティングメンバー」ではなく,スタベンとムネがいうベンチスタートということです。

この時のことを,ムネはこう語ります。

”第1回のとき,あの人たちが作ってくれた雰囲気が大事だったんだとわかった。補欠だからレギュラーに任せるというスタンスじゃなくて,みんな一緒にやってるという空気を作る。それができるのは,スタベンのおれたち。補欠のおれたちも試合に出てる,緊張感を持って一緒に戦ってるという気持ちを外に出していかないと,レギュラーの人たちにも失礼だし,短期決戦にあってはならない温度差が生まれちゃう”

そう,ムネは宮本や谷繁をはじめ,侍ジャパンから「スタベン」について考えるようになったのです。

これが北京五輪,第2回WBC,MLBでも活かすこととなったのです。


第1回大会で優勝したのち,イチローはムネに最後に言いました。

「ムネ,見てるから,いつも見てるからな。頑張ってこいよ。いつも話しは聞くから,手を抜くなよ。すぐわかるからな」

ムネの「イチローのストーカー」に拍車がかかったのではないかと思うのです。


ホークスで活躍をつづけながら,08年の北京五輪でも代表に選ばれました。

しかし,大会前から痛めていた足が悲鳴を上げ,とうとう骨折となったのです。

ムネは満足に出場できず,チームもメダルを取れない惨敗でした。

「行きます」と言いながら,チームに貢献できなかった。

この時の傷は深く,しばらくの間Mr.Childrenの「GIFT」は聴けなかったとのことです。


その翌年,第2回WBCが開催されます。

ムネは再び選ばれ,再びイチローとチームメイトとなったのです。

この時も,ムネは「スタベン」が主でした。

イニングの間に,ダッシュをかましていたとのことです。

レギュラーや原辰徳監督へのアピールで,「おれはいつでも行くぞ」というものだそうです。

決して「自分が出たいから」というのではないということは,前述のことから想像できると思います。


この時のイチローは不振でした。

そう記憶している方も多いと思います。

そして,決勝戦で決めたセンター前ヒット。

その前を打っていたのがムネだったのです。

延長10回表,1アウト1,3塁の勝ち越しのチャンス。

ここで代打ムネは初球を打ち,ショートフライに倒れるのです。

この時ムネは,バットで地面を叩いていました。

この時のムネの心境。

”おれが打って,あとはイチローさんにとどめを刺してもらうだけだったのに。

 あれだけ苦しんできたイチローさんを,こんな場面で打席に立たせちゃう。

 なんだよ,イチローさんを苦しめているのはおれだったのかよって思った。

 何も言えなかった。

 おれが助けなきゃあかんのに。”

もう,自分を責めていたとのことです。

その中で,イチローに神が舞い降りたのです。


そして,2011年オフ,ムネはFA宣言を行使したのです。

決めていました。

「メジャーに行きたい」ではなく,「イチローと一緒にプレーする」という目的なのです。

シアトル・マリナーズ一本に絞り,マリナーズとマイナー契約を結びました。

ムネいわく,「おれが見たかったのは,イチロー選手よりも,アメリカでイチロー選手とプレーする川﨑宗則選手だった」とのことです。

イチローに憧れを持ちつつ,それを自分の野球に昇華しているように私は感じるのです。


ムネはMLB1年目でメジャー昇格ができ,イチローとプレーすることもできました。

イチローのルーティンを共にしていたのです。

ムネのメジャー昇格が決まった時は,感極まって「ムネ,頑張ったもんな」とイチローは言ったのです。

それがシーズン途中で,イチローはヤンキースにトレードとなったのです。

追いかけて1年目で,光が去ることとなったのです。

やはり,ポッカリ穴が開いたようなものだったのです。

ただ,敵としてのイチローを見たとき,ムネにはまた気づいたことがあるとのことです。

味方にした時の安心感,常にライトにイチローがいるということ。

野球選手というのは,毎日,ゲームに出続けることが何よりもファインプレー」とムネは感じたのです。


マリナーズでのプレーは1年で終わり,2013年からはトロント・ブルージェイズでプレーしました。

ここでムネは,粘りの打撃という「和食のバッティング」を見せるようになるのです。

「ステーキバッティング」が多いアメリカで,世界に誇る,体にいい「和食のバッティング」を実行するのです。

ブルージェイズで3年,シカゴ・カブスで1年プレーしました。

常にメジャーでなくとも,ムネにとってはそれは重要ではなかったのです。

自分のやりたいことをやることのほうが大事

環境が違うだけで,野球ができれば,メジャーもマイナーも同じ。

どこに所属しても,常にゲームは行われるのです。

「野球のできる体で,おれがそこへ行くことが重要なんであって,それ以外のことは必要ない」

それは,MLBでのプレーが終わっても同じなのかもしれないのです。


2017年,カブスとのマイナー契約が解除となり,ムネはホークス復帰となったのです。

故障もあり,結局42試合の出場に終わったのです。

ところが,体調不良を理由にシーズンオフの行事は辞退しました。

それどころか,18年の契約も保留が続いたのです。

結局,ムネはホークスとの自由契約を選んだのです。

野球からしばらく離れて,心の回復に努めていくとのことです。

そのためでもあるのか,しばらくムネの動向は不明だったのではないかと思います。


19年7月,ムネは台湾でコーチを務めることが発表されました。

その年限りでコーチを辞任したのは,ムネが選手としての契約を希望したからです。

そう,ムネは野球を諦めてなかったのです。

2020年は新型コロナウィルスの感染拡大で,台湾に渡ることが出来ませんでした。

8月,BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスで,選手として契約となったのです。

そこには,かつて北京五輪やWBCで共に戦った西岡剛や成瀬善久がいます。

特に西岡とは,WBCで二遊間を組んでいました。

日本を代表する二遊間が,栃木の地で再び蘇ったのです。

ここまでかつての侍ジャパンが集まって,栃木が盛り上がらない訳ないはずです。


今季も,ムネは継続してプレーすることを決めています。

そう決めた理由は,やはり今も同じではないかと思います。

野球のできる体で,自分がそこに行くということが重要

ムネは再び野球ができるようになり,幸運なことに栃木という地を見つけたのです。

「やりたいことがある」,「続ける理由がある」以上,ムネに迷いはないのかもしれません。


ムネはMLB時代について,「30歳にしてアメリカに来て,新しいおもちゃを買ってもらったような気分」と語ります。

そう,「”ベースボール”という名のおもちゃ」ということです。

その上で,このように語っているのです。

”「これをやってみよう」「あれを真似してみよう」と思うことが,そのまま僕の活力になつながる。本当に子どもみたいだけど,これが僕にとって大切”

「新しい遊びにハマった感覚」だとムネは感じているのです。

こうした「野球少年」だからこそ,不惑に入っても栃木でプレーしているのではないかと思うのです。

栃木にも「新しい遊びがある」と,ムネは発見したのでしょうか?


