今年は日本プロ野球誕生90周年というアニバーサリーです。
1934年に大日本東京野球倶楽部が発足し,ベーブ・ルースたちMLB代表と試合しました。
そこから職業野球の気運が高まり,36年から日本職業野球連盟としてリーグ戦が始まったのです。
そこから現在に至って,プロ野球は日本中で愛されるスポーツになっているのです。
ということで,当ブログでも不定期で歴史について書いてみようと試みます。
不定期なので,どれくらいの頻度になるのかは私にも分かりません。
一昨年に,村上宗隆の記録にちなんで,レジェンド小鶴誠についた書いたことがあります。
このような感じで書いてみようかなと思っています。
この90年の歴史を築いてきたレジェンドを,より多くの方に知ってもらいたいなと思っています。
今回書くのは,「青バット」と呼ばれた大下弘です。
それでは,最後までよろしくお願い致します。
ここに2本のバットがあります。
東京ドーム内にある野球体育博物館(現.野球殿堂博物館)を,かつて私が訪問した時に撮影したものです。
赤いバットと青いバットがあります。
この2本を使った2人の選手が,しのぎを削り合っていた時があったのです。
「赤バット」と呼ばれた読売ジャイアンツの川上哲治。
正確無比のバッティングコントロールで,弾丸ライナーを飛ばしていました。
そして,「青バット」と呼ばれた東急フライヤーズの大下弘。
天性の遠くへ飛ばす打球技術で,子供たちに夢を与えていました。
戦後間もないプロ野球は,この2人によって盛り上がり,築き上げたと言っていいと思うのです。
大下弘は,1922年12月15日に兵庫県神戸市で生まれました。
小学校,高等小学校と進学し,36年に台湾・高雄市に移住します。
ちょうど日本本国で,職業野球のリーグ戦が始まった年です。
41年12月に明治大学に進学するものの,徐々に足音が聞こえてきます。
そう,12月8日に真珠湾を攻撃したことで,太平洋戦争が始まったのです。
大下が進学したのは,学生の徴兵猶予の特権のためとも言われています。
しかし43年に大学のリーグ戦が中止になり,12月に学徒出陣を言い渡されます。
大下は航空隊を志願し,45年8月15日に終戦を迎えるのです。
大下は大学に復帰し,再びバットを持ち始めます。
あまりにも打球をポンポンと飛ばすことから,「ポンちゃん」というあだ名がついたのです。
大下の打球を飛ばす天性は,この頃から開花していたのです。
10月に大下は,明大の先輩である横沢三郎からプロ入りの勧誘を受けます。
戦後まもなく誕生した新球団・セネタース(現.北海道日本ハムファイターズ)に入団を決めます。
11月に職業野球東西対抗戦で大下は出場します。
この時,戦前の職業野球とは光景がまるっきり変わっているのです。
戦前は大学野球の方が盛んで,職業野球は玄人にしか好まれてなかったのです。
また,当時は野球を遊びだと思う傾向が強く,職業野球は「ろくな奴が行くところではない」と思われていたのです。
給料こそ一般職よりも高いものの,そのような価値観でプロ入りに反対する選手の親などもいたのです。
現に川上哲治も親にそう言われ,「兵役に入るまで」という条件で38年に巨人入りしたのです。
話を戻しますけど,戦後間もない頃になると子供が多く来るようになったのです。
戦後まもなく荒廃しきった日本,誰もが希望を求めていたのかもしれません。
そんな中で,大下は戦後初となる柵越えホームランを放ったのです。
それまでのホームランといえば,低いライナーで飛んだ球の延長線上のものか,ランニングホームランが相場でした。
対して大下の打球は,高い弾道から飛ばす虹のようなホームランなのです。
その打球が描くアーチは,戦後間もない人々に夢や希望を与えるものになったのです。
この瞬間から,日本人のホームランの概念が変わっていったのかもしれないのです。
46年にリーグ戦が再開され,大下のプロ1年目が始まります。
この時,大下23歳。
大下の虹のようなホームランに,多くの日本人は魅了されます。
それは子供や女性をも魅了し,大下は人気選手になっていくのです。
