今回も監督学を書いてみたいと思います。

第18弾は,ヤクルトで初の優勝・日本一,西武の黄金時代を切り開いた広岡達朗を取り上げます。

それでは,よろしくお願い致します。


まずは,広岡の簡単なプロフィールを書いてみたいと思います。

1932年2月9日に,呉市で生まれました。

1954年に早稲田大学から読売ジャイアンツに入団しました。

1年目からレギュラー遊撃手として活躍し,打率.314,15本塁打,67打点の数字を残しました。

この年新人王となり,ベストナインも獲得しました。

それから長くレギュラーとして活躍し,阪神の吉田義男と並んでセリーグを代表する遊撃手といわれ続けました。

以降,打撃では目立った成績は残していませんが,57年には92試合で18本塁打というパンチ力を見せました。

58年には22盗塁を記録し,脚力を見せたこともあります。

66年に11試合出場に止まると,13年の現役生活にピリオドを打ちました。

引退後は評論家として活躍し始めました。

70年に根本陸夫監督に請われて,生まれ故郷の広島東洋カープのコーチに就任しました。

内野守備コーチとして,衣笠祥雄,三村敏之,苑田聡彦などを育成することで手腕を見せました。

71年をもってカープを退団し,解説者として活動を始めました。

74年からヤクルトスワローズの守備コーチに就任し,同じ早大出身の荒川博監督を支えました。

76年にヘッドコーチになると,5月から休養した荒川に代わって監督に就任しました。

徹底した厳しい指導で,76年の5位から77年は2位に躍進させました。

そして78年には,球団初となる優勝・日本一を成し遂げました。

翌年も指揮しましたが,フロントの対立で8月をもって退団しました。

その後は再び解説者・評論家として活動し始めました。

82年からカープで世話になった根本管理部長に請われて,根本の後任として西武ライオンズの監督に就任しました。

ここでも厳しい指導を実施し,就任1年目で優勝・日本一に導きました。

83年も優勝・日本一連覇を成し遂げて,85年にもリーグ優勝と西武黄金時代を切り開く結果を出しました。

しかし,85年オフにフロントとの対立で,優勝させたにも関わらず監督を辞任しました。

再び解説者や評論家の活動をしつつ,日本での指導者育成目的で「ジャパンスポーツシステム」を設立しました。

そこで「日米ベースボールサミット」を開催し,日米での交流強化とともに後身育成に尽力しました。

95年から千葉ロッテマリーンズで,日本球界初のゼネラル・マネージャー(GM)に就任しました。

下位が続くチームを変えるために,MLBで監督を務めたボビー・バレンタインを招聘し,フリオ・フランコやエリック・ヒルマンを獲得しました。

この年に2位と躍進しましたが,広岡とバレンタインは対立し,バレンタインは1年で退団しました。

翌年は5位に終わると,広岡はGMを解任されました。

その後は解説者と評論家の活動をしつつ,臨時コーチを務めることもありました。

1992年に野球殿堂入りを果たしました。

今年で87歳になりますが,歯に衣着せぬ意見をズバズバ語るのは健在で,現在に至っています。



それでは,広岡の現役・コーチ時代はどのような監督に仕えていたのでしょうか?

図表1をご覧ください。
広岡1

現役時代は,水原茂と川上哲治の下で,巨人黄金時代のメンバーとして活躍しました。

その中で,幾度となく優勝・日本一を経験しました。

単純に考えれば,この2人の影響が一番大きいと考えることができます。

それでは,広岡は仕えた監督に対してどのように考えているのでしょうか?


・水原茂

 広岡が入団したときに巨人の監督を務めていたのが水原茂です。水原に「見てみい,あの三遊間。たまには爪のあかでも煎じて飲んでこい」と言われていました。
 広岡の現役時代,阪神にはショート吉田義男と三宅秀史の三遊間がいました。「牛若丸」と呼ばれる吉田と正確な守備をする三宅と,広岡はいつも比べられていたのです。
 まさに当時,広岡にはライバルがいたのです。その吉田がいたこともあり,ベストナインは1度しか獲れてないのです。水原にそう言われたこともあり,広岡は「負けてられない」という気持ちがあったのだと思います。それが現役をここまで続けるエナジーになったのかもしれません。