地元球団に入り,柱である小久保と共に汗を流しました。

やがて自身が主力となり,日本代表に選ばれました。

そこで自分の「光」となる憧れと,共に栄冠をつかみました。

そして,イチローを追いかけてアメリカへ行き,多くのものを見つけました。

プロとしてプレーする体や心を育んだとしても,今のムネは「野球少年」という原点に戻ったのかもしれません。

ただし,360度回った景色を見た「野球少年」です。

ただの「野球少年」と,回った景色を見てきた「野球少年」は明らかに違うはずです。

ムネは「戻った」というより,「進化した野球少年」なのかもしれないのです。


不惑…栃木…

ムネにとって,そんなことは全く関係なく,重要ではないのかもしれません。

「走り続けたい」,「野球をやり続けたい」

それが,ムネが「野球少年」でい続ける理由なのかもしれないのです。

もしかして,イチローが引退した45歳を超えてプレーするのでしょうか?


川﨑宗則,何を求めて走り続けているのか…



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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。



閃きを信じて~Don't think too much!~
川﨑宗則
ぴあ
2016-03-31


こここそホントの黄金世代? 1981年生まれ

今回は久々に,「こここそホントの黄金世代?」シリーズを書いてみます。

これまで,このシリーズでは1990年代を書いていました。

今回は相当時を遡って,1981年生まれを取り上げてみます。

1981年4月2日から1982年4月1日生まれの選手が該当します。

それでは,よろしくお願い致します。


まず,この世代については,過去にシリーズで書いたことがあります。

詳しくは『「松坂世代」より81年が黄金世代?』をクリックして,シリーズ全体をご覧ください。


タイトルに含みを持たせた通り,この世代は松坂世代の1つ下です。

「松坂世代」というのは,その名の通り松坂大輔と同世代の人のことを指します。

主に同じ野球選手について使いますけど,1980年生まれの人そのものでも使うことがあります。

現役では松坂をはじめ,藤川球児,久保裕也,和田毅,渡辺直人がいます。

今年で40歳になるだけに,もはや希少価値の世代となりました。


この松坂世代の1つ下の選手たちが,今回取り上げる世代なのです。

私がこの世代のシリーズにおいて,このタイトルにしたのは理由があります。

松坂世代は,誰も名球会入りを果たしてないのです。

いい選手がたくさんいるにもかかわらず,文句なしの超一流というところまで誰も到達してないのです。

今季,球児が250セーブに行きそうかというくらいなのです。

もち,是が非でも球児には到達してほしいものです。


一方でこの世代は,すでに名球会が2人いるのです。

ヤクルトでプレーする青木宣親と,今季からロッテでプレーする鳥谷敬なのです。

この2人は,もはや超一流と言われて文句は言いようがないと思います。

もち,他にも素晴らしい選手がいるが上に,もう少しで名球会でホークスのデニス・サファテがいます。


名球会なしの松坂世代と,名球会2人のその1つ下の世代。

「果たして,どちらが黄金世代なのでしょうか?」,「ホントの黄金世代は,松坂世代でしょうか?」

そのような意味合いを込め,読んで考えて頂きたいと思いました。

そこでタイトルを「ホントの黄金世代は『松坂世代』?」としたのです。


話は長くなりましたけど,これが1981年生まれについて書いたシリーズのタイトルの由来です。

前置きはここまでにして,ここから1981年生まれについて書いていきます。


今年で39歳になる世代ですけど,野球界以外ではどのような人がいるのでしょうか?

芸能界なら横山裕,村上信五(いずれも関ジャニ∞),柴咲コウ,飯田圭織,安倍なつみ,斉藤工,AKIRA(EXILE),安達祐実,内山信二,今井翼,キンタロー。,内山理名,片瀬那奈,安めぐみ,綾野剛,向井理,滝沢秀明,星野真里,サンシャイン池崎がいます。

他のスポーツなら佐藤寿人,荒川静香,塚田真希,田中マルクス闘莉王,松井大輔,宮崎大輔,阿部勇樹,谷本歩実,前田遼一が,この世代に該当します。

政界で小泉進次郎もこの世代です。

さすがにこの年齢まで来たら,レジェンドと言われるにふさわしいものを残している人が多いと感じます。

金メダリスト,「ミスター・ハンドボール」,主演で印象に残す役者と揃っていますね。

私が小さい頃から見ていた人もいて,1994年にドラマで流行語大賞を出した人もいます。

そんなことを感じる世代であります。


この世代の選手を集める前に,この世代のドラフトを振り返ってみたいと思います。

高卒選手は1999年ドラフトで入団しました。

この時はまだ,選手が所属球団を選べる「逆指名制度」がありました。

しかし高卒選手は逆指名できないので,高卒を1位で獲得するには逆指名を捨てなければならないです。

注目は夏の甲子園で3完封した桐生第一の正田樹,甲子園出場はないものの好評価だった国学院久我山の河内貴哉,高校通算43本塁打の九州学院の高山久でした。

意外にも正田は重複せず,日ハムが単独で1位指名だったのです。

河内は近鉄,カープ,中日が重複し,カープが交渉権を獲得しました。

高山は,西武が単独で1位指名となりました。

他に高卒で1位は,近鉄が宮本大輔,ヤクルトが野口祥順,横浜が田中一徳でした。

当時は2位も逆指名ありで,重複すれば抽選だったのです。

田中賢介が2位で日ハム,西武,中日が重複したのです。

抽選の結果,日ハムが交渉権を獲得し,高校の注目選手を一気に2人も獲得できたのです。


大卒は2003年のドラフトで入団しました。

この時の逆指名は「自由獲得枠」という名で,最大2名まで使うことができるというルールでした。

何人指名するかによって,1から3巡目までどれくらい選択権がなくなるかが変わるのです。

この時の大卒選手で,自由獲得で入る選手もいました。

ホークスの馬原孝浩,西武の山崎敏,日ハムの糸井嘉男,阪神の鳥谷敬と筒井和也,ヤクルトの川島亮,横浜の吉川輝昭がこれに該当します。

この時の早稲田大学は,上と下の世代を合わせて最強メンバーと言われていました

鳥谷の他にも,カープ3位で比嘉寿光,ヤクルト4位で青木宣親,オリックス8位で由田慎太郎も,この年に入団しました。

この中から名球会が2人現れたことを,当時誰が予想していたでしょうか?