この年104試合出場し,打率.281,20本塁打,74打点,16盗塁を記録しました。
戦前のホームラン記録は,1938年秋の中島治康(巨人:この年,プロ野球史上初の三冠王)と39年の鶴岡一人(南海軍:現.福岡ソフトバンクホークス)の10本が最高でした。
それを戦後間もない新人がいきなりホームラン数を倍にしただけに,大下はプロ野球界に大きな衝撃を与えたのです。
本塁打2位の飯島滋弥も12本と記録更新していたものの,大下はそれすらも超えて圧勝のホームラン王だったのです。
いきなりホームランの最高記録が倍になったら,誰だって大きな衝撃を受けるはずです。
そうイメージすると,大下がとんでもない選手ということが想像しやすいかと思います。
そして大下はやがて,バットの色を青にします。
これはバットの色を赤にしていた川上哲治に対抗したものです。
並木路子の『リンゴの唄』の歌詞にある「赤いリンゴに(中略)青い空」をヒントにしたそうです。
一応参考に,『リンゴの唄』をYouTubeから引っ張ってきます(2024年2月19日アクセス)。
当時は歌も人々に希望を与えており,小さな歌声で魅了していたのが美空ひばりなのです。
そうして希望を与えるものとしてダブったから,赤バットと青バットが誕生したのかもしれません。
赤バットから放たれる弾丸ライナーと,青バットから放たれる虹のようなホームラン。
戦後間もないプロ野球,誰もが2人に夢中になっていたと思います。
哲治と大下,共に雑誌の表紙やめんこになったくらいです。
いかに子供たちに夢を与え,愛される選手になったかが分かるかと思います。
47年,この年は大下と哲治で激しい首位打者争いが繰り広げられたのです。
序盤,哲治は高打率を残すのに対し,大下はホームランを狙うあまり凡打が多くなるのです。
大下の打ち方は,MLBの伝説であるベーブ・ルースやルー・ゲーリッグと似ているのです。
構えて一度前へ大きく倒してから,後ろへ大きく持って行ってスイングするスタイル。
そのため,打球がバーンと大きく飛んでいくのです。
ただ,この打ち方はテイクバックからインパクトの間までに時間が掛かり,粗いバッティングになってしまうのです。
その弱点を突かれたため,大下の打率は高くなかったのです。
そこで大下は流し打ちを心がけるようになり,打率が上がってきたのです。
哲治と打率でデッドヒートを繰り広げたのです。
ところが,大下が作り上げた風潮によって,今度は哲治がスランプになったのです。
大下が大きな打球を飛ばすことで,周囲はホームランを期待するようになったのです。
哲治は40年に本塁打王になったことがあるものの,その数は9本でした(ちなみに,46年に10本塁打を放っています)。
大下の20本と比べると,まさに天と地ほどの差があるのです。
その周囲の「ホームラン,ホームラン」という声から,「これからはホームランを打たなければプロではない」という雰囲気になってきたのです。
その期待に応えようとするあまり,哲治の正確無比な打撃が狂ってきたのです。
最終的に哲治は,打率.309(3位),6本塁打,57打点でした。
一方大下は,打率.315,17本塁打,63打点と,全てで哲治を上回ったのです。
首位打者と本塁打王の二冠に輝いたのです(ちなみに打点王は,阪神の藤村富美男で71)。
そう,大下のホームランによって,世の中のホームランに対する認識,価値観が変わってきたのです。
大下は2年連続の本塁打王に輝き,その期待に応えたのです。
巨人,西鉄ライオンズ(現.埼玉西武ライオンズ),大洋ホエールズ(現.横浜DeNAベイスターズ)を優勝に導いた,名将・三原脩は生前語りました。
”日本の野球の打撃人を5人あげるとすると,川上,大下,中西,長嶋,王
3人に絞るとすれば,大下,中西,長嶋
そして,たった1人選ぶとすると,大下弘”
中西とは「怪童」と呼ばれる天才打者・中西太,長嶋茂雄と王貞治は説明不要ですね。
3チームを優勝に導いた名将が,大下をこうしたレジェンドよりも選ばれる打撃人と見ていたのです。
大下がいかに優れているのか,「天才」と言われるのかが分かる言葉だと思います。