・川上哲治

 実は広岡には,川上哲治に対する様々な思いがあります。結論から述べますと,巨人へ,そして哲治への反骨心が,広岡を監督として動かしたのだと思います。そして,ここまでの成績になったのかなと私は思います。
 広岡の現役時代,哲治はファーストを守っていました。しかし,広岡が言うには哲治のせいで自分にエラーがつくこともしばしばあったそうです。それを広岡は記者に,「あれぐらいの球,捕らないファーストがいたんでは,野球ができるかい」と公言したのです。それを記者が哲治に報告したことで,軋轢が始まったとのことです。
 61年から哲治が監督になると,広岡に「いろいろあったが,それは水に流して協力せい」とコーチ兼任を要請しました。広岡は受け入れましたが,結局軋轢が再燃して66年に引退を決めました。
 そこから広岡は,「いつの日かユニフォームを着て,”あの人”を見返さなければならない。指導者になるためには勉強するしかない」と強く思ったのです。その思いで,米大リーグのキャンプを見学に行ったのです。「勝つための方程式を学ぶ」が最大のテーマでした。そこでキャンプやゲーム,マイナーリーグのゲームも見に行きました。そこで学んだものを,自身の監督業に活かしたのです。
 ヤクルト時代は巨人を倒して優勝,西武時代は巨人を倒して日本一を成し遂げました。反骨心から「私の野球の最終目的は,巨人を倒すことにあった」という思いになったのです。それを実証したのです。
 ただ,83年に巨人を倒して日本一になった時に,ヘッドコーチの森祇晶とともに哲治のところへ挨拶へ行ったときの第一声は,広岡との確執を確かなモノにするものでした。哲治の第一声は,「負けりゃ,よかったがな」。続けて,「お前たちの西武はこれからも勝てるだろう。日本シリーズは藤田(元司監督)に勝たせてやればよかったがな」と言ったのです。長居は無用と広岡は思いました。
 広岡にとっての哲治は,監督業において何かを教えられたという側面ではないと思います。監督を務める上でのエナジーとなった「反骨心」を生み出した野球人ということなのかもしれません。


・根本陸夫

 広岡は根本に請われて,70年からカープの監督になりました。コーチ経験のない広岡(兼任はあったけど)を呼んだ理由は,「お前なら,やると思ったんだ」というものらしいです。
 このコーチ業で広岡は,『「人は育つ」ということを教えられた』ということを学びました。そのように感じた一番の相手は,現在カープでスカウト統括部長を務めている苑田聡彦です。苑田は外野でレギュラーをつかみかけましたが,山本浩二の台頭もあり内野へコンバートされました。そこに広岡がやってきて,苑田を徹底的に指導したのです。2年かけて指導した結果,苑田は内野の守備要員として起用されるようになりました。広岡は選手を指導することで,信念を培うことができたのです。選手に教えられたと言えばよろしいでしょうか。
 そのようにしてコーチ業を務めながら,根本の采配を見ていました。広岡はそれに対して,監督しての力量には疑問があったと語っています。根本はある意味で理想主義者で,戦力が磨かれてない段階で高いレベルのプレーを求めるところがあったのです。ただ,人の嫌がることにも躊躇はせず,多くの人から好かれる人物であったと広岡は語っています。


・荒川博

 荒川博は,広岡の現役時代共に居合道や合気道で道場に通っていました。荒川はその技を,王貞治のバッティング指導に活かして「一本足打法」を生み出しました。広岡もそれらを通じて,「臍下の一点」,「重心の置き方」,「呼吸法」などが打撃や守備に活かせると学んだのです。それを守備指導などで活かしていったのです。
 荒川の下に広岡がコーチに就任したのは,ヤクルトが「スワローズ」になったばかりの74年のことです。沼沢康一郎,小森光生も加わり,4人とも早稲田大学のOBで「早稲田カルテット」と呼ばれました。その荒川がシーズン途中で休養して,広岡が代行として就任したのは76年のことです。



以上,広岡の現役・コーチ時代に仕えた監督とのエピソードでした。

広岡の場合,誰かの薫陶という要素はあまりないかなと思います。

これらのエピソードを見ると,広岡は非常に自尊心の強い人だと私は感じています。

自分の経験や自分が学んだことや信念に対して,自信といえばいいのか,執念が強いなと思います。

そこに「川上哲治や巨人への反骨心」というエナジーが常にたぎっています

この2つが軸となって,広岡は監督業などを務めたのではないでしょうか?