他には2005年はホンダ鈴鹿の高宮和也,2006年はJR九州の小松聖が希望入団枠で指名されています。

このようなドラフトだったのです。


それでは,この世代の現役選手は誰がいるのでしょうか?

もはや少ないので,球団別ではない形で表します。

前述した青木,鳥谷,サファテの他には,中日の藤井淳志,巨人の岩隈久志,阪神の糸井嘉男,日ハムの鶴岡慎也,ホークスの高谷裕亮の計8人です。

やはり,希少な世代となってしまいました。

無論,このメンツでベストナインやローテーションを作れるわけないです。

ということで,この世代はOBを含めて考えてみたいと思います。


ただし,OBと言ってもものすごくたくさんの選手が該当します。

そこで,ボーダーラインを決めて取り上げてみたいと思います。

まずは,このような条件に該当する選手をピックアップしてみます。


野手・・・規定打席達成経験者

先発投手・・・規定投球回達成経験者

リリーフ投手・・・50試合以上登板経験者



この条件に該当する選手を集めれば,それなりに絞れそうかなと思います。

なお,外国人は5年以上プレーした選手に限定したいと思います。

では,OBでこれに該当する選手はどれだけいるのでしょうか?


野手・・・田中賢介,川崎宗則,栗原健太,脇谷亮太,マット・マートン

先発投手・・・川島亮,朝倉健太,正田樹,中山慎也,小松聖,ランディ・メッセンジャー

リリーフ投手・・・岸田護,中山慎也,馬原孝浩,青木高広,川崎雄介,渡辺亮,高木康成,石井裕也,高宮和也,岡本篤志,筒井和也



これらの選手と現役選手の8人で,どのようなオーダーになるか考えてみたいと思います。


まずは野手です。

ポジションでは,きっちり埋まるだけのメンバーがいると思います。

キャッチャー鶴岡,ファースト栗原,セカンド賢介,サード鳥谷,ショートが川崎,外野は青木,糸井,マートンがいいと思います。

もしもDHありだとすれば,藤井あたりを入れるのがいいのかなと思います。

打順はまず,クリーンアップは栗原,糸井,マートンで構成するのがいいと思います。

1番青木,2番鳥谷,3番マートン,4番栗原,5番糸井,6番賢介,7番藤井,8番鶴岡,9番川崎という打順はいかがでしょうか。

首位打者&盗塁王の青木が出塁して,私が思う最強の2番打者である鳥谷がつなぐという名球会コンビの1,2番(鳥谷の2番についての考えは,「打順を考えてみます 2番編」をクリックしてご覧ください)。

そして,長打力もある安打製造機のマートンから,栗原の長打力,糸井の超人的パワーで得点を取っていきます。

そこに,俊足糸井と賢介で再びチャンスメイクして,藤井で得点を狙いに行く。

最後の川崎から,再びチャンスメイクをしていくという形の打順が考えられます。

下位打線の得点力が少々薄弱なのと,絶対的な大砲がいないというのが難点かなと思います。

それでも機動力と,「マシンガン打線」並みのヒット連発いうスタイルは,十分に得点能力を有する打線になると思います。


ベンチ選手についてはどうでしょうか?

捕手は鶴岡の他に,今もベンチ捕手を務めている高谷もいます。

他には代走と守備要員で脇谷もいます。

これだけでは物足りないので,新たに選手を集めてみたいと思います。

他にこの世代で集めるにあたって,私なりに「この選手,そういえばベンチ選手に定着したことあるな」という人を集めてみます。

代打は高山久,中村真人がいいのではないかと思います。

代走は森山周,田中一徳,野口祥順もいて,守備要員にもなると思います。

全体的に見ますと,やはり長打力がベンチでも薄弱かなと思うものです。

一方で,ベンチでも機動力は十分に確保でき,守備交代に困ることもないと思います。


今回,初めてOBからベンチ選手を選んでみました。

スタメンは「規定打席達成経験者」で集めると,割と組めるものです。

一方でベンチ選手は,何を基準にしたらいいのか難しいです。

何試合以上出場経験なのか,ベンチで2桁盗塁など数字で選びにくいのです。

スタメン選手より選抜が難しいと改めて分かりました

今回は,私の印象や数字を見て「私なりの感覚」を中心に選んでみました。

今後書いていくうちに,何かしらの基準を見つけるのかもしれません。


今度は投手を見てみます。

先発はどうでしょうか?

先発の柱は,日米通算170勝の岩隈と日本通算98勝のメッセンジャーがいます。

この二本柱に新人王の川島と正田と小松,2桁勝利経験者の朝倉,左腕の中山というローテが組めます。

柱がしっかりしているという点で,確実に星を稼げるのは心強いと思います。

あとは過去のいいところで勝負ということになるのかと思います。

先発の柱は,その世代で2人いれば十分なのでしょうか?

それは,他の世代も見てみれば分かるのかもしれません。


リリーフ投手はどうでしょうか?

クローザーは,日本記録の54セーブを挙げたサファテが君臨します。

もう,これで9回は盤石だと思います。

万が一に備えて馬原や岸田もいます

セットアッパーは馬原か岸田がいいかなと思います。

8回に君臨したことがないですけど,クローザーに定着したことがあるということで,最もセットアッパーに近いかなと思って選びました。

あとは右で渡辺と岡本,左は石井,高木,青木高,高宮,筒井,最優秀中継ぎになったことのある川崎雄がいます

リリーフについては,それなりにメンバーが揃っているのではないでしょうか?