ただ,「天才」と思われる大下ですけど,それは天性だけのものではありません。
確かに人気者になってからの大下は,多くの女性と豪遊するようになったと聞きます。
一方で,後に西鉄でチームメイトになる稲尾和久は,生前語りました。
大下はある日,トレパン一丁でバット一本持って外に出ます。
そして帰ってくると,汗ぐっしょりになっていたのです。
そう,汗まみれになるくらいバットを振ってから帰ってきたのです。
練習嫌いと言われた大下ですけど,単なる「天才」ではないのです。
実際,48年は練習不足で不振になっていたと言われています。
大下の登場によって,その後のプロ野球が変わってきます。
大下と哲治という戦後間もないスターによって,プロ野球は子供や女性をも魅了するようになるのです。
同時に,世間はホームランを求めるようになってきます。
やがて様々な打者が柵越えホームランに果敢に挑むようになり,記録が塗り替わっていきます。
48年に哲治と青田昇(巨人)が25本塁打を放ち,大下の記録を更新して本塁打王になります。
ところがその記録は翌年,藤村が46本塁打を放って大きく更新されたのです。
大下が20本塁打と記録を大きく更新してから間もなく,ついにその倍以上にまで到達したのです。
49年は藤村以外にも,別当薫(阪神)の39本,大下の38本,西沢道夫(中日)の37本と,30本塁打越えが4人もいたのです。
そして2リーグになった50年,セ・リーグ本塁打王の小鶴誠(松竹ロビンス)が51本塁打に到達したのです。
まさに,大下から「日本人のホームランの概念」が変わっていったのです。
周囲のホームランを求める声に変わり,やがて選手も柵越えホームランの量産を狙いに行き,記録を更新してもそれ以上のホームランを求める。
そして,それを見た子供たちもホームランに憧れるようになったのです。
大下の戦後間もない虹のようなアーチがなければ,世はホームラン野球になってなかったのかもしれないのです。
人々が大下に魅了したのも,戦後間もないタイミングだったからだと思います。
敗戦で焼け野原になり,多くの人が絶望的な気持ちになっていたと想像します。
その中で様々な娯楽が復活し,プロ野球もその1つでした。
人々は再び見られる娯楽に,生きる希望を求めていたのかもしれません。
そんな時に希望の象徴ともいえる「虹」のような打球を,大下が見せたのです。
こうしたことが重なった奇跡を,大下が生み出したのではないかと私は思うのです。
後に大下と西鉄でチームメイトになる豊田泰光が,生前に語ったものがあります。
豊田が語るには,「長嶋によって,プロ野球が初めて”カラー”になった」とのことです。
打っても走っても守っても,絵になって人々を魅了していたのが長嶋です。
その土体となる「白黒」を作ったのが,哲治と大下だと私は思うのです。
戦後間もない2人のスターが,子供や女性のプロ野球人気を上げました。
そうして戦前より人々がプロ野球に目が行くようになったという土台がある。
そこに,長嶋がどんなプレーでも映える野球を見せます。
長嶋に魅了するようになったのは,その前に哲治と大下が築いた「土台」があったからだと思うのです。
哲治と大下が白黒テレビを作り,長嶋がカラーにしたということでしょうか。
哲治と大下は,こうした点でプロ野球史に欠かすことのできないレジェンドなのです。
それでは,川上哲治と合わせて,その後の大下を語って締めることにします。
その後哲治は,アベレージヒッターとして巨人の中心打者を務め続けます。
1956年には,プロ野球史上初の通算2000本安打を達成します(大正生まれのため,名球会には未加入)。
「ボールが止まって見える」という言葉を残し,「打撃の神様」と呼ばれるようになったのです。
そして58年に現役を引退したのです。
大下はその後,49年に38本塁打,102打点と自己記録を更新します。
50年に打率.339で2度目の首位打者に輝き,別当の三冠王を阻止したのです。
51年は89試合で26本塁打,打率.383で3度目の本塁打王と首位打者に輝くのです。