それでは次に,広岡の監督としての成績を見てみたいと思います。

図表2をご覧ください。
広岡2

まず,ヤクルト時代は打撃強化に特化したように見えます

防御率が年々悪くなる一方で,1試合平均得点は優勝時には5点近くまで向上させました。

就任時防御率と平均得点が同じところからプラスにしていき,順位も上げていきました。

最下位になった時は,やはり両方の差がマイナスになっています。

打撃が低下し防御率がさらに悪化しては,順位が下がるのは当然のことです。

それが西武時代には,優勝したときは必ず防御率トップになっています

83年は打撃成績もトップを独占し,平均得点との差で2点以上のプラスになっています。

チームの平均得点も,1年目から明らかに向上しています。

西武時代においては,防御率トップが続いたということで勝ち続けたのは想像できると思います。

私が注目するのは,ヤクルト時代に何もトップでないのに何故優勝できたのかです。

打撃力が平均得点5点以上ということで,強かったというのは想像できます。

しかし,それ以上に点を取ったチームもあったのです。

投手については,防御率リーグ4位と決してよくはありませんでした。

それでも勝てたのは,広岡が監督を務めていく上で「勝ち方を知ってきた」からではないでしょうか?

「優勝するには,必ずしもチーム成績を上げればいいという訳ではない」ということを,広岡はつかんできたのではないでしょうか?

どれだけ点を取ったとしても,毎試合点がたくさん取れるわけではないです。

どれだけ投手が守っても,毎試合抑えれるとは限りません。

「勝つ試合でどれだけ勝てるのか」をヤクルトの監督を務めてきて,徐々につかんできたのではないでしょうか?

段階的に打撃が上がっているのなら,これは「確変」とは言いにくいと思います。

ただし,優勝した翌年は全てが悪くなりました。

ここで何が起こったのでしょうか?

一方で西武では,ヤクルトで成し得なかった投手特化の野球を実行していたといえます。

打撃で勝ったヤクルトとは,対称的な野球となりました。

1年目から平均得点は上げているものの,1年目でも優勝しています。

投手力を継続しているという点で,それを重視しているとはいえると思います。

継続しているということは,本来広岡が目指したい野球だということかもしれません。



それでは,これらを踏まえて広岡の采配の特徴を考えてみたいと思います。

・「人は育つもの」という信念

 現在でも,広岡が評論を書く際に重視している点でもあります。広岡はとにかく,育成することを何よりも重視していました。
 広岡の方法は,自ら手本を示して選手に教えることです。そのようにして教えられたと,今季も監督を務める辻発彦と工藤公康は証言しています(詳しくは「監督のバックボーン 辻発彦編」と「監督のバックボーン 工藤公康編」をクリックしてご覧ください)。広岡は自分が学んできたことを伝授するのに,言葉だけでなく自らの体も使って指導していたのです。
 広岡にとって,教えるとはどういうことなのでしょうか?監督がコーチに「教えたか」というと,コーチは「教えました」と言います。コーチは選手を指導して「分かったか」というと。選手は「分かりました」と言います。しかしプレーをさせてみると,教えた通りにできてないのです。頭で分かっても,体が覚えてないのです。指導は点ではなく,長い線でなければならないのです。教える方にも選手にも,根気と長い時間が必要なのです。
 そして,教えるのは高度なファインプレーではなく,ひたすら基本プレーです。「何故こうしなければならないのか」,「どうすればうまくなれるか」を理解できるまで説明し,根気よく練習させるのです。これが広岡の考える「教える」ということです。
 実際に,ヤクルト時代は水谷新太郎というショートを育成しました。コーチ時代から育成していましたが,途中で広岡が監督代行になることで,後のことはコーチに託すことになりました。教える方法が違えば水谷は混乱するので,コーチ2人に「オレがやってきたのと同じように教えてくれ」と要求しました。コーチたちは「水谷だけは無理ですよ」と反論しましたが,広岡はカープ時代の苑田の体験から「人は育つものだ」ということを説きました。コーチ2人は水谷を,広岡が止めそうなくらいに徹底的に鍛えたのです。水谷はモノにし,78年の優勝・日本一に貢献しました。ちなみにサードで角富士夫を2人のコーチに託したときに,広岡は「これはダメかも分からんぞ」と言いました。それに対してコーチたちは,「選手は育つものだとずっとおっしゃっている人でしょう」と返されました。一本取られたのです。角もモノにし,ゴールデングラブ賞を受賞するまでになったのです。
 他にも,若松勉が最初レフトを務めていましたが,センターにコンバートするとゴールデングラブ賞を獲れるようになりました。これは広岡が,外野の中で一番守りやすいのはセンターという持論があるからです(広岡からすれば,「改めていうまでもないこと」らしいですけど)。これらの理論などを利用して,選手を辛抱強く育成していったのです。
 西武時代について,その姿勢が最も顕著になったのは3年目のことです。広岡は「野球の指導者人生で,一番うまくいったと思えるのは西武の3年目」と語っています。
 それまで西武は2年連続で優勝・日本一を成し遂げていました。しかし,当時は田淵幸一,片平晋作,大田卓司,山崎裕之などベテランに頼っていたチームでした。このままでは将来はない。そう考えた広岡は84年の途中から,チームの不調もあり若手選手が主力となるチームに切り替えるとコーチ陣に宣言しました。石毛宏典を先頭に,秋山幸二,伊東勤,辻発彦が中心となるチームを目指したのです。これは広岡にとっては,「育てながら勝つ」という命題を掲げての挑戦だったのです。若手は失敗がありましたが,「それは当然だ」と割り切りました。その年は3位でしたが,翌年は優勝となりました。そして,その若手が森政権で黄金時代を作ったのです。
 広岡はヤクルトと西武両方の時代において,文字通り選手を「育てる」ことを重視したのです。それも中途半端ではなく,絶対成し遂げるという執念でです。「育成には何が必要なのか」を熟知しているからこそ,執念も芽生えたのだと思います。これらがあるからこそ,広岡は2チームで優勝へと導くことができたのです。