特に,これ以上いるかな?」というくらい左腕が集まっています

こうした選手で7,8回をしのぎ,9回のサファテにどうつなぐかの起用法が勝利のリレーになると思います。


ということで,以上この世代のメンバーでどのようなチームになるのか考えてみました。

その要点をまとめます。


1.長打力は薄弱なものの,ベンチを含めて機動力と安打連発で得点を狙う打線になる

2.先発と抑えに柱がいて,あとのメンバーでいかに柱を支えるのかという投手陣



この世代だけでメンバー構成すると,このような戦い方になると考えられるのです。


最後に,この世代のメンバーを見て思ったことを書きます。

この世代,伝説を作った選手が多いと感じるのです。

まず,200安打達成者が青木とマートンの2人います。

マートンは初めて超レジェンドのイチローの記録更新し,青木は史上初の2回の200安打を達成しました。

鳥谷はショートでシーズン最多打点と,最長フルイニング出場を記録しました

サファテはシーズン最多セーブの日本記録を作りました

岩隈は23年ぶりの21勝を記録しました

何ともまぁ,ここまで記録で伝説を作った選手が集まっています。


そして,海に渡った選手も4人います。

青木,川崎,賢介,岩隈で,その中で賢介以外はマリナーズに所属したことがあります。

同世代で同じチームに3人いる,こんな運命があるのでしょうか?(青木と岩隈はチームメイトの時期あり)


侍ジャパンは,2006年のWBCで青木,川崎,馬原が選ばれ,優勝に貢献しました(馬原は石井弘寿の追加招集)。

当時は早く芽を出した選手が,若い力でチームに貢献しました

この時はイチローや小笠原道大など,年上の選手に引っ張ってもらう感じだったと思います。

08年の北京五輪では川崎と青木が選ばれました。

09年のWBCでは川崎,青木,岩隈,小松,馬原,栗原の6人も侍ジャパンとなり,2連覇に貢献したのです(栗原は村田修一の追加招集)。

「この世代,最強か?」というくらいに選ばれました

松坂世代でもかなり選ばれたので,2世代で相当力になったのではないかと思います。

13年のWBCでは鳥谷と糸井が選ばれました。

この時は,青木,岩隈,川崎と侍メンバーが海を渡りました。

その一方で,中堅として風格を出してきた糸井と鳥谷が選ばれました

侍ジャパンでも,中堅として期待されていたと記憶しています。

17年のWBCでは,唯一のメジャーリーガー参戦で青木が最年長で選ばれたのです。

とうとう青木が最年長選手となったのです

こうしてWBCで足跡をたどりますと,若手から中堅,ベテランへとなっていく過程が見えてくるものです。


新人王は正田(2002年),川島(04年),青木(05年),小松(08年)の4人が選ばれました

これが多いのかどうかは,他の世代も見ないと分からないです。

ただ,直感的には多いと思います。


ということで,締めに入ります。

1981年生まれは,改めて黄金世代じゃないか?と思っておかしくないくらいに選手が集まっています

すごい選手というだけでなく,伝説を作った選手が集まっているのです。

世代別に記録を集めてみると,この世代が一番というものもあると思います。

サファテ,マートン,青木は球界に名前が残るものを残しています。

青木は2019年シーズン終了時で,通算打率トップとなっています。

この後どこまで現役を続けるかで,トップで終わるかどうかは変わります。

このままトップとなれば,この世代でまたしても伝説を作ることになります。

もしかして,3回目の200安打があるのでしょうか?

サファテが250セーブを達成し,史上初の外国人投手の名球会入りとなるのでしょうか?

この世代,もう少しだけ伝説を作る可能性もあるのです。


松坂世代には,松坂本人をはじめ記憶に残る選手が多い印象があります。

そうなれば1つ下のこの世代は,伝説という「記録に残る世代となるのでしょうか?

記憶の「松坂世代」と,記録の「青木・岩隈世代」(仮)としておきますか。

そんな対比ができるのでしょうか?


この世代,いよいよ絶滅の時が近いです。

残った8人は,どのようなものを残して引退するのでしょうか?

さらなる伝説を作るのでしょうか?

全ての選手が引退した時,「こここそホントの黄金世代」となるのでしょうか?

今後も,この世代に注目できると思えます。



開幕はいつか来ると信じて,読んで頂いた皆さんの何かの足しになればと願っています。

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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

大魔神2世候補からコーチへ 牛田成樹

今回は,久々に「ホントの黄金世代」シリーズを書いてみたいと思います。

その動機は,読んでいくことでご理解できるかなとは思います。

第21弾は,横浜ベイスターズでプレーした牛田成樹です。

それでは,よろしくお願い致します。


日本のプロ野球界で,親子2世に渡って活躍したケースは見かけません。

「長嶋2世」である一茂,「野村2世」である克則。

何故か,アメリカと違って2世で活躍したケースは見当たりません。

しかし,親子でなくとも「〇〇2世」と言われることがあります。

それは偉大な先人とプレースタイルが似ていることで,そう呼ばれることがあります

左打で一本足打法なら「王2世」と呼ばれるのかもしれません。


かつて,「ハマの大魔神」として絶対的なクローザーを務めた佐々木主浩。

そんな佐々木のプレースタイルと似ていることから,この男は「大魔神2世」と言われていたのかもしれません。

横浜ベイスターズでプレーした,牛田成樹です。

最速150キロ近い直球と,大小2種類のフォークボールで三振を築いていく投球スタイル。

その中で,時折スローカーブも交えていきます。

ベイスターズにいることを含めて,まさに「大魔神2世」と言われていいスタイルだと思います。


そんな牛田が,2020年シーズンから古巣ベイスターズで二軍投手コーチを務めます

そして,牛田もこの世代に該当するのです。

ということで,今回は牛田をこの世代の選手として取り上げてみました。


徳島県小松島市に生まれた牛田は,徳島商業高校で3年時に甲子園に出場しました

徳島商業には,林義一,板東英二,広野功,川上憲伸とそうそうたる野球人を輩出してきました。

野球以外では,内閣総理大臣となった三木武夫,シンガーソングライターで活躍中の米津玄師も出身です。

そうした高校が牛田の母校なのです。

大学は明治大学に進出して,奇しくも高校と大学ともに川上と同じです。

大学での活躍が評価され,2003年ドラフト4位で横浜ベイスターズに入団しました。


1年目と2年目は,ともに2試合の登板でした。

3年目の06年に,牛田は頭角を現してきます。

本来はリリーフ投手ですが,ファームでは先発をすることもありました。

先発で好投したこともあり,一軍でも先発起用されたことがあります。

巨人戦で8回2失点の好投で,プロ初勝利を挙げます。

この年は28試合(先発7試合)登板し,3勝3敗,86奪三振,防御率2.98という成績でした。

奪三振数が投球回を上回る,「ドクターK」の才能を見せてきました

フォーク主体の投球スタイルで,リリーフが中心の起用。

そうした点で,前年で引退した大魔神・佐々木主浩を連想したファンもいるのではないでしょうか?