この時の長打率は.704で,OPSは何と1.169というとんでもない数字なのです。
打率も2位に圧倒的な差をつけて,70年に張本勲が3毛差で抜くまで日本記録だったのです。
52年から西鉄でプレーし,54年の優勝,56年から58年の優勝・日本一3連覇に貢献します。
59年,打率.303を残しながら現役を引退します(規定打席には未到達)。
通算成績は,打率.303,1667安打,201本塁打,861打点,146盗塁でした。
引退後は評論家などを経て,61年に阪急ブレーブス(現.オリックス・バファローズ)で打撃コーチを1年務めます。
68年には古巣・東映フライヤーズの監督になるものの,シーズン途中で辞任します。
74年から75年に大洋でコーチを務め,その後は少年野球や女子野球のチーム監督を務めたのです。
1979年5月23日,56歳で亡くなりました。
美空ひばり,笠置シズ子,川上哲治と共に,戦後復興のシンボルとなったスーパースターの死は,大きく取り上げられたのです。
翌80年,小鶴や千葉茂と共に野球殿堂入りを果たしたのです。
戦後間もない頃,人々の心は荒んでいました。
そんな中で大下が描く虹のようなホームランが,人々に希望を与えました。
それはプロ野球界を変えることにつながり,ホームランの時代を切り開いたのです。
大下の20本塁打が戦前の記録なら,もしかしたら日本のプロ野球は大きく違っていたのかもしれません。
そう考えますと,時代が大下を必要としていたと言えそうなのです。
そんな大下が引退後に語った言葉で締めます。
”私は野球には天才も名人もいないと思っています。
天才とかなんとかは周りが言うことであって,実際は存在しませんよ。
私だって凡才です。
ONといえども凡人の中の非凡の程度じゃありませんか”
「天才」とは何か,いや「天才」なんていないということを示した言葉だと思うのです。
最後までご覧頂き,ありがとうございます。
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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。
1934年に大日本東京野球倶楽部が発足し,ベーブ・ルースたちMLB代表と試合しました。
そこから職業野球の気運が高まり,36年から日本職業野球連盟としてリーグ戦が始まったのです。
そこから現在に至って,プロ野球は日本中で愛されるスポーツになっているのです。
ということで,当ブログでも不定期で歴史について書いてみようと試みます。
不定期なので,どれくらいの頻度になるのかは私にも分かりません。
一昨年に,村上宗隆の記録にちなんで,レジェンド小鶴誠についた書いたことがあります。
このような感じで書いてみようかなと思っています。
この90年の歴史を築いてきたレジェンドを,より多くの方に知ってもらいたいなと思っています。
今回書くのは,「青バット」と呼ばれた大下弘です。
それでは,最後までよろしくお願い致します。
ここに2本のバットがあります。
東京ドーム内にある野球体育博物館(現.野球殿堂博物館)を,かつて私が訪問した時に撮影したものです。
赤いバットと青いバットがあります。
この2本を使った2人の選手が,しのぎを削り合っていた時があったのです。
「赤バット」と呼ばれた読売ジャイアンツの川上哲治。
正確無比のバッティングコントロールで,弾丸ライナーを飛ばしていました。
そして,「青バット」と呼ばれた東急フライヤーズの大下弘。
天性の遠くへ飛ばす打球技術で,子供たちに夢を与えていました。
戦後間もないプロ野球は,この2人によって盛り上がり,築き上げたと言っていいと思うのです。
大下弘は,1922年12月15日に兵庫県神戸市で生まれました。
小学校,高等小学校と進学し,36年に台湾・高雄市に移住します。
ちょうど日本本国で,職業野球のリーグ戦が始まった年です。
41年12月に明治大学に進学するものの,徐々に足音が聞こえてきます。
そう,12月8日に真珠湾を攻撃したことで,太平洋戦争が始まったのです。