・専門家などから学び,すぐに導入したもの

 広岡は現役時代から,いいと思ったものはすぐに導入していました。前述の合気道や居合道なども,その一例ではないでしょうか?その姿勢は,監督においても実行したのです。
 77年にヤクルトは2位に躍進したものの,故障者が多かったのです。トレーナーには研究心がなかったのです。その時広岡が思い出したのは,かつて引退後にアメリカへ行ったときに見た,ドジャースタウンのウェイトトレーニング室の設備でした。全体のバランスを考えた筋力アップの必要性を感じ,いい筋肉を作れば怪我は減ると考えたのです。そこで,正しい理論と指導法を持った専門家によるウェイトトレーニングを導入したのです。それを通じて,しなやかで瞬発力のある強い筋肉をつくるという発想なのです。そこでは,合気道から学んだ呼吸法も取り入れたのです。
 1か月実施してみると,かなりのアップが確認されたと語っています。その時に,ジムにいた人からあることを尋ねられました。それは食生活についてです。その人は研究の結果,動物性タンパク質から植物性タンパク質の多いものに変えることで,故障が無くなったと語るのです。豆乳は吸収が早く疲労が残らない,糖分はミネラルの多い黒砂糖,穀類も玄米や玄米パンがいいと語ったのです。
 広岡は選手にそれらを食べることを勧めたのです。ただ,ヤクルトは乳酸飲料品販売会社なので,豆乳を宣伝することに叱りを受けたとのことです。これが世間で言われる食事改善なのです。
 西武では,この食事改善をさらに徹底しました。常にベストコンディションで臨むことを考え,広岡は実行したのです。合同自主トレーニングの午後,選手だけでなく夫人にも参加を呼び掛けて「自然食」の講習会を開いたのです。専門家の下で,血液などについて医学的な論理を学ばせたのです。白米や防腐剤,精製された塩,砂糖を追い払い,肉を減らし,玄米,豆腐,小魚,豆乳などを多く摂ることを奨励したのです。広岡はこれを徹底するために,若手選手の合宿,キャンプ,ペナントレースが始まってからの遠征先の宿舎でも取り入れました。
 伊東の著書によると,宿舎で白米が出されても,広岡は選手に食べさせはしなかったとのことです。どのような場所でも,玄米を要求したとのことです。それくらい,広岡は選手のコンディションを整えることに徹底して取り組んだんのです。
 他にも,77年の春季キャンプから麻雀,花札,ゴルフを禁止し,先週休み前日の食事時を除いて原則禁酒としたのです。そして,ユニフォーム姿での煙草も辞めさせました。当時のヤクルトに足りなかったものを見て,広岡は実行しました。広岡の持論では,監督は野球だけでなく,社会人としてどこに出ても恥ずかしくない常識を身につけさせることも教えないといけないというのも使命なのです。選手の親から子供を預かっているからなのです。それを身につけさせるために,今までと真逆の方針を取ったのではないでしょうか。
 広岡は選手の育成やチームの勝利につながると思ったものは,専門家の知恵を借りて実行しました。それは現代では当たり前であっても,当時はそこまでの意識はチームにおいてなかったと思います。それは,ずっとどこかから学び続けたからこそ,発見し実行できたことなのではないでしょうか?