奪三振が多いということもあり,牛田に「大魔神2世」という期待を抱いてもおかしくはないかなと思います。

しかし,翌年は急性大腸炎もあり,9試合の登板に終わりました。

08年も骨折で出遅れるアクシデントがありました。

しかし,その後戦列に復帰し,23試合登板を果たすことができました。

今度こそ飛躍かと思いましたが,09年は4試合の登板に終わりました。

この段階で,牛田に対する期待はもはやなくなってきたのではないかと思います。


2010年,牛田は捲土重来をかけたシーズンにしたのかもしれません。

さすがに危機感を抱いていたに違いないと思います。

この年から,投手コーチとして手腕を発揮していた尾花高夫が監督となりました。

OP戦で好投すると,クローザーの山口俊へとつなぐセットアッパーとして開幕から投げました。

尾花の手腕もあるのか,牛田をはじめ,この年のリリーフ陣は充実していました。

江尻慎太郎,真田裕貴,牛田を中心に,クローザー山口につないでいきました。

野村弘樹投手コーチは,この4人のことを「クワトロS」と名付けました。

Shintaro(江尻),Sanada(真田),Shigeki(牛田),Shun(山口)の頭文字から取ったものです。

途中で離脱はしたものの,この年自己最多の41試合に登板しました

2勝1敗,23ホールド,69奪三振,防御率1.21の成績でした。

1年間定着すれば,ホンマに「大魔神2世」になれるような成績でした。

この年は,牛田にとって手ごたえをつかめたシーズンになったと思います。


翌年,牛田は腰痛もあり開幕からは出遅れました。

それでも,復帰してからはセットアッパーとして投げ続けていました。

ところが,夏場に入ると打ち込まれるシーンが目立つようになりました。

最終的には自己最多の45試合に登板したものの,19ホールド,61奪三振,防御率3.69でした。

成績自体は,前年を下回るものとなってしまいました

12年は,運営母体がDeNAになり,チーム名も「横浜DeNAベイスターズ」となりました。

中畑清監督のもと,新たなスタートを切ることとなりました。

牛田にとっても,気持ちを新たにするところがあったと思います。

しかし,インフルエンザで出遅れたこともあり,この年はわずか5試合登板に終わりました。

13年は一度も一軍登板することなく,とうとうオフには戦力外通告を受けました。

そして,そのまま引退を表明することとなりました。

現役生活10年,32歳でグラブを置いたのです。


しばらくのブランクを経て,15年から地元・徳島インディゴソックスの投手コーチに就任しました

独立リーグとはいえ,牛田はコーチになることができました。

そこで指導した選手には,現在中日で投げている木下雄介もいます。

2年間務めて,16年オフに退任となりました。

その後,牛田が何をしていたのか具体的にはつかみにくかったです。

しかし,昨年のベイスターズのベースボールスクールの指導をしていたとのことです。

そうした指導歴を見ていたのか,2020年シーズンから牛田はベイスターズの二軍投手コーチに就任となりました。

7年ぶりに,本格的にベイスターズに帰ってきたのです。

徳島での指導と,子供たちに指導した経験を,今度はプロで活かす時が来たのです。


牛田は,度々故障したこともあり,現役時代は満足にプレーできなかったのかもしれません。

その中でも,「お化けフォーク」と言われるフォークと,緩いカーブを武器にしていました。

それで奪三振を稼いでいたという才能を見せていました。

それを見ていただけに,ファンの間では「大魔神の再来」を期待していたのかもしれません。


さぁ,いよいよ牛田に投手指導の時が来たのです。

自身は「大魔神2世」になり切れなかったです。

ならば,次なる「大魔神2世」を育てるコーチとして生み出せるのかもしれません。

来年で39歳と,まだまだ若いです。

その若さを活かす指導で,新たな投手スターを生み出すことができるのでしょうか?

帰ってきたのです,「大魔神2世候補」が。



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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

先にブレイクした同世代を追って 脇谷亮太

今回も,「ホントの黄金世代」シリーズを書いてみたいと思います。

第20弾は,読売ジャイアンツなどでプレーしていた脇谷亮太です。

それでは,よろしくお願い致します。


背番号には,様々な思いが込められて着けられることが多々あります。

その中には,偉大な先人を追いかけること,先人のような選手へという願いを込めることもあります

イチローの「51」,松井秀喜の「55」などは,先人によって偉大な番号となった例です。


この男は,先人ではなく同世代の選手にあやかる願いで背番号を変えたことがあります

読売ジャイアンツなどでプレーした,脇谷亮太です。

俊足を活かした走塁で,相手にプレッシャーを与える。

内外野問わずにどこでも守るユーティリティープレーヤーでした。

脇谷は埼玉西武ライオンズでもプレーして,それから巨人に復帰しました。

実は,西武に行ったのはFAの人的補償によるもので,巨人に復帰したのはFA宣言を行使してのことなのです。

人的補償を受けた選手がFAで移籍する初の事例なのです。


大分出身の脇谷は,柳ヶ浦高校,日本文理大学,NTT西日本と渡り歩きました。

社会人野球で俊足の三塁手として,プロに注目されるようになりました。

2005年大学・社会人ドラフト5位で読売ジャイアンツに入団しました。

この年,同じくNTT西日本から藤井淳志,齊藤信介(いずれも中日),岸田護(オリックス),山崎隆広(楽天)と,5人指名されたことが話題となりました。

背番号「57」からのスタートです。

社会人出身ということもあり,足で即戦力の期待はありました。

監督に復帰したばかりの原辰徳は,二遊間の仁志敏久と二岡智宏と競わせることをほのめかしました


06年の1年目,脇谷はファームで活躍を見せて,6月には一軍初出場しました。

デビュー戦で3塁打を放ち,チームのサヨナラ勝ちに貢献するのです。

さらに斉藤和巳の完全試合を崩す,チーム唯一の内野安打も放ちました。

その後,脇谷は牽制でアウトとなり,和巳は27人完封の「準完全試合」となりました。

シーズン後半からは,1番セカンドに定着するのです。

1番脇谷,2番鈴木尚広の俊足コンビは,「新たな巨人」として話題を呼びました

最終的に脇谷は60試合で226打席立ったのです。

打率.270,本塁打1,打点11と,即戦力の片鱗を見せることができたのです。

実際,セカンドのレギュラーを務めていた仁志は,この年のオフにトレードで横浜に移籍しました。

レギュラーを追い出しただけに,脇谷への期待は高まっていたと思います


翌年,原辰徳のある願いから,脇谷の背番号が変わるのです。

「同年代で同じく1番打者の青木宣親を目標にしてほしい」という願いで「23」となりました

青木と言えば,当時ヤクルトで不動の1番打者として活躍していました。

05年に1994年のイチロー以来の200安打達成,首位打者,新人王と2年目から偉大な記録を作りました。

06年も盗塁王を獲得するなど,ヤクルトの新たなリードオフマンとして名をあげていました。

その青木にあやかってほしいということで,同じ背番号を脇谷が着けることとなったのです。

このことを,当時脇谷は知っていたのでしょうか?