大下が進学したのは,学生の徴兵猶予の特権のためとも言われています。
しかし43年に大学のリーグ戦が中止になり,12月に学徒出陣を言い渡されます。
大下は航空隊を志願し,45年8月15日に終戦を迎えるのです。
大下は大学に復帰し,再びバットを持ち始めます。
あまりにも打球をポンポンと飛ばすことから,「ポンちゃん」というあだ名がついたのです。
大下の打球を飛ばす天性は,この頃から開花していたのです。
10月に大下は,明大の先輩である横沢三郎からプロ入りの勧誘を受けます。
戦後まもなく誕生した新球団・セネタース(現.北海道日本ハムファイターズ)に入団を決めます。
11月に職業野球東西対抗戦で大下は出場します。
この時,戦前の職業野球とは光景がまるっきり変わっているのです。
戦前は大学野球の方が盛んで,職業野球は玄人にしか好まれてなかったのです。
また,当時は野球を遊びだと思う傾向が強く,職業野球は「ろくな奴が行くところではない」と思われていたのです。
給料こそ一般職よりも高いものの,そのような価値観でプロ入りに反対する選手の親などもいたのです。
現に川上哲治も親にそう言われ,「兵役に入るまで」という条件で38年に巨人入りしたのです。
話を戻しますけど,戦後間もない頃になると子供が多く来るようになったのです。
戦後まもなく荒廃しきった日本,誰もが希望を求めていたのかもしれません。
そんな中で,大下は戦後初となる柵越えホームランを放ったのです。
それまでのホームランといえば,低いライナーで飛んだ球の延長線上のものか,ランニングホームランが相場でした。
対して大下の打球は,高い弾道から飛ばす虹のようなホームランなのです。
その打球が描くアーチは,戦後間もない人々に夢や希望を与えるものになったのです。
この瞬間から,日本人のホームランの概念が変わっていったのかもしれないのです。
46年にリーグ戦が再開され,大下のプロ1年目が始まります。
この時,大下23歳。
大下の虹のようなホームランに,多くの日本人は魅了されます。
それは子供や女性をも魅了し,大下は人気選手になっていくのです。
この年104試合出場し,打率.281,20本塁打,74打点,16盗塁を記録しました。
戦前のホームラン記録は,1938年秋の中島治康(巨人:この年,プロ野球史上初の三冠王)と39年の鶴岡一人(南海軍:現.福岡ソフトバンクホークス)の10本が最高でした。
それを戦後間もない新人がいきなりホームラン数を倍にしただけに,大下はプロ野球界に大きな衝撃を与えたのです。
本塁打2位の飯島滋弥も12本と記録更新していたものの,大下はそれすらも超えて圧勝のホームラン王だったのです。
いきなりホームランの最高記録が倍になったら,誰だって大きな衝撃を受けるはずです。
そうイメージすると,大下がとんでもない選手ということが想像しやすいかと思います。
そして大下はやがて,バットの色を青にします。
これはバットの色を赤にしていた川上哲治に対抗したものです。
並木路子の『リンゴの唄』の歌詞にある「赤いリンゴに(中略)青い空」をヒントにしたそうです。
一応参考に,『リンゴの唄』をYouTubeから引っ張ってきます(2024年2月19日アクセス)。
当時は歌も人々に希望を与えており,小さな歌声で魅了していたのが美空ひばりなのです。
そうして希望を与えるものとしてダブったから,赤バットと青バットが誕生したのかもしれません。
赤バットから放たれる弾丸ライナーと,青バットから放たれる虹のようなホームラン。
戦後間もないプロ野球,誰もが2人に夢中になっていたと思います。
哲治と大下,共に雑誌の表紙やめんこになったくらいです。
いかに子供たちに夢を与え,愛される選手になったかが分かるかと思います。
47年,この年は大下と哲治で激しい首位打者争いが繰り広げられたのです。
序盤,哲治は高打率を残すのに対し,大下はホームランを狙うあまり凡打が多くなるのです。
大下の打ち方は,MLBの伝説であるベーブ・ルースやルー・ゲーリッグと似ているのです。
構えて一度前へ大きく倒してから,後ろへ大きく持って行ってスイングするスタイル。