・守備と走塁の徹底練習と先発ローテーションの導入

 ヤクルトの監督になって広岡が新たに取り入れたものの1つは,先発ローテーションです。引退後に米大リーグで見た物を,チームに取り入れたのです。
 広岡が監督になる前は,松岡弘,安田猛,浅野啓司という主力級の投手を巨人戦につぎ込んでいたため,後が続かずに黒星が並んでいたのです。それを広岡は,「先発投手が4人いたら中3日,5人いれば中4日で回せる」ということです。
 そこで松岡と安田に加えて,鈴木康二朗と会田照夫を加えた4本柱で先発ローテーションを作ったのです。4人には,「先発したら5回まではどんなことがあっても代えないぞ」と言いました。宣言を出した以上,広岡は辛抱したのです。
 こうすることで,先発投手たちに責任回数の意識が芽生えたのです。途中で崩れそうになっても,5回までは踏ん張るようになったのです。
 広岡も現役時代,稲尾和久,杉浦忠と酷使によって短命に終わった選手を見てきました。「監督やチームのエゴで選手を殺してはいけない。能力のある選手を1年でも長く活躍させるのが監督の責任だ」と考えることで,長いシーズンを見通した投手陣の整備と起用が必要と考えたのです。
 広岡はヤクルトの監督になった時,守備と走塁を重視する練習を徹底しました。野球は「投手が7割,打撃が3割」という持論があります。打撃は個人もチームも波があるので,当てにはなりません。長いペナントレースを勝ち抜いて日本一を目指すには,計算できる投手陣の強化と整備が必要なのです。そこで守備と走塁の練習と同時に取り組んだのが,「先発ローテーションの確立」だったのです。


・何事も段階を踏んでいる方針

 これを説明する前に,広岡の著書に書かれている本人の考え方をいくつか紹介します。手抜き感があるかもしれませんが,これが手っ取り早いかなと思って決めました。
 「監督1年目から『こんな采配をする』などということは,まず無理。選手の技術をどうすればレベルアップできるかということから入っていくことだ」
 「若手の選手は一生懸命やって上手なりたいのだが,どうやればいいのかが分からないことが多い。だから教育が必要なのである」
 「全体をよくしようと,ワァーッと全部に取り組んでも中途半端で終わる。いま一番必要なのは何なのか。(ヤクルト監督時代に)コーチ連中と話し合い,やはり,今は投手陣の整備こそ急務だという結論を引き出した」
 これらに共通していることとして,広岡は何事も段階を踏んで準備しているということだと私は思います。選手のレベルアップの最中という土台すらできていない段階で,監督の思うような采配などできる訳がありません。
 若い選手は上手くなりたい気持ちがありますけど,その方法が分からないまま練習していることが多いです。それを指導者が嘆くのは,何のために指導者がいるのでしょうか?コーチたちと話し合って,まず何をすることが一番なのかを決めて,徹底して実行する。これらは段階を間違えると,空回りするだけです。
 広岡は選手の育成や采配において,必ず段階を踏んでいます。そうすることで,選手やコーチ陣が混乱することなく,監督の思うようなことができるのです。それはやがて,勝利への道になっていく。広岡はそう考えているのではないでしょうか?



これらのことをまとめると,私の中で広岡が最も重視したものが見えてきたような気がします。

広岡は,確かに「野球では守りを重視している」という発言をしています。

しかし,「どのようにして勝つ」というところは,さして重要ではないのではないかと私は思います。

広岡が最も重要視したのは,「選手のどのようにレベルアップさせるのか」,「選手がベストの状態で試合に送り出すこと」ではないかと思います。

だからこそ,「育てて勝つ」や「人は育つもの」という信念になるのではないでしょうか?