知っていたとしたら,「同世代の選手にあやかれ」というのに,どのような思いを抱いたでしょうか?

活躍しているとはいえ,先人ではなく同年代の選手です。

プロ入りは青木が早かったですが,年齢は同じです(脇谷は81年11月,青木は82年1月生まれ)。

ちょっと複雑な思いだったのかもしれません。


背番号変更するくらいの期待があっても,脇谷のライバルは手ごわかったです。

セカンドにはベテランの木村拓也に,ルイス・ゴンザレスもいました。

2人と併用される形で,脇谷は主にセカンドや代走で起用されました。

91試合出場し,打率.282,1本塁打,14打点,8盗塁の成績でした。

出場機会は増えましたが,打席数は前年より減少しました。

それでも前年以上の成績を出すことができたのです。

08年はキムタクに加えて,寺内崇幸の台頭がありました。

56試合出場,打率.208,1本塁打,8打点,4盗塁と,全てにおいて前年を下回る成績でした。

CSや日本Sには出場できるものの,なかなかレギュラーとはなりませんでした。

09年はキムタクの不調もあり,脇谷の出番が増えました。

89試合出場,打率.268,2本塁打,16打点,5盗塁と盛り返しを見せたのです。

CSfinalでは3打数1安打で,シリーズMVPに選ばれるのです。

リーグ3連覇となる優勝,日本一に貢献することとなったのです。


そして2010年,脇谷は飛躍するのです。

前年限りでキムタクが引退したこともあり,脇谷の出番が増えたのです(キムタクはこの年からコーチとなり,4月7日に亡くなりました)。

プロ初となる満塁ホームランも放ちました。

132試合出場し,打率.273,7本塁打,43打点,28盗塁と大きく成績を伸ばしたのです。

規定打席にも達し,8三塁打はリーグトップでした。

2番セカンドとして,チーム最高盗塁を記録し,脇谷はようやくレギュラーとなれたのです。


11年,脇谷はプロで初めて「2番セカンド」として開幕スタメンに選ばれました。

4月の阪神戦で,脇谷に話題が集まる出来事が起こります。

クレイグ・ブラゼルが打ち上げた打球を,脇谷は一度落球してから捕りました。

このプレーに,審判はフライアウトを宣告したのです。

阪神監督の真弓明信が抗議しましたが,判定は覆りませんでした。

騒動となったのは,この後のことです。

VTRを見る限り,脇谷は明らかに落球していました。

この判定について,脇谷は新聞の取材でこうコメントしました。


「捕りましたよ。自分の中ではスレスレのところでやってますから。VTR?テレビの映りが悪いんじゃないですか」


このことで,脇谷は阪神ファンを中心に批判を浴びるのです。

このことには賛否両論が集まり,脇谷はある意味注目を集めたのです。

この件については,最後の試合となったファーム日本選手権の阪神戦でライトスタンドに一礼しました

この時に脇谷は誤審を認めており,自分の行動で傷つけたことを言及したのです。


そうしたこともありましたが,脇谷は打撃不振になっていきました。

そして,藤村大介にセカンドの座を奪われるようになるのです(この年,藤村は盗塁王になりました)。

その後,右手の骨折で戦線離脱し,オフには自由契約が通告されるのです。

脇谷は右肘のトミー・ジョン手術を決行し,育成選手として再契約することとなりました

12年は右肘のリハビリに費やすこととなりました。

ファームの試合に出られるようになり,この年一軍出場はありませんでした。

オフに支配下登録され,背番号は同じく「23」で再出発となりました。


育成から這い上がった13年,脇谷は進退をかけてシーズンに挑みました。

2年ぶりに「8番セカンド」として開幕スタメンを勝ち取ったのです。

そして,開幕戦でお立ち台に立つ活躍を見せたのです。

プロ初となるサヨナラヒットも放ちました。

しかし,この時脇谷は32歳です。

中井大介など若い選手の台頭もあり,出場数は思ったより伸びませんでした。

49試合出場し,打率.244,8打点,3盗塁の成績でした。

育成からの復活としては悪くないとは思いますが,果たして脇谷本人,ファンはこの成績をどう思ったのでしょうか?