そのため,打球がバーンと大きく飛んでいくのです。
ただ,この打ち方はテイクバックからインパクトの間までに時間が掛かり,粗いバッティングになってしまうのです。
その弱点を突かれたため,大下の打率は高くなかったのです。
そこで大下は流し打ちを心がけるようになり,打率が上がってきたのです。
哲治と打率でデッドヒートを繰り広げたのです。
ところが,大下が作り上げた風潮によって,今度は哲治がスランプになったのです。
大下が大きな打球を飛ばすことで,周囲はホームランを期待するようになったのです。
哲治は40年に本塁打王になったことがあるものの,その数は9本でした(ちなみに,46年に10本塁打を放っています)。
大下の20本と比べると,まさに天と地ほどの差があるのです。
その周囲の「ホームラン,ホームラン」という声から,「これからはホームランを打たなければプロではない」という雰囲気になってきたのです。
その期待に応えようとするあまり,哲治の正確無比な打撃が狂ってきたのです。
最終的に哲治は,打率.309(3位),6本塁打,57打点でした。
一方大下は,打率.315,17本塁打,63打点と,全てで哲治を上回ったのです。
首位打者と本塁打王の二冠に輝いたのです(ちなみに打点王は,阪神の藤村富美男で71)。
そう,大下のホームランによって,世の中のホームランに対する認識,価値観が変わってきたのです。
大下は2年連続の本塁打王に輝き,その期待に応えたのです。
巨人,西鉄ライオンズ(現.埼玉西武ライオンズ),大洋ホエールズ(現.横浜DeNAベイスターズ)を優勝に導いた,名将・三原脩は生前語りました。
”日本の野球の打撃人を5人あげるとすると,川上,大下,中西,長嶋,王
3人に絞るとすれば,大下,中西,長嶋
そして,たった1人選ぶとすると,大下弘”
中西とは「怪童」と呼ばれる天才打者・中西太,長嶋茂雄と王貞治は説明不要ですね。
3チームを優勝に導いた名将が,大下をこうしたレジェンドよりも選ばれる打撃人と見ていたのです。
大下がいかに優れているのか,「天才」と言われるのかが分かる言葉だと思います。
ただ,「天才」と思われる大下ですけど,それは天性だけのものではありません。
確かに人気者になってからの大下は,多くの女性と豪遊するようになったと聞きます。
一方で,後に西鉄でチームメイトになる稲尾和久は,生前語りました。
大下はある日,トレパン一丁でバット一本持って外に出ます。
そして帰ってくると,汗ぐっしょりになっていたのです。
そう,汗まみれになるくらいバットを振ってから帰ってきたのです。
練習嫌いと言われた大下ですけど,単なる「天才」ではないのです。
実際,48年は練習不足で不振になっていたと言われています。
大下の登場によって,その後のプロ野球が変わってきます。
大下と哲治という戦後間もないスターによって,プロ野球は子供や女性をも魅了するようになるのです。
同時に,世間はホームランを求めるようになってきます。
やがて様々な打者が柵越えホームランに果敢に挑むようになり,記録が塗り替わっていきます。
48年に哲治と青田昇(巨人)が25本塁打を放ち,大下の記録を更新して本塁打王になります。
ところがその記録は翌年,藤村が46本塁打を放って大きく更新されたのです。
大下が20本塁打と記録を大きく更新してから間もなく,ついにその倍以上にまで到達したのです。
49年は藤村以外にも,別当薫(阪神)の39本,大下の38本,西沢道夫(中日)の37本と,30本塁打越えが4人もいたのです。
そして2リーグになった50年,セ・リーグ本塁打王の小鶴誠(松竹ロビンス)が51本塁打に到達したのです。
まさに,大下から「日本人のホームランの概念」が変わっていったのです。
周囲のホームランを求める声に変わり,やがて選手も柵越えホームランの量産を狙いに行き,記録を更新してもそれ以上のホームランを求める。
そして,それを見た子供たちもホームランに憧れるようになったのです。
大下の戦後間もない虹のようなアーチがなければ,世はホームラン野球になってなかったのかもしれないのです。