西武時代は,選手に恵まれていたこともあり,防御率などリーグトップもそれなりにありました。

しかし,ヤクルトではリーグトップがなくても,優勝することができました。

これこそ,広岡が何を最も重視しているかを表していると思います。

確かに図表2の通り,ヤクルト時代の防御率は年々悪化しています。

しかし,こうは考えられないでしょうか?

1カード3試合全てで4点取ったと仮定します。

前年はエースが0失点で勝って,それ以外が5点取られて負けました。

しかし翌年は,エースともう1人が3点,1人が6点取られました。

この場合,防御率は後者の方が悪くなります。

しかし,前者は1勝しかしなくとも,後者は2勝しています。

エース級が5,6人いる例は,過去にあったでしょうか?

恐らく1,2人が精一杯だと思います。

1週間をエースで1,2勝と,1週間を全員で3,4勝するのでは,比べる必要があるでしょうか?

それを可能にしたのは,エースをつぎ込まない「先発ローテーションの導入」ではないでしょうか?

そこに走・攻・守全てにおいてレベルアップした野手の攻撃力強化もあり,ヤクルトは優勝できたと思います。

どこかでトップになったり,特化することよりも,選手のレベルアップとベストコンディションを重視したことでつかんだ優勝
だと思います。

これが広岡の勝ち方というものではないでしょうか?


広岡が走・攻・守三拍子揃ってない選手を評価しないのは,このようにしてトータルでレベルアップすることを求めているからではないでしょうか?

ヤクルトの監督時代は,優勝に貢献したチャーリー・マニエルを「打つことしかできない」ということで,その年のオフに放出しました。

評論としても,ホークスの松中信彦に対して,「打つだけの選手に,あれだけ(推定年俸5億円の7年契約)出す価値があるのか」と発言しました。

三拍子揃った能力というよりは,三拍子においてレベルアップすることを求めているのではないでしょうか?

その中心が走塁と守備ということで,そのように考えているのではないでしょうか?


広岡は選手にハードワークを課していました。

しかし,ただ課すだけでは,首脳陣の思うような練習をするとは限りません。

練習するためには,体力や体作りという体の土台が必要なのです。

そこを無視してハードワークを課しても,首脳陣の思うようにいかず,故障の原因にもなります。

だからこそ,段階を踏んで育成する必要があるのです。

段階を踏むには時間がかかります。

選手もフロントも,できるだけ早く成果を出すことを求めます。

ここはもう広岡の言う通り,時間をかけて理解させていくのです。

監督は選手,フロント,自分の信念と戦わなければならないのかもしれません。

体の使い方,食事制限をはじめとする規則,自ら実践して教える姿勢,MLBから学んだことの導入。

全て,『「選手のレベルアップ」と「ベストパフォーマンス」の為』につながるのではないでしょうか?

また,広岡も「徹している」監督だと思います。

意思疎通の徹底,指導の徹底,勝利への執念の徹底,規則実行の徹底。

物事を実行するには,妥協しなかったのです。

規則を設けることに対しても,専門家の講習会など理解させることは怠りませんでした。

規則を多く設けているとはいえ,徹する核はごくごくシンプルかもしれません。

これに「巨人や川上哲治に対する反骨心」が加わって,このような結果を出したのかもしれません。



それでは最後に,広岡に足りなかったものは何だったのでしょうか?