そして,オフに脇谷は埼玉西武ライオンズへ移籍となります

巨人がFAで片岡治大を獲得し,その人的補償で西武が脇谷を指名したのです。

片岡が着けていた「7」で,脇谷の新天地が始まったのです。


西武での1年目となる14年,脇谷は「6番ファースト」で開幕スタメンとなったのです。

菊池雄星がこの年の初勝利を挙げたときは,決勝適時打を放った脇谷と共にお立ち台に立ったのです。

西武で脇谷はセカンドではなく,主にサードやファーストで出場したのです。

雄星とお立ち台に立った時も,サードでスタメン出場だったのです。

96試合出場,2本塁打,20打点,4盗塁と,間違いなく西武に必要とされていた」という成績を残したのです。

15年は,当初エルネスト・メヒアの守備固めが主でしたが,打撃が好調もありスタメン出場の機会が増えました。

浅村栄斗に代わって,3番でスタメン出場したこともあるくらいです。

終盤こそ,右足首の骨折でそのままシーズンを終えることとなりました。

それでも5年ぶりとなる100試合以上の出場を果たすのです。

118試合出場,打率.294,3本塁打,22打点,4盗塁の成績を残しました。

オフに脇谷は,FA宣言を行使することにしました。

新天地に選んだのは,かつて所属していた読売ジャイアンツなのです。

脇谷はFAの人的補償による移籍経験のある選手で初のFA移籍となり,人的補償で出された球団に復帰ということとなったのです。

巨人にとっては初のFAでの出戻りとなったのです。

この年限りで引退した井端弘和が着けていた「2」で,同じく引退した高橋由伸新監督の下で,脇谷の新たな巨人でのチャレンジが始まりました。


3年ぶりとなる巨人でのプレーとなる16年。

脇谷はプロで初となるサヨナラホームランを放ちました。

しかし,シーズン全体では不本意な成績に終わりました。

54試合出場,打率.157,1本塁打,7打点,盗塁は0でした。

17年から,「2」をFAで来た陽岱鋼に譲り,自身は前年で引退した尚広の「12」で再出発しました。

セカンドでスタメン出場の時もありましたが,主な起用はファースト阿部慎之助の守備固め代打でした。

52試合出場し,打率.250,本塁打と打点と盗塁は全てゼロという数字でした。

18年,脇谷は捲土重来を期したに違いないです。

同世代の選手が次々と去っていく中,脇谷は37歳で現役を過ごすことができたのです。

しかし,一軍出場はなく,9月に脇谷はこの年限りでの現役引退を発表しました。

最後の公式戦は,ファームでの試合で申告敬遠だったのです。

かつてのチームメイトである日ハムの矢野謙次も,この年限りで引退を発表したのです。

矢野が本塁打を打つ中,脇谷の最後は申告敬遠とあっけない感じで終わったのです。

前述の通り,最後の試合はファーム日本選手権の阪神戦でした。

最後はファーストゴロで,脇谷の13年に渡る現役生活は終わりを告げました

今季から,脇谷は巨人のスカウトとして活動しています。


脇谷が入団した当初の監督である原は,ベンチ選手を重視する采配でした。

詳しくは,「監督のバックボーン 原辰徳編」をクリックしてご覧ください。

確かに,脇谷がレギュラーに定着したのは2010年をはじめ少しの期間でした。

それでも脇谷は,打撃,走塁,守備の全てにおいて必要とされる存在で居続けました

西武時代でも,試合数が増えるようになったのもその証だと思います。

脇谷は,第一次巨人時代でキムタクなどベンチ選手を見て,必要なものを感じていたのかもしれません。


脇谷の通算安打数は521です。

「あやかってほしい」と願った同年代の青木は,日米通算で名球会入りしています。

成績の差は天と地ほどの差であります。

それでも,最初の監督が原であり,キムタクなどベンチの選手が充実していました

だからこそ,脇谷は昨季まで13年間プレーできたのかもしれません。

青木みたいにはなれなくとも,脇谷は巨人と西武に必要とされる選手にはなれたのです。


第一次巨人時代,背番号「23」を着けていた時。

脇谷がどれだけ青木を意識していたのかは分かりません。

引退会見の時,「23」について脇谷は「力不足であんな選手にはなれなかったけど、大好きな背番号かなと思います」と語りました。

変に青木を追いかけなかったからこそ,脇谷はここまでできたのかもしれません。


脇谷の背番号変遷を見てみます。

西武時代は,入れ違いとなった片岡が着けていた番号をそのまま着けました。

俊足選手でセカンドという点は共通しており,西武ファンも受け入れやすかったのかもしれません。

巨人に復帰した時は,初の1桁番号である「2」です。

空いているとはいえ,この時は請われて巨人に来たのです。

巨人の誠意を込めた番号なのかもしれません。

復帰翌年からは,かつて少しの間1,2番コンビとして共にプレーした尚広の「12」を受け継ぎました。

「俺は尚広さんの分まで復活するぞ」という意識があったのかもしれません。


「23」になってから,脇谷の背番号には何かしらの縁やメッセージがあるように感じています

それはプレースタイル,成績など13年間で残したものでも示されているような気がします

今,脇谷は今季もプレーしている同年代を,どのように見ているのでしょうか?

そして,今後巨人でどのような活躍をするのでしょうか?

再び,ユニフォームを着るときが来るのでしょうか?



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それでは,またのお越しをお待ちしております。


皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。

「しくじった」からこそ指導者で… 小松聖

今回も,「ホントの黄金世代」シリーズを書いてみたいと思います。

第19弾は,オリックス・バファローズで投手を務めた小松聖です。

それでは,よろしくお願い致します。


今TVで「しくじり先生」という番組があります。

先日はカジサックこと,キングコング梶原雄太が出演していました。

私も番組を見ましたし,「カジサックチャンネル」を時々見ています。


この「しくじり先生」に,元プロ野球選手も出演したことがあります。

先生として新庄剛志と森本稀哲が出ました。

プロ野球界にも,こうした「しくじった」という人はたくさんいると思います

いや,そもそもしくじらずに生き抜くことができた人がいるのでしょうか?


この男は,現役時代を振り返って「しくじった」と考えています

オリックス・バファローズの小松聖です。

小松は2008年に新人王を受賞し,翌年の第2回WBCに選出されたのです。

この勢いのまま,オリックスに新たなエース誕生かと思われました。

しかし,輝いたのはわずかその期間でした。

世間では「若くしてWBCに出たから」などと,その原因をWBCという人が多いです。

確かに3月に開催されるWBCに向けて,選手は例年より早く調整しないといけないです。

また,日本の球とは違うものを使うので,それに慣れる練習も必要です。

そこで投球が狂って,修正ができなくなる可能性はあると思います。

では,小松本人はそう考えているのでしょうか?