人々が大下に魅了したのも,戦後間もないタイミングだったからだと思います。
敗戦で焼け野原になり,多くの人が絶望的な気持ちになっていたと想像します。
その中で様々な娯楽が復活し,プロ野球もその1つでした。
人々は再び見られる娯楽に,生きる希望を求めていたのかもしれません。
そんな時に希望の象徴ともいえる「虹」のような打球を,大下が見せたのです。
こうしたことが重なった奇跡を,大下が生み出したのではないかと私は思うのです。
後に大下と西鉄でチームメイトになる豊田泰光が,生前に語ったものがあります。
豊田が語るには,「長嶋によって,プロ野球が初めて”カラー”になった」とのことです。
打っても走っても守っても,絵になって人々を魅了していたのが長嶋です。
その土体となる「白黒」を作ったのが,哲治と大下だと私は思うのです。
戦後間もない2人のスターが,子供や女性のプロ野球人気を上げました。
そうして戦前より人々がプロ野球に目が行くようになったという土台がある。
そこに,長嶋がどんなプレーでも映える野球を見せます。
長嶋に魅了するようになったのは,その前に哲治と大下が築いた「土台」があったからだと思うのです。
哲治と大下が白黒テレビを作り,長嶋がカラーにしたということでしょうか。
哲治と大下は,こうした点でプロ野球史に欠かすことのできないレジェンドなのです。
それでは,川上哲治と合わせて,その後の大下を語って締めることにします。
その後哲治は,アベレージヒッターとして巨人の中心打者を務め続けます。
1956年には,プロ野球史上初の通算2000本安打を達成します(大正生まれのため,名球会には未加入)。
「ボールが止まって見える」という言葉を残し,「打撃の神様」と呼ばれるようになったのです。
そして58年に現役を引退したのです。
大下はその後,49年に38本塁打,102打点と自己記録を更新します。
50年に打率.339で2度目の首位打者に輝き,別当の三冠王を阻止したのです。
51年は89試合で26本塁打,打率.383で3度目の本塁打王と首位打者に輝くのです。
この時の長打率は.704で,OPSは何と1.169というとんでもない数字なのです。
打率も2位に圧倒的な差をつけて,70年に張本勲が3毛差で抜くまで日本記録だったのです。
52年から西鉄でプレーし,54年の優勝,56年から58年の優勝・日本一3連覇に貢献します。
59年,打率.303を残しながら現役を引退します(規定打席には未到達)。
通算成績は,打率.303,1667安打,201本塁打,861打点,146盗塁でした。
引退後は評論家などを経て,61年に阪急ブレーブス(現.オリックス・バファローズ)で打撃コーチを1年務めます。
68年には古巣・東映フライヤーズの監督になるものの,シーズン途中で辞任します。
74年から75年に大洋でコーチを務め,その後は少年野球や女子野球のチーム監督を務めたのです。
1979年5月23日,56歳で亡くなりました。
美空ひばり,笠置シズ子,川上哲治と共に,戦後復興のシンボルとなったスーパースターの死は,大きく取り上げられたのです。
翌80年,小鶴や千葉茂と共に野球殿堂入りを果たしたのです。
戦後間もない頃,人々の心は荒んでいました。
そんな中で大下が描く虹のようなホームランが,人々に希望を与えました。
それはプロ野球界を変えることにつながり,ホームランの時代を切り開いたのです。
大下の20本塁打が戦前の記録なら,もしかしたら日本のプロ野球は大きく違っていたのかもしれません。
そう考えますと,時代が大下を必要としていたと言えそうなのです。
そんな大下が引退後に語った言葉で締めます。
”私は野球には天才も名人もいないと思っています。
天才とかなんとかは周りが言うことであって,実際は存在しませんよ。
私だって凡才です。
ONといえども凡人の中の非凡の程度じゃありませんか”
「天才」とは何か,いや「天才」なんていないということを示した言葉だと思うのです。
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