ヤクルトを初の優勝,西武黄金時代を切り開いたという偉大な実績を残しました。

しかし,監督通算期間は8年のみです(代行時代を含めて)。

これだけの成績を残すなら,他の弱小チームが再建を広岡に託してもおかしくないはずです。

それでは,最後にその背景を考えてみたいと思います。


・見いだせなかった妥協点

 広岡はヤクルト監督,西武監督,ロッテGMのいずれにおいても,契約期間を残して退団しています。そこには広岡の信念と球団の戦いが常にあったのです。
 広岡はヤクルトを初優勝・日本一に導いた後,新たに3年契約を結びました。そこで広岡はさらにチームを活性化しようと,次々とトレードなどを球団に求めました。しかし,元来のヤクルト球団の体質である「ファミリー主義」を持つオーナーがそれを拒むのです。ヤクルトオーナーの松園尚巳は,縁あって入った選手を大切にしていました。引退した選手をヤクルト本社の社員として雇うこともありました。そのような「家族的なチーム」は,広岡にとって「戦う意識のないぬるま湯状態」と感じていたのです。なので,大きな選手の獲得も放出もほとんどない中で戦っていたのです。79年はチームが低迷したこともあり,フロントとの対立は決定的となり,広岡はシーズン途中で退団しました(この時森祇晶らも一緒に退団)。
 西武時代も,根本をはじめフロントと対立したことで,5年契約の1年を残して退団しました。ロッテGMも1年目こそ2位になれたものの,翌年は5位に沈んたこともあり1年契約を残して解任されました。
 広岡はどのチームでも,アメリカのGMのような立場になることを球団に求めたのです。編成なども決定権を持つ「全権監督」といえばいいでしょうか?自身に「このようにすれば勝てるようになる」という自負が強いからこそ,それを願ったのかもしれません。さらに,ヤクルト,西武,ロッテのいずれも,広岡が監督やGMに就く前は弱小でした。それだけに,「俺に全てを任せないでどうするの」という気持ちもあったのかもしれません。
 それが広岡の監督やGMとしての自信であり,それを持って臨んだから結果を出したのかもしれません。しかし,その自負が強すぎたのかもしれません。広岡は自負が強すぎるあまり,相手に対して妥協点を見いだせなかったのかもしれません。ヤクルトでは「ファミリー主義」を全面的に否定,西武では根本たちの方針を否定,ロッテではバレンタイン監督のやり方を否定と相手に捉えられたのではないでしょうか?これまでのダメなところを根底から作り直して,新たな常勝軍団を目指そうとしていた気持ちが強かったのかもしれません。
 フロントが悪いのか,広岡が悪いのか・・・これはどうとも言えません。フロントの広岡への契約提示が甘かったのか,広岡が否定ばかりして求めすぎたのか・・・確かに,当時のいずれも勝ってなければ,フロントは全否定の気持ちで招聘するはずです。一方広岡も,否定ばかりでは反発するのは当たり前と思わなかったのでしょうか?やはり,卵と鶏の論理になりそうです。


・選手にも求めすぎたため,人望が薄かった

 広岡は選手に対して様々な規制を作りました。それは決して自己満足ではなく,選手を一番いい状態で試合に出すためのものです。これに対して,規制ばかりを設けられる選手は反発してもおかしくはないです。特に,趣味や食事が制限されると,自分のはけ口が無くなってしまいます。
 それでも選手が広岡に従ったのは,結果が出てきたからです。広岡の言うとおり「自然食」に変えてみることで,体の動きがよくなったと感じる選手もいました。何よりも「優勝できた」ということが信頼を得たのです。そのようなことで選手に,「この監督の言う通りにすればいいのでは」と徐々に思えるようになったのではないでしょうか。
 しかし,あまりにも様々な面で求めすぎたのです。確かに広岡の考えることは,理に適ったものだとは思います。それで結果が出たので,妥当性があったのは間違いです。それでも,あまりにも改革が急進過ぎたのではないでしょうか?
 確かにそれまで勝ってないチームなら,「勝ちたい」という意欲があるなら,新監督の方針を受け入れやすいところがあるのかもしれません。だからこそヤクルトでも西武でも,広岡の方針を選手は受け入れていったのだと思います。だた,あまりにも急激に広い範囲で求めすぎたのではないでしょうか?
 徹底して「管理」することで,監督の思うように結果が出やすいというメリットはあります。一方で,「次何かあったらこの人が助けてくれるか」と言う気持ちが選手に芽生えたら,選手は自ら考えることをしなくなります。なおかつ,この手で選手を起用すると,結果が出なくなったときに一気に信頼度が落ちます。
 もしかしたら,広岡の求めることに対して,選手もフロントもパンクしそうだったのかもしれません。実際,広岡の後に西武の監督を受け継いだ森祇晶は,食事制限などを解禁しました。選手を縛りに縛ったことで拒絶反応を起こし,かえって逆効果を生んでいたと森は考えたのです。
 広岡はコーチや選手に有無を言わさせない「トップダウン型」の監督だったのです。コーチの意見を組むことはありましたが,基本的には上からという姿勢だったと思います。