福島県に生まれた小松は,県立勿来工業高校,国士舘大学,JR九州と渡り歩きました。

社会人で安定感のある投球が評価され,2006年ドラフト希望入団枠でオリックス・バファローズに入団しました。

プロ1年目が26歳になる時と,遅めのプロ入りでした。

1年目はリリーフで8試合登板し,1勝,2ホールド,防御率2.53と,ドライチの片鱗を見せることができました。

2年目の08年も,リリーフからスタートしました。

すると,途中で先発に転向となり,勝ち星を積み重ねていくのです。

交流戦で一度はリリーフに戻りましたが,リーグ戦再開後は先発に再転向となりました。

オールスターにも出場しました。

途中で転向が2度ありながら,シーズンで3度完投するという安定感振りを見せたのです。

規定投球回にも達しました。

最終的には,1995年の平井正史以来となる,球団13年ぶりの15勝を記録したのです。

奪三振151,防御率2.51と,こちらでも驚異的な数字を出したのです。

この年は,金子千尋,近藤一樹,山本省吾,小松の4人の2桁勝利カルテットが誕生したのです。

その中で小松はチームの勝ち頭となり,チーム初のCS進出となる2位に貢献したのです。

171票中170票と,ほぼ満票で新人王に選ばれました。


そして,翌年の第2回WBC日本代表に選ばれました

登板したのは1試合ですが,第2ラウンド1位決定戦で韓国相手に2回1/3を無失点の成績を出しました。

日本は優勝し,小松は金メダルを獲得したのです。

しかし,これが小松の輝いたときの終わりでした。

シーズンでは開幕投手に選ばれましたが,5回7失点という結果でした。

次の試合でも打たれたところで,小松は登録抹消となりました。

その後も復帰して投げてはいましたが,完投勝利の1勝のみに終わったのです。

17試合登板し,1勝9敗,防御率7.09という成績でした。

まさに,前年とは別人も別人といえるような成績でした。


2010年は岡田彰布監督の方針で,小松はリリーフに転向となりました。

抑えの候補にも挙がっていました。

開幕からはリリーフで投げていましたが,交流戦からは先発を務めるようになりました。

しかし,交流戦後からは打たれるシーンが目立つようになりました。

8月には疲労骨折が判明し,そのままシーズンを終えたのです。

29試合登板,5勝8敗,2ホールド,防御率4.77でした。

先発では13試合投げて,4勝7敗,防御率5.51でした。

一方,リリーフでは16試合投げて,防御率1.69の好成績だったのです。

この成績もあり,小松はこの後主にリリーフとして投げることになるのです。


11年は,とうとう一軍登板が1試合に終わったのです。

1アウトだけとって5失点,防御率は135.00という見るも無残な成績だったのです(アウト1つは犠牲フライ)。

ファームでは規定投球回に達しましたが,とうとう小松はファームが主戦場となったのです。

この年に子供が生まれたこともあり,小松は翌年捲土重来を期したに違いないです。

12年,小松は6月に一軍登録されました。

695日ぶりの白星を取ることができました。

21試合登板し,3勝5敗,2ホールド,防御率4.90と,完全復活とは言い難い成績でした。

特に先発9試合では,防御率6.14と以前と同じ傾向が出たのです。

13年は27試合全てリリーフで登板し,先発はとうとう一度もありませんでした。

1ホールド,防御率4.35と,またしても復活を告げるには遠い成績でした。

14年は,とうとう4試合の登板に終わり,この年の2位に貢献したと小松は言えなかったと思います。

15年は終盤近くに一軍登録されて,プロ初セーブも記録しました。

12試合登板し,1ホールド,1セーブ,防御率2.51でした。

果たして,この時「小松は復活しそう」と思ったファンはいたのでしょうか?


そして16年,小松は開幕一軍となったのです。

しかし,成績が振るわずに,とうとう小松はこの年限りでの引退を発表しました。

引退試合では先発し,楽天の島内宏明にヒットを打たれて,1アウトも取れずに降板しました。

最後の年は4試合登板に終わりました。

こうして,小松の10年のプロ野球選手人生は終わりを告げました。


翌年から,小松はオリックスの二軍投手コーチとなりました。

そして,今季も務めているのです。


10年間の中で,小松が輝いたのは08年と09年のWBCまででした。

2010年以降の7年間で上げた勝利数は8勝と,08年の半分くらいなのです。

同じ時期を生きたオリックスの投手では,活躍を続けた選手,復活した選手はたくさんいます。

活躍を続けた選手としては金子,平野佳寿,岸田護など挙げることができます。

復活した選手としては寺原隼人,馬原孝浩,木佐貫洋を挙げることができます。

この中には,14年の2位に貢献した選手もいます。

小松は復活も活躍も続けたわけでもなく,2位の躍進に貢献できませんでした。


あるコラムでは,小松のことを「しくじりエース」と表現されています。

そのコラムについては,こちらをクリックしてご覧ください(2019年9月18日アクセス)。

この時は16年の12月と,小松が引退してコーチ就任が決まった時です。


小松は09年のことについて語りました。

まず,コンディションが整わなかったことは確かだと語っています。

開幕投手に選ばれ,そこで打たれこまれたことで出鼻をくじかれたとのことです。

フォームの形が整わずに,修正法が分からなかったのです。

そのまま投げてしまったので,成績が別人のように悪化したのです。

では,それはWBCの影響なのでしょうか?

現役当時こそ,「それは関係ない」と言っていました。

その考えは,引退直後も同じだと語っているのです。


小松の2年目は,しっくりきたフォームで投げることができていたのです。

メカニック的にはまった感じがあったと語っています。

ところが,そのよい理由やポイント,悪くなる時のパターンやポイントを見つけてなかったのです。

いい時に「コツ」などのポイントを見つけることができなかったので,後に復活できなかったということです。

私なりに言うのなら,「何故よかったのか」をつかめなかったということかなと思います。


これは,小松に限ったことでも,野球界に限ったことでもないと思います。

「なぜ売れたのか」,「なぜブレイクしたのか」をつかめてない人は,「なぜ売れなくなったのか」も分からないと思います。

これが「一発屋」などと言われる人が,盛り返すことができない一因なのかもしれません。

「イケイケ」で行くことが多い人が陥りやすい落とし穴なのかもしれません。


それでも小松は,下を向くことなく取り組み続けました

本人が語るには,それで得たものがあるとのことです。

静かに去るかと思いきや,引退試合が用意されたのです。

本人が語るに,前を向いて踏ん張り続けたのを球団が見ていた。

だからこそ,このような終わり方になったのかもしれません。

引退試合があるだけ,球団が小松の功労を労った証だと思います。

小松は,プロ野球人生で確かな証を手にしたのです。


そんな小松は,「しくじった」経験をもとに指導したいと当時のコラムで語っています。

しっかりチェックポイントを見つけたオフに入るように」と,オフの過ごし方を選手に語ったのです。

自分のような選手にならないようにという願いがあるのです。

オフは完全なるオフではなく,自分を見つめなおす機会にする

そうするかどうかで,来季の結果はもう決まってくるのかもしれません。

今も小松は,そう考えているのかもしれません。


小松がコーチになって3年が経ちます。

小松の指導で,選手が開花したかどうかは分かりません。

それが分かるのは当事者同士だけのことであり,球団やファンは数字でしか評価できません。

「あの栄光は,何故起こったのか」,「そこから復活できなかったのは何故か」

そのような質問に,指導者となった小松は答えることができるでしょうか?

指導しながら分かることもあると思います。

そうした「しくじり」を,小松は今指導者として活かしているでしょうか?

その答えは,我々ではつかめないかなとは思います。


それでも,小松は現役時代と同様に前を向き続けていると思います。

そうでなかったら,3年もコーチはできないと思います。

それは確かという気はします。



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