 以上の2つをまとめたものを書いてみたいと思います。歴史でもそうですが,理屈には通っても急進過ぎるものは,どこかで歪が生じると思います。
 1つの事例として,本能寺の変が当てはまると思います。当時の織田信長の政策は,それまでの武将などの価値観とは全くといって違うものでした。確かに政策は理屈として正しかったのかもしれません。しかし,それまでの価値観や武将の思い出などを全く無視したことで,武将の反感を買ったのかもしれません。それに対して信長は,「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」ということで,次々と反発する者を倒していきました。しかし,結局信長は本能寺の変で倒されました。信長は全ての武将と朝廷(天皇)も自分が支配するようにしたのです。代わって武将の頂点に立った豊臣秀吉は,武将や朝廷とうまくバランスを保って天下統一を果たしました。
 もしかしたら,広岡も信長と同様に選手やフロントに倒されたのかもしれません。あまりにも急進過ぎたことで,成績が落ちては解任の理由にされ,「辞めてほしい」という空気を作ったのかもしれません。勝っても人望が得られなかった,他球団から必要とされなかったのはここにあったのかもしれません。
 フロントにごまをすれとか,選手の顔をうかがう采配をしろと言うのではありません。私が思うに,広岡はフロントに対する権限やリスペクトが足りなかったのかもしれません。



これが広岡の一番足りなかったところではないでしょうか?

結果を出しても人望を得られなかったのです。

それは選手やフロントへのリスペクトが足りなかったということではないでしょうか?

フロントと監督,監督と選手との妥協点を広岡は見つけれなかったのかもしれません。

ノムさんと同様に,処世術が苦手なのかもしれません。

現在も紙面上で,歯に衣着せぬコメントをズバズバ言いまくります。

実は広岡本人が語るには,他球団で監督のオファーがあったとのことです。

誰にも遠慮せずに言いまくることと,フロントに大きな権限を求めすぎた故なのかもしれません。



広岡は実は,「人を残している」と言えるのかもしれません。

ヤクルト監督時代に主力だった若松勉は,2001年にヤクルトを優勝に導きました。

その時のコーチに水谷,角,松岡と広岡政権のメンバーがいたのです。

西武時代の選手では,渡辺久信,秋山,伊東,辻,工藤が優勝監督になっています。

それぞれ広岡監督の思い出を著書で語り,ナベQや辻は「学んだものがある」と語っています。

この言葉こそ,「人を残したこと」の証ではないでしょうか?

「学んだ」ということは,その人を自分の手本にしているのです。

それだけ,その人に関心を持ち続けているということです。

川上哲治,森祇晶,ノムさんといった「人を残した」と言える監督は,まさにその通りなのです。



それでは,最後のまとめに入ります。

広岡の采配は,「強制が好まれない」という現代においては,そのままやるのは難しいかもしれません。

しかし,取り入れるべきところはあるのは間違いないです。

「自然食」というのは,体が資本のプロ野球選手が取り入れていいのではないでしょうか?

理論に基づいたトレーニングや食事法は,現代でいろいろな情報があります。

しかし,何事にも「徹している」という選手や首脳陣はどれだけいるでしょうか?

そして,広岡を見て取り入れるべきものは,その執念ではないでしょうか?

無理して反骨心を持つのは,難しいと思います。

しかし,現代で「あいつに負けたくない」,「あのチームを必ず倒す」という気概を持っている人は,どれだけいるのでしょうか?

広岡も「巨人と川上哲治を見返す」という反骨心が,指導者をする上での執念を生み出したのです。

「何事も段階を踏む」,「執念を持つ」,「辛抱して継続」,「いいと思ったものは徹する」

「育て方が悪い」,「選手の育成がなってない」と言われているチームが,今どれだけいるでしょうか?

そのチームは,これらのことができているのでしょうか?

これらのことを実行するのは,そんなに難しいことなのでしょうか?

広岡達朗についてまとめ終えた今,私はこう思っています。

問題の解決は,意外とシンプルなのかもしれない

ところがシンプルは誰も受け付けず,尊いと気づかないものであると。




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皆さんに,新たな発見が見つかりますように・・・ ・・・。


監督論 ―「人は育つ」ことを選手に教えられた―
広岡 達朗
集英社インターナショナル
2004-04-05




伊東勤 勝負師―名捕手に宿る常勝のDNA
伊東 勤
ベースボールマガジン社
2013-04